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10月, 2023の投稿を表示しています

蕨郵便局人質解放で感動

二人の女性人質のうち、一人が解放された。彼女が郵便局のドアを出て来る際、立ち止まって振り返り、奥に向かってお辞儀をした。それを見て不思議な感動を覚えた。彼女は何故お辞儀したのか?犯人に対するお礼か?それとも残されるあと一人の人質に対する謝罪か????(残った女性は年上の模様だが、「私が残るわ」などと言ってくれたので、それに対するお礼か?) 日本人以外でこんなシチュエーションでお辞儀はもちろん、後ろに向かって挨拶?する民族はいないだろう。(後ろを振り向かず、走って逃げ出して来るのがほとんどだろう) 人質にされている間に犯人と人質が親密になる、という説も聞いたことがあるが。 80代とか言われる年寄が何故こんな犯行に及んだか?も興味深いが、この、解放された女性のお辞儀についてもその理由、経緯を知りたい。

斎藤野の人「日本文学のロマンチク趣味」より

 明治40年発表の「日本文学のロマンチク趣味」より: 平家の人は三世の考えがある。つまり生死以上に更に大なる世界を観じたから、彼等の処世は観照的である、快活である、即ち悠々自適したので丸で芸術家の態度である。これゆえに彼らの戦争は希臘(ギリシャ)人のように遊戯である。勝敗とか褒美とかの目的は全くない、則ち無関心で、 戦いのために戦っている 。(略)屋島の戦いの夕暮れには平家は旭の扇を船首に立てた船を艤装して海上に出た。こんな態度は武士道の人の絶対に解することのできぬ所である。これ故に扇を射られて嬉しさのあまり船に上って舞をした男をも与一は直ちに射殺したのである。 閑話休題: 那須与一(ちなみに、与一=十一男)が矢で平家の船の上に掲げた扇を射落としたのは知っていたが、平家側に、その見事な技に喜んで踊ったうつけ者がいたことは初めて知った。「敵ながらあっぱれ」というよりは戦っていることを忘れ、「すげえ、ヤバイ」と単純に喜んだんだと思う。(そもそも平家は何故、戦のさなかに扇を的にするなどという『遊び』をしたのか分からなかったが、「平家は武士ではなく芸術家の集まりだ」と考えれば得心が行く。) 上述の如く、天皇を連れて逃げる平氏に比べて源氏はドライでクールで野暮。近代的と言うか。土地を安堵することによって配下の者と契約関係になった・・・。鎌倉武士から豊臣秀吉の400年間ぐらいの間は日本人が本来の「平和好き」「みんなと一緒」「和」を忘れて「自分さえよけよければよい」になった時期。俺は日本人の戦争の強さがピークに達したのは豊臣秀吉の朝鮮出兵の時だったと思う。この時代は「戦いのために戦う」ことはなかった。その後、江戸時代に戦争の仕方を忘れ、大東亜戦争では本来の姿である、「戦うために戦」うようになった。 三世(さんぜ)とは現在・過去・未来を輪廻するということだとか。20年くらい前、、インド人は自分の命を守ろうとしないから安全教育は無駄だ、というインド経験者がいた。インド人は輪廻を信じているから、現世に強い執着はなく、死んだら、別の生き物に生まれ変わる、と思っているとか・・・

袴田ひで子さんに惚れた

 再審が話題になっている袴田事件。容疑者とされていた袴田巌さんの姉、ひで子さんの気風に惚れた。「巌の身体を戻せ、なんて野暮は言わない。ただ、少しは(検察、司法のやり方を)変えてもらわなくちゃ」だって。老人に奥さんと子供をひき殺されて損害賠償させようなんて男に比べるとホント、気風がよいとしか言いようがない。 ひで子さんにとっては、再発防止なんてのも野暮なことだろう。 加えて90歳という高齢とは思えない、しっかりいした話し方、身のこなし。国民栄誉賞でもあげて、「日本人の理想」としたい。 事ここに至ると、真実なんてどうでもよいから、ひで子さんに免じて、巌さんは無罪にして欲しい。

囲碁の仲邑菫さん会見 韓国移籍に「高レベルでの勉強が私には必要」(朝日新聞デジタル)

 朝日新聞デジタルに仲邑菫さんが韓国移籍について記者会見した様子が。 ひと言でいえば韓国の方が強いから行くということ。成長などとは一言も言わない。強い競争相手がいる環境に身を置きたいと。そうなんだ、成長なんかでなく、強くなりたい、強い相手に勝ちたいという一心だ。すごくいい。 日本の囲碁、頑張れ!韓国から移籍してくる奴が出るくらい強くなれ!フィギアスケート、水泳、サッカー・・・何年か先を見通して子供の世代から強化すれば強くなった例はある。菫さんの移籍が日本の囲碁界にカツを入れることを望む。

斎藤野の人「泉鏡花とロマンチク」より

 明治40年発表の「泉鏡花とロマンチク」よりにカントの言葉として以下が紹介される。 「知識と言うものは万物が如何なる風で吾等に見ゆるかを知り得るものであるが、万物其の物は何であるかは知り得ない。吾等は万物の実体を知ることが出来ない、これ故に知識や理会の上に世界観を組み立つることは出来ぬ。」  ここにプラトンの「洞窟の比喩」を思い出す。人間に見えているのは実体ではなく、光に照らされてできた「影」だ・・・この実体を求めることが生きる目的だと。(後にこの「実体」が「神」になるのだろう) 「分かった」と思い上がったり安心したりせずに、万物其の物や実体を探し続けることが生きる事だと言うことか。

斎藤野の人「国家と詩人」より

 明治36年発表の「国家と詩人より」: 露国文豪シューコースキ嘗(かつ)てアレキサンドル2世に書を送りて曰く「帝王と雖も、其最大にして最神聖なる本文は、人となる事なるを忘るる勿(なか)れ」と。真に「人たること」は人生の第一義也、個人の活動と力とを外にして社会国家一切凡て空なるのみ。故に幸福を云い平和を云うものは、先ず「人」の福音を教えざるべからず。かの漫(みだり)に国家の理想を説き膨張を云うはこれ阿諛(あゆ)のみ、大なる偽善のみ、大なる虚栄のみ、大なる反逆のみ、知らずや国家を滅するものは常に反抗の人にあらずして、此の如き阿附の徒、偽善の輩なるを。 斎藤野の人(さいとうののひと)は高山樗牛の弟。1878年生まれ、1909年死去。これが発表されたのは25歳の時。40数年後、日本という国家が「阿附の徒」によって滅することを見事に言い当てていた。死ぬのが早かったとも言えるが、若くして日本の未来を言い当てた文章を残したから、それで十分じゃないか。百年も無駄に生きる必要はない。 阿附:「へつらい従う」こと…日本人は、へつらい従わないまでも、流行を追っかけることに夢中になる。 ここに、山本七平さんの「人間」という言葉を思い出す。自分を含む世界すべてを作り支配する「神」のない日本では「人」は、昨日、先週、先月、去年・・・過去を、そして親、祖父母・・・祖先をそして自然を神様とする。しかし日本人の「神様」は唯一絶対ではないから、浮気心を起こしてみんなで流行を追っかけ、時には阿附する。野の人が思い描いていた人はそんなんじゃなくて「個人」だが・・・皮肉なことに唯一絶対の神を信じる人たちは、神とペアになって「個人」になる。つまり、祖先も親も関係なく、一人一人がバラバラに神様と契約する。さて、日本人らしい「個人」なんてあり得るのか?また個人なんてものを追求すべきか?個人なんてなくたって、ときどき滅んだって、運がいいから日本は生き残る、とも思うが。

朝日新聞は「在日米軍の変容 リスクも含めた説明を」と野暮なことを

 10月27日のデジタル朝日掲載の社説を以下抜粋: 中国のミサイル能力向上に対抗するため、在日米軍がその姿を大きく変え、自衛隊との連携も一層強めている。 沖縄をはじめとする地元に対し、 新たな負担やリスクの説明を欠いたまま、軍事的な態勢づくりが先行することは、危ういと言わざるを得ない。 (略)  米空軍は「機敏な戦力展開(ACE=Agile Combat Employment)」という新戦略を導入した。有事の際、 極東最大級の嘉手納など、標的になりやすい基地から、航空戦力を複数の拠点に分散させる。自衛隊の基地だけでなく、民間空港の利用も視野に入っているに違いない。  今年1月の日米外務・防衛担当閣僚会合(2プラス2)の共同発表では、「空港及び港湾の柔軟な使用」の重要性が強調され、「演習や検討作業を通じて協力する」ことが決まった。その後、民間航空以外の目的には使用しないことになっている沖縄県宮古島市の下地島空港を海兵隊が訓練に使おうとしたり、海軍の掃海艦が石垣島に寄港したりといった動きが続いている。共同訓練の拡大とあわせ、 県民の間に不安や懸念が広がっている のも、もっともだ。  中国の軍備増強に、日米が連携して備える必要があるとしても、 米軍や自衛隊の行動範囲や施設使用が、地元の理解を置き去りに、際限なく広がることは許されない。  攻撃をしのぐために分散を行えば、分散先にも攻撃を受けるリスクが広がることは避けられまい 。住民が巻き込まれる恐れに、どう対処するのか。沖縄の負担軽減という約束はどうなるのか。同盟強化を推し進める日本政府には、国民に対し明確に説明する責任がある。 <抜粋以上> さて朝日新聞(の社説を書いている人)は、住民が戦争に巻き込まれることについてどう考えているのか?まさか、中国(でもどこの国でも)が攻めてきても住民が巻き込まれることをゼロにして守ってくれ、(自衛隊や米軍の人は何人死んでもいいけど)とでも言うのか?中国がどう攻めてくると想定していてどう守るつもりなのか説明しろ、と言いたげだ。その説明が中国に筒抜けになると考えれば、嘘の説明を沖縄住民にするしかない。米軍や自衛隊の行動範囲が際限なく広がるのは許されないのだそうだが、じゃあ、ここまで広げますよ、と説明すればご満足か?それを聞いた中国はそれを超えた攻撃をしてくる。それでは沖縄県民以外の...

Johnny Hartmanを聞きながら

 All of me-The Debonair Mr. Hartman というアルバムを聞く。Bethlehemというレーベルから出た1957年録音のアルバム。I get a kick out of you、タイトル曲のAll of meなど当時人気絶頂だったFrank Sinatraとダブる曲を歌う。 声量はHartmanの方が豊か。Sinatra同様、クルーナーと言われる、耳元でささやくような歌い方。ただし、Hartmanは黒人で声も低い。Sinatraはイタリア系でマフィアのバックアップもあり、Elvis Presley(ロックンロール)出現前のアメリカ男性歌手のアイドル的人気者だった。Hartman、歌は十分上手と思うが、何故人気は大したことなかったのか?違いは日本の演歌でいう「こぶし」の違いだと思う。つまり、楽譜の通りでなく、崩して歌う、その崩し方が白人の若い女子にウケるかどうかだったろうと思う。(まあ、マフィアの応援の方が大きかったと思うが)Hratmanの崩し方は優等生的、教科書的で、Sinatraは兄ちゃん風・やんちゃ坊主風だ。

今更、小泉進次郎

 10月26日、27日連日、NHK国会中継を見る。(とは言ってもせいぜい1時間程度だ) 26日は参議院、27日は衆議院の予算委員会。各党の「予算委員?」が首相以下の大臣に質問し、それに大臣が答えるというパターン・・・しかし、この質疑が予算とどういう関係があるのかは不明だ。 参院は我が小野田紀美がいないかTV画面を探したが見かけなかった。(予算委員じゃあないから?) さて、衆院では、自民党議員で派閥に所属していない人たちが質問のチャンスを与えられており、小泉進次郎が現れた。親父も耳目を集める(”キャッチ―”という俺の嫌いな言い方が相応しいか?)言動で人気を集め、首相にまでなったが、息子の進次郎の質問も聞いていて、とても面白かった。 ①まず働き方改革について  居並ぶ大臣を見回して、出番のない大臣は何故、ここに何時間もいるのか?(必要な時だけ会議に出ればいいようにできないのか?こんな会議をやってる間にも世界は時々刻々変わっているのだから大臣が答弁もせず無駄にこんなところにいるのはおかしい。国民に率先して働き方を改革してるところを見せろ。  この予算委員会の前に、5回もパネルを使うかどうか聞かれたが、ことほど左様に国家運営に官僚の皆さんの手間暇をかけすぎでないか?(ちなみに彼は俺同様、支援者に対するパフォーンマンスとしか思えないパネルなんて使わなかった・・・)→口先だけで働き方改革なんて言うのはやめ、自ら、国民に働き方改革を示せ。 ②タクシー運転手の「地理試験」なんてやめろ  東京、神奈川ほかでタクシー運転手になるについてA地点からB地点に移動するルートを質問され、それに正しく答えないとタクシー運転手になれないんだそうだ。(俺はこんな試験、絶対にないと思ってた。だって、「不慣れなので行き方が分かりません」て堂々と言うタクシー運転手に何回も出会ったから。)進次郎さんの言う通り今どきはナビがあるんだからこんな試験不要だろう。 ③インドは偉い 毎年8月6日、インドの下院では広島の原爆犠牲者のために黙とうを捧げるのだそうだ。広島出身の岸田首相に対し、インドは今や世界一の人口だし、もっと大事にお付き合いしたら?と。 進次郎の質問で面白かったのは「へえ、そうなの!?」という、知らなかったことを教えてくれるところ。キャッチ―だけではないかも知れないと思って期待することにした。 ...

農民作家・山下惣一

 1960年代、農業水産省(当時の農林省)がミカンを作れ、ミカンは儲かる、と”指導”したことがある。それを真に受けて結婚式の翌日から山を開墾しミカン畑を作った男がいる。皆が一斉にミカンをつくったのでミカン価格が暴落、その男は指導員に食ってかかった。”指導員”は言った。「確かに”指導”はした。しかし、その通り実行するかどうかはアンタの責任だ」・・・農民作家・山下惣一が書き残した。 山本七平さんも言う通り、「あたかも自分の頭で考えだしたように」指導する人がいて、その通りにやって失敗したってこのザマだ。「あたかもそれを履いて生れて来たように」ハイヒールを履きこなしている人を真似てハイヒールを履いて転んで怪我しても、怪我した人の”自己責任”だ。 お国やコンサルや評論家や文化人、ファッションモデル・・・が言うことを真に受けて何年後かに悔恨するか(山下さんお場合はミカン畑を悔恨して数年後に悔恨・・・)は運次第か? 悔恨したくないなら、他人が言うこと、流行ってることに乗るまえに自分の頭で考えるしかないだろう。結果、失敗したら、「なんであの時よく考えもせずに、あんなことをしちゃったんだろう」と悔恨するのではなく、「あの時の俺の考え方のどこが間違っていたのか?」と反省することだ。 さて、NHK「日本人は農なき国を望むのか~農民作家・山下惣一の生涯」で一番印象に残った山下さんの言葉は『田圃は食物連鎖の場になっている。米は輸入できても食物連鎖は輸入できない』だ。林業も同じ。国土保全の基本になっている。 食物連鎖にしろ、国土保全にしろ、いずれ商品化され、輸入されるようになるのか?ロシアでは(多分アメリカの方が古いのだろうが)ワグネルなんて言って戦争も商品化している。資本主義って「課題」を見つけてはそれを解決するという謳い文句であらゆるものを商品化してやまない病気(業)だ。課題は自分で生み出す、と言ってもよい・・・マッチポンンプ・・・マルクス様の言う通りで課題解決の中に次の新しい課題が内蔵されていて、課題が解決したと思ったとたんに次の課題が生まれて来る。 番組の最後は、「これからの農業は”小農”(=Family Farming)だ」「成長より安定、拡大よりも持続、競争より共生」で終わっている。山下さんは子供の時やらされた「肥かつぎ」が嫌いで農業が嫌いになり家出までした。しかし、結局、...

因果は巡る核兵器

NHK映像の世紀 バタフライエフェクトにインスパイアされて:  1949年8月ソ連は原爆実験に成功したが、これを境に、アメリカとの戦争に自信をつけたスターリンは、金日成に南進をそそのかすようになる。ソ連はこの原爆の開発に北朝鮮で取れるウランを使った。このウランは、日本が朝鮮を植民地としていた時期に開発しものだった。 そして1950年6月北朝鮮は南進し(朝鮮戦争)、国連の安全保養理事会は北朝鮮に対する非難決議をする。 1949年10月に中国では共産党が中華人民共国を建国し、ソ連は中華人民共和国に代表権を認めない国連に抗議して安全保障理事会をボイコットしていたので安全保障理事会で北朝鮮を非難する決議に拒否権を行使しなかった。 朝鮮戦争向けの武器その他補給物資の需要が大きく伸びて日本の景気は良くなり、日本の復興に役立った。同時に、日本から朝鮮半島に出て行った米軍に代わって日本人が自力で日本を守るべく、違憲の存在である自衛隊もできた。 マッカーサーもアイゼンハワーも軍人は朝鮮戦争に原爆を投入したがったが、トルーマン大統領は許さなかった。マッカーサーは民主党のリベラルなトルーマンが大嫌いで、トルーマンと会った時にも(上官である大統領に)敬礼しなかった。 金日成はソ連(その後原爆開発に成功した中国にも)原爆技術を教えてくれとねだったが、ソ連も中国も虎の子の技術は教えてくれなかった。ソ連崩壊後、ウクライナで失業した原子力関連技術者が北朝鮮に渡って原爆開発をし、2006年実験に成功した。

朝日新聞は「首相の答弁 国会論戦 形骸化許せぬ」だとさ

 10月25日付け朝日新聞デジタルに社説として以下:  議場では、具体的なことは何も語られないのに、院外では既成事実が着々と積み上げられていく。これでは、 国会の論戦 にどんな意味があるのか、国民に疑問を持たれても仕方あるまい。立法府の形骸化を意に介さない、岸田首相の政治姿勢が問われる。  首相の所信表明に対する各党の代表質問が始まった。首相が演説で「経済、経済、経済」と連呼した、経済対策が主要な論点だ。  首相は先週、税収増を国民に還元するとして、自民、公明両党の幹部に対し、所得税の減税を含む具体策の検討を指示した。しかし、週明けに行われた演説に「所得減税」という言葉はなかった。  最初に質問に立った立憲民主党の泉健太代表はまず、この点を取り上げた。所得減税を行うのか、その期間や対象をどう考えているのか、年内に給付できる手当にすべきではないかと、ただした。  首相は与党の正式な議論が始まっていなかったので、演説では触れなかったとして、所得減税の検討は認めたものの、 泉氏の個々の問いには何ひとつ答えなかった 。  ところが、政府内からは早くも、所得・住民減税は1人4万円、住民税非課税世帯には7万円の現金給付といった具体案が飛び出している。 国会軽視 のそしりは免れまい。  日本の財政は借金頼みで、防衛費「倍増」を賄うための増税も控える。少子化対策の財源として、保険料の上乗せ徴収も検討されている。物価高の影響が深刻な困窮層への給付は必要だが、大規模な減税が求められる局面ではない。それでも、首相が必要だと信じるなら、正面から 国会で議論 に応じるべきだ。 (後略) 国会の論戦/国会で議論:  なんて誰が期待しているのか?自分の支援者、自分に投票してくれそうな人向けのパフォーマンス合戦をやってるだけで議論するつもりがありそうなのは維新の会ぐらいだろう。 泉氏の個々の問いには何ひとつ答えなかった: 国会議員の中でもバカさ加減全開なのは泉氏だ。こんなおバカの相手をするのはおバカだ。百歩譲って泉氏はおバカでないかも知れない。おバカでなければ、立憲民主党というおバカな寄り合い所帯ではああいうパファーマンスしか出来ないのかもしれない・・・いずれにしてもなるべく相手にしない方が精神衛生上も、国会運営上もよろしい。 国会軽視: 日本では民主主義はオワコンだ。国会は形骸化を通り越...

全日本棍棒協会

 奈良県宇陀市(山の中のクソ田舎)で全日本棍棒協会なるものを作り、棍棒飛ばし大会という徹底的にバカバカしいい大会を催す若者がいる。実は棍棒を飛ばすなんてことより、棍棒を売ってその金で「里山を守る」のが裏の(真の)目的だが、主催者(棍棒協会長)の東さんが照れ屋で真面目なところを見せたくないのでシャレのめす。今年の棍棒飛ばし大会のポスターには「人生を棒に振れ」と大書する。 気に入った。 バカバカしくってよい。東さんも「成長」なんて言うのかなあ? キャリアなんて捨ててかかっているところも清々しい。昔風に言うと「ドロップアウト」というのかな?落伍者・・・落語に通じるものがある。「里山作りには200年かかる」と言う。タイパには無縁な感じでよい。これで飯が喰えて、里山なりなんなり、他人様の役に立つんなら素晴らしい人生だと思う。

仏教を毛嫌いしていた高山樗牛が何故、日蓮を賛美したのか?

 明治30年(1897年)に「日本主義」を発表し、日本人は現世を大切にするから来世だとか前世などを云々する仏教なんて百害あって一利なしだ、と徹底的にこき下ろした高山樗牛が、その「舌の根の乾かぬ」明治35年(1902年)に「日蓮上人とは如何なる人ぞ」という日蓮を賛美する文章を出す。田中智學という日蓮主義運動家に感化されて日蓮を賛美するようになったらしい。 ここで田中智學をWikiる。1903年に智學が、日本書紀の、神武天皇の詔勅にある「 掩八紘而為宇」= 八紘(あめのした)を掩(おお)ひて宇(いえ)にせむ   をもとに造語したと言われる”八紘一宇”とは: 人種も風俗もノベラに一つにするというのではない、白人黒人東風西俗色とりどりの天地の文、それは其儘で、国家も領土も民族も人種も、各々その所を得て、各自の特色特徴を発揮し、燦然たる天地の大文を織り成して、中心の一大生命に趨帰する、それが爰にいう統一である。 といういかにも日本人らしい、唯一絶対の神のもとの統一ではなく、民族民族によって違った特徴を発揮した上で統一する、という今でいうダイバーシティに富んだ考え。ちなみに八紘の八は「たくさん」、紘は「ひも」の意とすれば、「たくさんのバラバラのひもを一つにまとめる」となる。 日蓮をWikiれば: 日蓮は浄土宗(法然)の”極楽に行きたければ一心に「南無阿弥陀仏」と唱えろ”、という教えを徹底的に攻撃し、「立正安国論」を時の執権・北条時頼に提出して浄土宗・真言宗に代表される間違った仏法を信じるのをやめないと国は乱れ、外国からも侵攻される、正しい仏法=法華経に従え、と説いた。このため、浄土宗からは襲撃され、幕府によって流罪とされたがそれでも都合3回、幕府に意見し、働きかけた。しかし、幕府は聞く耳を持たなかった・・・つまり、日蓮は日本を末法から救うために既存仏教を捨てて法華経を信じろと権力者に意見し、その結果、迫害され命を狙われたがそれでも屈しなかった。 仏教嫌いの高山樗牛が日本の仏教の親分のうち、日蓮だけ好きになった理由がなんとなく分かる。国の庇護を受けてぬくぬくとしている仏教はダメだが、国を救うために命がけで権力にぶつかっていく日蓮はリスペクトする、ということだろう。これは革命、改革を目指す人、反権力の人には左右の別なく受けると思われる。 閑話休題: 同じく田中智學の影響で日...

坊さんという商売もブルシットジョブだ!

 臨済宗妙心寺派の某寺に行ってきた。若くして病死した従兄の33回忌及びその父親の25回忌。施主はこの従兄の妹で家を継いで商売をしている関係もあって親戚づきあいにもそつがない。この従姉の母親とその姉である俺の母親は奇しくも8年前に数週間の違いで亡くなった。 1970年代から1980年代は俺たち世代の結婚式で親戚(いとこ)が集まった。それが終わると1990年代以降、俺たちの親が死んで親戚(いとこ)が集まるようになったが、親が死んで親戚(いとこ)が集まるのも俺の母親の葬式でほとんど終わった。俺たちの子供の世代は結婚(結婚式)をしなくなるから、親戚(いとこ)が集まるのは俺たち自身の葬式しかなくなる。 俺の父方、母方それぞれ5、6人の兄弟(俺から見れば叔父叔母)がおり、彼らがそれぞれ2,3人子供を持っているから、俺には父方母方合計で20人以上のいとこがいる。すでに死んだのは上述の若くして病死した従兄と、あと一人、コロナの最中に死んだのが一人。他はまだ死んでない(と思う)。これからどんんどん死んでいく。葬式に出かけるのが忙しくなりそうだ。そうなる前に、コロナも明けたいいタイミングでこの従姉が親戚(いとこ)が集まる会を催してくれた・・・33回忌なんて取ってつけた理由だ・・・その気遣いが有難くまた嬉しかった。 さて、寺で感じた違和感: ①寺の入り口の門(山門?)のてっぺん両端に「金のしゃちほこ」があった・・・一緒にいた姉に聞いたら先日TVで京都の寺にも金のしゃちほこがあるのを見た、と。「へえ、そんなもんか」と思う。 ②本堂に入って右は男、左は女、と男女別席。差別じゃないの?「体は男だけど心は女」の人はどっちに座るの?なんて思う。 ③お経の冊子が配られる。それに載っている般若心経と白隠禅師の座禅和讃をみんなで読め、と言われる。「客=参列者」の中には統一教会や創価学会の人やキリスト教徒だっているかも知れない。こんなことを強制したら「信教の自由」を定めた憲法違反だ。俺自身は信じていないお経など読まない。冊子を見るだけ。見るのは、もしかしたら面白い文が書かれているかも知れないと思うからだ。そしたら座禅和讃に、気に入ったレトリックを発見。悟りを開いていない人間の悩みについて「たとえば水の中にいて 渇を叫ぶがごとくなり」と。悟りを開いてないと水の中にいても水がないと勘違いして「喉が渇い...

高山樗牛 「日本主義」を上河内岳夫さんの現代語訳で読む

いとこの法事に行く途中、電車の中で高山樗牛の「日本主義」を読む。樗牛は美文で知られた人。使われている漢語が読めないから苦労する。それでも読めない漢語を「こう読むんだろう」と当てずっぽうで2回3回繰り返して読むとそのうちリズムよく読めるようになって快感を感じる。(これが美文と言われるゆえんだ。タイパ最悪。そして、これが『読書百遍、意自ずから通ず』だ。)しかし、なにしろ当てずっぽうの読み方、意味では心もとないから、ネットに現代語訳なんて載ってないかな、と探すとあった。ここでネットに頼るようでは『読書三遍』くらいか? 以下、上河内岳夫さんという人の前解説:   明治政府の欧化政策に対する反動として、明治20年代以降に、ナショナリズムの思想の台頭がみられた。たとえば、①徳富蘇峰・山路愛山らが、雑誌『国民之友』を発行して「平民主義」を、②三宅雪嶺・志賀重昂らが、雑誌『日本』を発行して「国粋(保存)主義」を、③陸羯南が、新聞『日本』を発行して「国民主義」を提唱したことなどがある。  高山樗牛らの「日本主義」も、やや時期的に遅れるが、このような潮流の一つに位置づけられる。明治30年5月に、井上哲次郎・元良勇次郎・湯本武比古・木村鷹太郎・竹内楠三を発起人として大日本協会が結成され、雑誌『日本主義』が創刊された。同年6月に高山樗牛は、編集主幹に就任していた雑誌『太陽』に「日本主義を賛す」を発表した。実はこの稿には、異稿が存在する。樗牛が、明治32年1月に刊行した評論集『時代管見』には『太陽』に掲載された稿の原形にあたる「日本主義」(明治30年5月稿)が収録された。両者の一番の違いはタイトルで、それ以外は段落の設定と語句に若干の相違がみられるだけである。このことが起こったのは、大日本協会の発起人ではなかった樗牛が、実質的にこの運動の指導的役割を担うように変化したことが影響していると考えられる。(後略) ここで俺の解説・コメント: 「日本主義」が書かれたのは、明治政府の欧化政策に対する反動とか、せっかく日清戦争に勝ったのに三国干渉で取り分を減らされたことへの反発だ、などと言われるが、俺の印象は「恐る恐る始めた日清戦争に勝って自信をつけ、『坂の上の雲』に向けて上昇し始めた日本人への激励」という感じ。樗牛が盛んに言う「建国の精神」とは、日本書紀に出て来る初代天皇神武の詔勅から田中智學...

普遍と特殊(個別)

一神教においては神様が絶対だ。絶対正しくて思考や行動の基準・規範になる。つまり、人間の外に基準や規範がある。日本人にとって人間の外側に基準や規範はない。人間の中に基準・規範がある。 となると、一人一人で基準・規範が違うことが前提となる。契約・法律・・・一神教の世界でいったん言葉になったものは神同様、絶対的拘束力がある。絶対守らなければならないから、守りにくくなれば、守れるように変更する。一方日本では契約や法の拘束力は弱い。律儀に守ろうと思われないから、守りにくくても変えよう、とはならない。 一神教の世界ではベストプレーというものにスタンダードがある。つまり普遍的なベストプレーというものがある。従って、そのベストプレーには客観的な評価基準があって、プレイヤーも何をどうやれば評価がどうなるのか分かってプレーする。(評価結果に説得力がある。)一方、日本では①極端な個人主義と②忖度主義。 ①個人がその強みを最大に発揮し、かつそれがチームの勝利に貢献するなら彼は神になる。例えば野球のホームランバッターがホームランを打ってチームに貢献すればファンは彼を神とよぶ。彼がチームのためだといってバントをいくらうまく決めたところで神とは言われない。 ②個人がチームや上司の気持ちを忖度して自分の強みを殺すこともある。それを本人が自分の強みだ、と思ってしまうことも多い。この場合、プレー自体もさることながら、プレーヤーのチームを優先する態度・人間性も評価される。 上記①②においては普遍的な評価基準がない。どこに着目するのかによって評価は大きく違ってくる。 一神教のベストを尽くす(do one's best)は普遍的な、ベストプレイの標準、共通認識されたベストを実現しようとする試み。多くの人が何がベストプレーかを共有している。 日本の頑張るは、まず、個人が上述の①②のいずれかを選択した上でベストプレーを行う。圧倒的に②が多いが①が理想。 英米(アングロサクソン+ユダヤ)は古くは民主主義、資本主義、帝国主義、特許、最近では核兵器、宇宙技術、バイオテクノロジー、IT、金融などを開発・発明し、それらを誰にでもできる普遍的なものとして他国に布教した。これは彼らが教えるのが好き、伝道が好きというのではなく、本能的に自らの発明品の普遍性を信じ、どんどん世界中に布教したくなるように見える。英米人は技術...

日本人とユダヤ人より その5

 十四 プールサイダー より抜粋: さる高名なファッションモデル嬢は、ハイヒールを履いて生れて来たように見えたという。これはこの人々の特技で、全ての衣装を、まるで自分が生まれながらに身につけていたかのように優美に着こなす。だがしかし、率直に言えば、彼女らは着せられているのであって、その衣装を考案し、作成したのは別人であり、彼女らにそれを生み出す力はない。日本における知識人とか文化人とか言われる人々も、多くはまさにそれで、主として西欧で流行している思想を、実に巧みに自分の脳細胞にまとうから、それがまるで、生まれるときからそいう思想を持っていたかのように見えるのである。ということは、あたかもその人が、その思想を生み、育て、かつ発表しているような錯覚を人々に抱かすのである。ある人々の、流行の思想の「着こなし方」のうまさは、まさに神業ともいえる。そして流行の変転とともに、いつも実に巧みに着かえつつ、その間を、演技でつないで行くから、常にステージに立っていられるわけである。だがパンタロンをパタントロンとひきずってころび、腰の骨を打った女性がいても、それはその女性が悪いのであって、ファッションモデルには何の責任もないと言えるなら、脳細胞に巧みにまとっていた思想を頭からすっぽりかぶって目が見えなくなり、穴に落ちて一生を棒に振っても、それは振る方が悪いということになるであろう。いわゆる識者や、文化人、ある種の大学教授や評論家の卓説を、ファッションショーのように見ているなら、「取るべきものは取り」「取りたくないものは着せておけ(言わせておけ)」という言い方は正しいであろう。その人には自らの衣装があるのだから。 (略)マグロのトロが美味しいなら、これを切ってもっとも純粋な形で(ということは、切り身をデンと銀の皿にでものせて)供すればよい、他のものがあっては、かえってその真味が味わえない、とするのがユダヤ人の考え方(というより生き方)である。まさに「土の器に黄金を盛る」行き方なのだ。中が純金なら、器はどうあれ、純金は純金であり、中の金にまじりものがあるなら、容器がいくら立派でもそれは金として価値がないことは事実だが、「かく申すも、それは理屈なり」であろう。文学でも思想でも同じであって、日本に紹介するときには、紹介者によって必ずツマがつけられている。ツマは食べられずにごみ箱に直行し...

日本人とユダヤ人より その4

 九 さらに「日本教」についてより抜粋: 日本教は人間教であるから、神の方へ人間がタッチして行く。従って「触らぬ神に祟りなし」である。「人間が神に向かって、自分のほうから身を投げ出す、その投げ出し方は無心(無条件の信頼)でなければならぬ」ということであろう。従って投げ出すことに対して反対給付を求めれば「ご利益宗教」と軽侮される。とすれば、幼児が母親に身を投げかける、といったことになろう。この考え方の中に、一口にいうなら神と人間の関係は「水臭いものではなく」「肉親的なものである」という考え方がある。(略)旧約聖書に記されているように、「神はイスラエルを選んで自分の民とした」ということは、多くの民族の中から選ばれて「養子」にされたされたことで、養子になるには当然、さまざまの契約があったわけである。(略)一方、旧約聖書には「イスラエルはヤハウェを自分の神とした」とはっきり書かれているが、これは「養子にされ、養子になった」ということなのだが、おそらく日本人の神概念と、根本的に相容れぬ点がある。もし、太古から日本人が「天照大神は日本人を選んで自分の民(養子)とし、日本人はそこで天照大神を自分の神(養父)とすることになった、そしてこの養子縁組に関して、細かい契約があった」と考えていたなら、日本人の生き方が、今と全く違ったものになっっていたことは想像に難くない。 閑話休題: 日本人は親ー祖父母・・・とつながって元をたどれば全員天照大神の子孫。これが日本教の神話だ。従って人間は神様の養子ではなく、神様と血のつながった子孫ということになる。実の親子なので水臭い関係にはならず、赤ちゃんのような純真無垢で相手を疑うことを知らない、信頼しきった心(無心・赤心)で赤ちゃんのように親(=神)に身を投げ出す。こうやって出来上がった人間関係は、江戸開城を控えて「腹を割って」話し合った勝海舟と西郷隆盛に見られるように、言外の信頼関係が出来上がって無血開城と言う奇跡を起こす(二人の間、或いは二人に神が宿る)。これが一神教の場合、赤心になれずに腹の探り合いが行われ、腹を割った話し合いではなく、「交渉」なので、互いを信頼することは出来ない。問題は日本人同士ならこういうことが起こり得るが外国人との交渉では、こんなことは、まずありえないということだ。

日本人とユダヤ人より その3

 七 日本教徒・ユダヤ教徒 より抜粋: (略)日本教の中心にあるのは、神概念ではなく、「人間」と言う概念なのだ。 「人の世を作ったものは神でもなければ鬼でもない。やはり向こう三軒両隣にちらちらするただの人である…草枕を読まずに日本を語ってはならぬ。(略)五年も十年も人の尻に探偵をつけて、人のひる屁の勘定をして、それが人世だと思っている。そうして人の前に出て来て、お前は屁をいくつひった、いくつひったと頼みもせぬことを数える。前へ出て言うなら、それも参考にして、やらんでもないが、後ろの方から、お前は屁をいくつ、ひった、いくつ、ひった、と言う。うるさいと言えば猶猶言う。よせと言えば、益々言う。分かったと言っても、屁をいくつ、ひった、ひった、と言う。そうしてそれが処世の方針だと言う。方針は人人勝手である。ただひったひったと言わずに黙って方針を立てるがいい。人の邪魔になる方針は差し控えるのが礼儀だ。邪魔にならなければ方針が立たぬと言うなら、こっちも屁をひるのを以って、こっちの方針とするばかりだ。そうなったら日本も運の尽きだろう。」 漱石、この西欧の古典、日本の古典、中国の古典、仏典までを自由自在に読みこなし、自分の作品の中に縦横に駆使しえた同時代の世界最高の知識人が到達したのは、「人の世を作ったのは人だ」という、日本教の古来から一貫した根源的な考え方である。(略) 川端康成氏がハワイ大学で言ったことをお忘れなく。日本では「以心伝心」で「真理は言外」であるのだから。従って「はじめに言外あり、言外は言葉と共にあり、言葉は言外なりき」であり、これが、日本教「ヨハネ福音書」の冒頭なのである。(略)日本教の根本理念を形成する「人間」なるものの定義が、すべて言葉によらず、言外でなされている。従って日本教の世界に外国人は絶対に入れないし、外国の宗教も日本には絶対に入れないのである。(略)法外の法、言外の言、この二つが日本教の根本理念である「人間性」を定義しており、一切の異邦人は、この聖域に近寄ることを許されない。(略) 憲法改正(悪)絶対反対というが、日本人はいついかなる時代にも憲法を改正したことがない。(略)面白いのは大宝律令である。時勢が変わって、律令では規制できなくなったら、これを改正すればよさそうなものをあえてせず「令外の官」を設ける。検非違使はこの「令外の官」だが、面白い...

日本人とユダヤ人より その2

 六 全員一致の審決は無効 より抜粋 日本では、全員一致の議決は、最も強く、最も正しく、最も拘束力があると考えられている。だがユダヤ人はその逆で、その決定が正しいなら反対者がいるはずで、全員一致は偏見か一時の興奮の結果、または外部からの圧力以外にありえないから、その決定は無効だと考えるのである。日本では極端な場合、明らかに全員ではないのに、全員の如くに強弁する。たとえば「全国民が一致して反対している安保を強行し・・・」といった言い方である。 ユダヤ人の弁証法の最も奥底にあるのものは、人間には絶対的無謬はありえないということであろう。従って全員一致して正しいとすることは、全員が一致して誤っていることになるはずで、たとえわずかでも異議を称える者があるなら、その異議との対比の上で、比較的、絶対的正義に近いこと(すなわち無謬に近いこと)が証明されるわけで、少数の異論もある多数者の意見は比較的正しいと信じてよいということなのである。全員が一致してしまえば、その正当性を検証する方法がない。絶対的無謬はないのだから、全員が誤っているのだろうが、それもわからない。従って誤りでないことを証明する方法がないから、無効なのである。(略) 日本では、「決議は百パーセントは人を拘束せず」という厳格たる原則がある。戦争直後、ヤミ米を食べずに餓死した裁判官が一人いた。ということは、その人が例外なのであって、他の裁判官はもちろんのこと、この議決をした議員も、その議員を選出した国民も、誰一人として、国会の議決によるこの厳然たる法律に、百パーセント拘束されていなかったことを示している。ユダヤに限らず、アメリカでも「懲役256年」などという判決が出る。日本人の目から見れば、百年だろうが、百五十年だろうが、二百年だろうが、人間がそんなに生きているはずがないから、こんな数字は無意味であろう。しかしアメリカでは、それはあたりまえのことで、法は法として百パーセント適用されねばならないからであって、その人間がその期間の全部を服役できるかできないかは問題外なのである。(略)日本では、国権の最高機関と定められた国会の法律さえ、百パーセント国民に施行されるわけではないから、厳守すれば必ず餓死する法律ができても、別に誰も異論は唱えない。法律を守った人間はニュースになるが、破った人間はもちろん話題にも上らない。とい...

ポルチーニ茸料理

 かつてはポルチーニでリゾットを作っていた。なぜかポルチーニ・リゾットを食べなくなった。(匂い/香りのクセが飽きたのか?それとも値段が高いせいか?はたまたリゾットに飽きたか??)たまたま半額になっているポルチーニを発見し、久しぶりに購入した。確か20グラムで半額になって600円くらい。 さて、上さんがどこかで食ったポルチーニのクリームパスタがうまかったと言うのでチャレンジ。レシピだと2人前で乾燥ポルチーニを20グラムくらい使うのだが、もったいないので半分だけ使うことにして”かさ増し”に、匂いの弱そうなしめじ、エリンギを使う。(エリンギは薄切りにし、5ミリ程度の幅にした)ポルチーニはぬるま湯につけて30分おく。 まず、みじん切りニンニクをバターで炒める。次にしめじ、エリンギを投入。次いでもどしたポルチーニを絞って投入して炒める。これにポルチーニを絞った汁とスープの素を加える。塩コショウして生クリームか牛乳*を加え、硬めに茹でたスパゲッティを投入して更に煮て出来上がり。 2度食ったが、香り/匂いがクセになったせいか、もっと食いたい。半額になってなくても買おうかなあ・・・ *生クリーム、牛乳 大きな差はないように思う。今たまたま明治の発酵バターを使っているが、これがいい様にも思う。 さて、俺が調べたポルチーニのレシピはすべて乾燥ものを前提にしている・・・生のポルチーニって売ってるのを見たことないけど、どうなってるのか?「ポルチーニ 生」で検索すると、日本ではヤマドリダケというポルチーニ(のようなもの?)があると。加えて、ヤマドリダケモドキという偽物?もあるとか。イタリア料理のイメージが強いがポーランドが本場だとか。ヤマドリダケは天然ものしかないらしからやはり入手は難しいようだ。ポーランドから空輸してきたらさぞかし高いだろうなあ・・・ プラダのバッグはほとんど中国人が作っていると聞いたことがある。ポルチーニも中国人に作ってもらったらどうだろう。少しは手に入りやすく、価格も安くならないか???

栗の命は短くて…

 今年は3回「栗の渋皮煮」を作った。俺のことだから、古くて割引きになった栗を買って作ったのだが、栗が痛んでいて失敗続き。(一番ひどいときは、栗が全部水に浮いた) 4回目、古いのをやめて値引きしてない新しそうなの(もちろん安いの)を買ってみる・・・これでダメだったらもう2度と渋皮煮は作らない、という覚悟・・・結果、ようやくうまい栗に出会った。 ネットで調べたら、栗って収穫したとたん劣化が始まって2,3日でダメになるらしい。つまり店頭に出たらその日に調理しないとほとんどダメということだ。上さんも言っていたが「栗は古くなったら安売りせずに捨てろ」だ。 しかし、栗の渋皮を残して鬼皮だけ剝くのは難しい。生栗をお湯につけておいて包丁で鬼皮に切り込みを入れ(傷をつけ)そこから剝いで行く。すこし剥げたら指で剥く・・・この鬼皮に切り込み(傷)をつける工程で鬼皮の下にある渋皮にも穴をあけてしまう。大体4割くらいは渋皮に穴をあけてしまう。 俺のレシピはETVの「きょうの料理」による。鬼皮を剥いた後、重曹入りの水で茹で、渋皮の表面を竹串でやさしくこすり、表面のひもみたいなのとか余分なものを取る。そのあと2回重曹抜きのために煮て、そのたびに渋皮の表面を竹串でこすり、最後の味付けで砂糖を3回に分けて加えて煮る。手間がかかる。手間がかかるのに、ダメな栗ではホント、バカバカしい。

今西錦司 「生物の世界」 四 社会について より

以下、繁殖率と繁殖数について仮説/矛盾:  一種類の生物が存在し、一定に繁殖率を以って繁殖し始め、その結果として遅かれ早かれ地球上はその生物で一杯になる。この飽和状態に達した時にその生物の繁殖率が減衰して、以後はこの飽和状態を維持しうる程度の繫殖率に変化してしまうのであったならば、それでもよろしいが、それではあまりにも生物らしからぬ消極策のような気もする。だからといってもとのままの繁殖率を続ける場合には、この世がいわゆる生存競争の修羅場と化すだけであって、それも無益な抗争を好まぬ生物にとってはふさわしからぬことであろう。だからこの矛盾の、生物らしい円満な解決というのは、その生物社会が食うものと食われるものとの分業に発展することによって、繁殖率を減衰させずともその飽和状態を持続することにあるだろうと思う。そしていわばこの量から質への変化を通して、実際は地球上の生物の絶対量も、増加したのである。一つの社会が二つの社会になることによって、一種類の生物が二種類の生物になったのである。(1941年弘文堂) 以下俺の感想: 今西はダーウィンとは一味違う進化論を展開した学者。上記は一種の弁証法だ。繁殖数(量)の増加が矛盾を招来し、その矛盾が食べる一方だった一族を食べる種と食べられる種に分ける(質を変える)。 さて、これは人間社会でも起こる事だろう。食べられる人とそれを食べる人・・・格差或いは階級、身分。つまり、資本主義であろうとなかろうと、人間が一定量を超えて増えれば差が付くということ。差が付かないと人数が増えすぎて生存競争の修羅場になるから、差をつけて増えすぎないようにするというのだが、そうなれば、差をつけたい、差をつけられたくないと思うから結局競争になる。人間を含む生物というものは競争しないと気が済まないものなのだ。

AI国家の妄想

 民主主義は寡頭政治とか衆愚政治と呼ばれるものに落ちて行くらしい。 民主主義なんて面倒で手間暇ばっかりかかって役に立たない。人間が話し合ったり、決めたりするから手間暇がかかる。 愚かな人間どものやる民主主義を捨ててAIに政治をやらせたらどうか?(一番優秀なAIに独裁させてもいいいし、複数のAIによる合議制でもいい) 全世界の国がAI国家になれば、リアルな戦争はなくなる可能性が。つまり、リアルに戦わないで、AI同士が仮想のバーチャルな戦争をする。将棋(囲碁も?)の世界では不完全ながらすでにAIが勝敗を予想してるじゃあないか。これを応用し、もっと高度にして国と国の戦争もAIにやらせるのだ。自国の持てる戦争遂行能力と相手の能力を比較し、もっとも有利な戦い方を編み出す・・・戦う国同士のAIに競わせて、一瞬にして決着がつく。 食料、エネルギーのセキュリティは任せられそうだ。人間(=資本主義)よりましではないか?一番ヤバイのは情報セキュリティか?AIが乗っ取られたらおしまいだ。これをAIが自衛する。そしてAIが”自衛”の名のもとに他国のAIを乗っ取ろうとする…新たな戦争だ。

”疎外・抑圧の総量は変わらない” という法則

 1970年代、ウーマンリブなどという女性解放運動が起こり、女性は”解放”された。 女性の疎外・抑圧は減ったが、その分、男性の疎外・抑圧が増えた。 若者の疎外・抑圧を減らせば、年寄の疎外・抑圧が増える 労働者の疎外・抑圧を減らせば、資本家、会社の疎外・抑圧が増える ババ抜きみたいなもので、ババはなくならず、誰かの手から他の誰かの手に移る。 ババをつかまされた者は、それを他の者に移そう、押し付けようとする。 それが進歩とか改革とか、運動と呼ばれるものらしい。 ババそのものをなくす方法はないのか???それが本当の進歩だろう。今までの歴史を振り返ると、疎外・抑圧をなくすという謳い文句で行われた改革(革命)、運動は結局、疎外・抑圧がある場所を買えただけに終わっている。或いは、古い疎外・抑圧をなくし、新たな疎外・抑圧を生み出して来た。そして、新しい抑圧・疎外の方が進歩してより強力に、より頑丈になってきた。 これから疎外・抑圧の削減や解放が期待される装置はAIだろう。AIが、どんな”進歩”を見せてくれるのか、俺が生きてる間に見ることが出来るかな?

冬の食の楽しみ

 夏の食べ物というと、思いつくのは、西瓜、桃、なす、新しょうが、冷麺(朝鮮及び中華)、白エビの天ぷら、ラタトゥーユ、鮎、くらいだ。 対して冬の食べ物というと、国産のレモン(レモンケーキ)、いちご、大根、白ねぎ、里芋、オニオングラタン、ビーフシチュー、クリームシチュー、ラザニア、リゾット、すき焼き、御厨そば、味噌煮込みうどん、おでん、雑煮、汁粉、ふぐ、ぶり、さば、さんまといったところか?鍋にいたってはいくつもバリエーションがある。(鍋の”残骸”で作るおじやも同様) 圧倒的に冬の食べ物の方が豊富だ。今から何をどうやって食おうか楽しみだ。 ハタと気づいたのは、カレーもシチューも味付けが違うだけで食材は同じ、温度的にも同じなのに、カレーは夏でも食いたくなるが、シチューって寒い時にしか食う気がしないことだ。なぜだろう?シチューは体が温まる気がする。食べ物って物理的な温度だけではなく心理的な温度というものがあるのではないか? いちごのように、かつては春のものだったのが人間の努力(金儲けしようという欲・操作)によって冬が旬のようになってしまったものがある。これは人間の努力(欲)を捨てれば元に戻るような気がする。そこにいくと、さんまなどは人間のコントロールできない要因(気候変動?)で、取れなくなり高くなった。さんまは一匹100円程度の安魚でなければならない。一匹200円も300円もする、痩せたさんまなぞ食う気がしない。

人権て何だ?

 朝日新聞デジタルに ジャニーズ問題、動かない政府に疑問の声 「人権意識が希薄」という記事: ジャニーズ事務所の創業者、故ジャニー喜多川氏の性加害問題について、政府・与党の動きが鈍いとの声が上がっている。被害者の救済や子どもの性被害を未然に防ぐ手立てが求められる中、国連人権理事会の作業部会が政府の関与を促す声明を出しても、及び腰だ。識者は「人権に対する意識が希薄だとの印象を国内外に与えかねない」と指摘する。  「国はなぜ動かないのか。まったく動きがないのは不可解」  10月4日に立憲民主党が国会内で開いた会合で、長妻昭政調会長が疑問を投げかけた。  会合には元ジャニーズJr.で性被害を告白した石丸志門さん(56)も出席。内閣府の担当者に対し、被害者からの聞き取りはしないのかと何度も聞いたが、担当者は「適切に判断する」と明言を避けた。  石丸さんは「国にはせめて、この問題の状況を注視しているという発言をしてほしい」と訴えた。 以上、まず、国連人権理事会なるもののご立派なご発言が紹介され、次いで意識高い系の識者や立憲民主党が現れる。国連とかECとかにお勤めの方々は浮世離れした「意識高い」ことをおっしゃって、いいお給料をもらう優雅な”貴族”だ。最近、国連やECの理想の非現実さ、馬鹿馬鹿しさが露呈してきた。にもかかわらず、都合の良いご発言だけつまみ上げる。国連でこう言われている、という言い方は、最近では「こんな馬鹿な事、きれいごと、とんまなことが言われている」というニュアンスが強くないか?その尻馬に乗る立憲民主党・・・国連も立民も「オワコン」だ。 ところで「人権」って何だ???Wikiってみると、 人権 (じんけん、 英 :  human rights )とは、単に 人間 であるということに基づく普遍的 権利 であり [1] 、「人間の 生存 にとって欠くことのできない権利および 自由 」とされる [2] 。「対 国家権力 」または「 革命権 」から由来している [1] [3] 。 ブルジョア革命 (資本主義革命)によって確立された権利であり、「近代 憲法 の不可欠の 原理 」とされる [4] 。 こりゃ、オワコンだ。ブルジョア革命で出来上がった資本主義を革命でひっくり返そうという共産主語がオワコンなんだから、ブルジョア革命によって確立された権利たる人権も...

みうらじゅんの「チョン・レノン」に笑う

昨年12月に放送されたNHKBSプレミアム「笑う洋楽展 コロナに負けないで4Kでも VOL.2 」における、みうらじゅんは絶好調だった。得意のしゃれ、というか地口がどんどん出てくる。中でも秀逸で大笑いしたのはジョン・レノンのことをチョン・レノンと言い換えたことだ。これは聞きようによっては朝鮮民族に対する侮蔑、からかいのようにも聞こえないことはない。(俺はそう受け取った) みうらじゅんがうまいのは、仮に「チョン・レノンは朝鮮民族に対する差別だ」などとクレームをつけられても「どこが?俺はジョン・レノンを尊敬している、朝鮮民族に対する尊敬をこめてチョン・レノンと言うのだ」と言えばそれで相手を黙らせることができるようにも思われる所だ。 多分、俺が大笑いしたのはこの言葉の持つおかしな「響き」に加えて、虚実皮膜というか、敬蔑皮膜の微妙な言い回しだからだ。  

吉本新喜劇の技術伝承

 すち子が酒井藍に「コケ方」を教えるところをY-Tubeで流している。Y-Tube用だから実際より優しく、ハラスメントなしで教えていたかもしれない。ケガしないように、でも派手に大きな音を立ててコケるテクニックを伝授。 かねてから吉本新喜劇の技術伝承には感心していた。何より若者が舞台に憧れて続々と入って来て、また先輩が彼らに技術伝承し、育成している。こんなに若者を引き付ける魅力はどこにあるのだろうか???? 舞台(本番)でも、若手をアドリブに追い込んで苦し紛れに何かをさせて、持っている芸能(芸の能力)を存分に発揮させ、成長させている。(多分、ダメな奴をふるいにかけるという意味もあるのだと思う) すち子51歳、藍ちゃん37歳。二人とも「座長」だ。我が愛する岡田直子は40過ぎでまだ脇役(脇役と言うより端役)。藍ちゃんは若くして抜擢された。誰が人事評価しているのだろうか?俺は座長などにはなれそうにない風情が持ち味の岡田直子が大好きだ。

サッカー、日本対チュニジア戦

10月17日夜に行われた この試合をTVで見て、日本代表の素晴らしさに感動すら覚えた。 相手のわずかなトラップミス、ボールコントロールミスを突いてボールを奪いに行く、一人がかわされても二人目で奪う…今までの日本のサッカーでは考えられない、というか、今、全世界を見渡しても、こんなに相手ボールを奪うのがうまいチームはないのでないか?(ホントは全世界のサッカーなんて知らないが・・・)特にいいのが日本人らしく、「自分が駄目でも、自分のアタックで奪えなくても、次に別の人に奪わせる」というところ。個人としての成長だけでなく、チームプレーが成長している。チュニジアは攻め始めてはボールを奪われ・・・の繰り返しで、後半の後半までシュートゼロだった。 加えて久保。逆にボールを奪われない。牛若丸もかくや、という感じでひらりひらりと相手のアタックをかわす。ホントに小さな軽いフェイントで相手を振り回わし、置き去りに。体を当てられても倒れない。“別格”という言葉がピッタリ。チュニジア・日本両チームの22人の選手の中で格が一段抜け出ていた。そして何より「変わったなあ」と感じさせるのは、無理やり自分でシュートしようとせず、仲間にラストパスを出すようになったこと。ただし、今までの日本チームのように、自分で打てるのに打たないのではなく、シュートする可能性もありつつ、他の仲間がゴール前に走って相手のバックスを引き付けたのを見定めて、より得点の可能性が高いフリーの見方にパス。高度な個人技をチームとしてより確率の高い得点の取り方に使う。 ここに、日本チームの「日本らしい強さ」を見た。普段は別々のチームでプレーしていて、そんなに長い間一緒にやってないのに、どうしてこんなにチームプレーが出来るのか?不思議だ。 閑話休題: 若者よ、これが「日本人の成長」だ。成長した個がその個人技を、個人ではできない事、チームとしてのパフォ-マンスのために使う。これは、チーム優先で個人技を封印するのとは違う。個人ではできないこと、チームならできることが上手にできるようになることが喜びなのだ。このチームパフォーマンスのレベルを上げるために個人が強くなる・・・

日本人とユダヤ人 より

 かねてより、何故日本人(だけが)納期や時間厳守にこだわるのか、知りたかった。 「日本人とユダヤ人」によれば、四季の違いがはっきりしている日本で稲作をするには、好きな時に種をまいて実ったら収穫する、という訳には行かず、「去年と同じ日に同じことをする」必要があった、と。これで日本人の前例主義、既成事実に引きずられる理由も分かる。 梅雨時には苗を植え、台風前には実を実らせ、秋晴れの時期に刈り入れる・・・といった日程を、否応なし、待ったなしの緻密な計画・段取りのもと、去年と同じようにこなす。これが日本人の「仕事」だ。これを繰り返すうち、「なぜそうするのか?」を考えなくなって、「緻密な計画を日程通りこなすこと」が自己目的化する。 毎年いつ何をすべきかの日程を示す暦を授けるのが朝廷の仕事であった。 以下「クローノスの牙と首」より抜粋: 遊牧民的生き方から見れば、日本人の生き方(特に時間を切ると言う行き方)は全く不可解で気違いじみたものに映っても少しも不思議ではない。ヨーロッパ人は遊牧民的行き方と農耕民的行き方がミックスしているから、同じように計画を立てても日本人とは行き方が違う。特に「請負」における日本人の働きぶりは理解が出来ないし、下請という日本人特有の一種の「稲作型小作制度」も理解できない。(略)かつては、全日本人の85%が、ある時期(天の時)になると一斉に同一行動を起こした。(人の和)田植えの時には全日本人が田植えをしなければならない。(略)自ら隣(模範)を選び、その通りにやるのは立派な一つの自主性であり、しかも的確にまねができるということは、等しい技量をもたねがならねば不可能であるから、その技量に到達するよう自らを訓練することも自主性である。(略)日本人は全員一致して同一行動するがとれるように、千数百年にわたって訓練されている。従って独裁者は必要でない。遊牧民に、一定の方向に向かって統一行動を取らせようとすればコーランと剣、すなわち宗規と強権が必要であり、打ち勝たねばならぬ強大な敵か競争相手が必要であった。(略)ギリシア神話のクローノス(時間)は首の長い怪物で、自らが生んだ子を追いかけて食べてしまう、ゼウスだけがその首に跳びのって食い物にされるのをまぬかれたと。日本人はまさにクローノスの鼻先をかけている。(略)遊牧民は、クローノスの首に跳びのっているのが常態な...

柳田国男「日本人とは何か」より

キリスト教徒やエジプト人の様なミイラを作る民族つまり、魂は肉体に戻って来ると信じる民族と違って、日本人は肉体は滅んで魂だけ別に残ると信じた。家は祖先の魂が帰って来るためのものであった。 大家では家の中に苗代があって、分家の者だけに苗を分け与えた。この苗を分け与える範囲のことを苗字と言った。 内(家)=氏=血縁である。 同じ祖先を持つ血のつながった者たち及び必ずしも血は繋がってはいないかも知れないが、苗字の範囲まで含んだ者たち、言い換えれば価値観や利害を共有する集団の居場所を「家」と呼んだ。家には祖先の魂が帰って来る・・・氏神 内(家)の外は世間。ただし、世間の範囲は同じ祖先を持つ民族。(日本で言えば天皇を祖先に持つ日本人) 社会と批判から抜粋: めいめいがかってな生活をさえしておれば、人のことはかまっていられないということが、今日ではごく普通の常識になって、そして今はもう人の前を憚ることもなく、言っても少しも恥ずかしくない状態になっている。元来日本人の気持ちから言えば、縁もゆかりもない他の人間の挙動でも、暇に任せて静かに見ておって、批判する者が前は多かった。それゆえ世間の思惑がこわいから、親をいじめたくてもそれが出来ないとか、笑われるから夫婦喧嘩をさし控えるとかいう考えがあって、人は肩上げの取れる頃から互いに批評の対象となっていた。そしてその批評はいつも本人に面と向かってされるのではなく、本人の気づかぬ陰や背後でいわれることがいやなばかりに、自然に自分の行為にも節度を保ち続けてきたのである。もちろん干渉の強すぎる村落の生活を決して賛美するわけではないが、要するに我々の間に起こった批判と言うものの起こりは、外部の人間が等しく関心を持ち、かつ外部の人間であるがため公平な判断をくだすことができた。日本人は元来小さな社会の中にこうした外部の制裁に基づいて自己を形成してきたのである。言わばこれは公衆道徳の一つの成長と言えるのである。然しこの公衆道徳たるや極めて貧弱なもので影口や批判と言うものが必ずしも常に正しいとばかりとは決まっていなかったが、実は日本人はそう言いながらも、考え方に時代的な差異こそあれ、なすべきことの善と悪との差別は心得ていた。それが世の中が次第に改まり、勝手気ままな生活をする者の障害もなくなって、異郷人ばかりが隣り合わせで住むようになると、世間の批判は希薄に...

安藤輝三の死にざまに感動

何十年かぶりに「日本人とユダヤ人」を再読し始めたが、文中「226事件の安藤大尉」というくだりがあり、安藤大尉こと安藤輝三をWikiってみて、日本人らしいエピソードに感動を覚えた。以下、Wikipediaより抜粋: 1905年 ( 明治 38年) 2月25日 、 岐阜県 揖斐郡 揖斐町 生まれ(略) 1926年(大正15年)10月25日、任 歩兵少尉 、補 歩兵第3聯隊 附。 (略) 1935年 (昭和10年)1月17日、補 第2大隊(大隊長 伊集院兼信 少佐)第6中隊長 中隊長となるにあたっては、部下、同僚からの信望が厚い一方で過激な青年将校たちと関係する安藤を危惧する聯隊長 井出宣時 歩兵大佐( 21期 )に対して「誓って直接行動は致しませぬ」との証文を提出した。秩父宮からの口添えもあった。 (略) 安藤は歩3の下士官と将校の教育を計画し、相談に乗った 青木常盤 が永田に申し入れると、永田は快諾して7,000円の予算をさき、「安藤ならば大丈夫だ。教育構想、講師の人選、運営などは一切安藤に任せて、決して干渉はするな」と言った。 統制派 の筆頭だった永田からも信頼される安藤の人柄が伺われる。 二・二六事件〜鈴木貫太郎襲撃〜 事件3年前の 1933年 (昭和8年)に、安藤は日本青年協会の富永半次郎や青木常磐と共に 鈴木貫太郎 邸を訪問し、時局について話を聞いた事があり面識があった。 鈴木は安藤に親しく歴史観や国家観を説き諭し、安藤は大きな感銘を受けた。面会後、安藤は鈴木について「噂を聞いているのと実際に会ってみるのでは全く違った。あの人(鈴木)は 西郷隆盛 のような人で懐の深い大人物だ」と語っている。後に鈴木は座右の銘にしたいという安藤の要望に応えて書を送っている。事件に際して安藤は鈴木を一時的に監禁することで済ませることはできないかと考えていた。 決起に対しては慎重な態度を取り続け、あくまで合法的闘争の道を主張したため、磯部らは一時安藤抜きでの計画を検討した。しかし、安藤は最終的に成功の見込みが薄いとは知りながらも、同志を見殺しにすることをよしとせず、直前の23日になって参加を決断した。だが反乱に巻き込まれた部下達は、後に忌避され前線に送られ死ぬ者が多かった。 決断後は積極的に同志を集め、叛軍中最大勢力である歩3を統率して見せた。歩3からは全反乱部隊の総兵力の60%が...

久しぶりに夢を見た

 何年振りだろうか、夢を見た。前見たのがいつ、どんな夢だったのか分からないくらい久しぶりだ。どんな夢か以下: 俺は、事務所のようなところに座っている。書類が4枚回って来る。それに1枚1枚ハンコを押すのだが、そのハンコが四角で一辺が5センチ以上ありそうな巨大な朱印。4枚のうち、なぜか2枚は上下さかさまに押す。 しばらくして同僚?が電話番号と思しき数字を書いたメモを持ってくる。メモには電話番号の他、先ほどハンコを押した書類の1枚のことについて聞きたいといったようなことが・・・同僚?は一切口をきかない。そう言えば夢の中では一切音は聞こえなかった。 電話は室内にはない。外に出ると大きな電話ボックスのようなものがあって、電話が立っている。電話しようとするのだが、その電話が巨大なダイアル式の電話で、そのダイアルの直径が1メートル以上あって、ダイアルの上の方の数字の穴に手が届かない。なんとかしてダイアルの上の方に手を伸ばす方法はないか、考えあぐねているところで目が覚めた。 縁起の良い夢のことを”吉夢”というのかどうか定かではないが、有名な吉夢は一富士二鷹三茄子。自分が死ぬ夢というのも吉夢とされているらしい。(生まれ変わりとか再生という意味?)フロイトはユダヤ人らしい無粋な屁理屈で夢分析をしたようだが、昔の日本人は「昨日こんな夢を見たんだけど意味が分からないんです」「その夢はこういう意味だからいい夢ですよ」なんて粋なやり取りをしてたんじゃないか。 夢占いもそうだが、占いって結局「今のまま突っ走れ」か、「こういうところに気をつければOK」という前向きなアドバイスだ。絶望して死にたくなるようなものはない。 閑話休題: 年取ってから本当に夢を見なくなった。(一説によると見ても覚えていないとか)こんなにハッキリ覚えている夢は珍しい。千葉・鴨川に、「吉夢」という旅館があるらしい。

幸せを感じるとき

 本日、Nクリニックに行って先月の血液検査の結果を聞く。すべて基準値クリア(ただしコレステロールは薬のおかげ)強いて言えばタンパク質が足りない由・・・昔、「タンパク質が足りないよ」というコマーシャルソングが確かあった・・・8,9月は炎天下ゴルフをして夏バテになって確かに食は細くなっていた・・・胃腸の検査を何年もしてないから、そろそろ胃カメラでも飲みましょうか?と勧められる。 さて、支払いも終わり、健康保険証と診察券を一緒に入れたケースを受け取る。10月1日から変わった保険証が入っているのに気づく。上さんが黙って入れてくれてたもの。そう言えば「10月から保険証変わるよ」なんて言ってたな、と思い出す。 俺にことさら断るでもなく、また、俺に古いのと入れ替えるよう渡すのでもなく、勝手に黙って入れておく。こういうの嬉しい。幸せになる。 もっとも、上さんが俺に言い忘れたのかもしれないし、或いは上さんが言ったのに俺が忘れたのかも知れない。でもやっぱり嬉しくて幸せな気分だ。俺も「ありがと」なんて野暮なことは言わないで黙っているつもり。

タマホーム株を買ったが・・・

 以下の通り高利回りのタマホーム株を購入。 買値:3,195円 × 100株 =購入金額 319,500円 配当:185円 × 100株 = 18,500円 優待(3年保有で Quoカード)=2,000円 あくまで予定だが 優待を含む利回りは6.4%。 今朝(10月11日)の初値、3,195円で購入したのだが、昨日の終値は3,475円だった。不気味な下げ。利益確定売りだとか。 NISA枠は7万円。NTTとピーエイの株が下がるのを待つとしよう。    

男女差別が堂々とまかり通るのを朝日新聞が報じる

朝日新聞デジタルに以下。  ラグビーやサッカーの強豪で男子校の東福岡高校と、付属校の東福岡自彊館(じきょうかん)中学校(いずれも福岡市博多区)が、2025年度から男女共学になる。 なぜ、朝日新聞は、男子校、女子校があるのは男女差別だ、けしからぬ、と言わないのか? 男(女)子校にはどんな男(女)が入れるのか?も気になる。体は男(女)でも心は女(男)なんて野郎はどっちに入れるのか????便所ごときでああだこうだとかまびすしいが、男(女)子校問題についてはどうして誰も何も言わない?

埼玉県の子供放置禁止条例案は何故出て来た?

 朝日新聞デジタルに 子ども放置禁止条例案 批判噴出で異例の撤回「瑕疵ないが説明不足」 有料記事 西田有里 山田暢史 田渕紫織 黒田壮吉 2023年10月10日 22時30分 という記事。面白い部分だけ抜粋。 若い世代の政治参加を促す市民団体「NO YOUTH NO JAPAN」代表理事の能條桃子さん(25)は、「世論と政治の大きなズレは、多くの議会で女性や子育て世代の議員が少ない現実と無関係ではない」とみる。自民党県議団の女性議員は、58人中3人で5%だった。  4月の埼玉県議選の投票率は、34・92%で全国で最も低かった。能條さんは、「都道府県の議員選挙は無投票が少なくない。自分たちの代表を送り出す選挙に対してこれでよいのか、有権者に突きつけられている」。 要は、悔しかったらみんなで投票に行って子育て世代や女の議員を増やせ、ということ。

朝日新聞デジタル 霞が関をめざさない 第三回

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 「(国家公務員)志願者は10年間で3割減った」との記述は朝日新聞その他メディアがこぞって攻撃する官僚のごまかしの手口。省庁の統廃合や民営化、IT化によって補充されるべき人材の需要がどう変わったのか?を明らかにしないと単に志願者の増減の事実だけ言われても判断材料にならない。例えば1970年以降50年以上にわたって官僚の在籍者数、退任者数、補充数(補充に当たっての募集と応募の数)を上述の需要の増減で補正し、「あるべき志願者数」と比較してもらわないと・・・ 優秀な人が公務員を目指すか目指さないか?までは知りようがない。「あるべき必要な人数」に比べ優秀か優秀でないかは無視して何人の人が志願するか?で推し量るしか無かろう。つまり「学生にとって人気がある職業かどうか?」を見るしかないし、それで大体のことは分かると思う。競争率が高ければ優秀な人材が集まると考えられる。 アメリカはそうだし英国でもそうだと思うが、官僚は政治家にはならない。日本は官僚から政治家に転職する者がおり、少なくともかつては官僚出身の政治家が政治の中心になった。(1957年就任の岸首相~1982年就任の中曽根首相までの日本の戦後の黄金期の首相10人のうち、官僚出身でないのは田中角栄、三木武夫、鈴木善幸の3人だけだ)ここをどうするのか?俺は官僚の天下りと政治家転職(→首相)は復活すべきだと思う・・・官僚が「政治家のまねごと」をやることは、政治家になる適性を判断するうえで重要なプロセスだと思う。官僚の質が落ちるとともに、政治家のレベルも落ちているように思うが、政治家の供給ソースたる官僚の劣化が原因ではないか?  残業削減など働き方を改善することは重要だが、それだけでは官僚人気は戻ってこない。人気回復対策は「社会のイン フラである霞が関に何を求めるのか、そのためにはどんな人材が求められるのか。改めて議論を深め、制度を再構築」することではない。国や社会のため、なんて考える若者はいない。キャリアの最終目標は政治家で、政治家になるにはその入り口として官僚になることだ、と思わせることだ。(このアイデアをどう具現化するにはアクセンチュアだかリクルートに相談すればよい) 1992年には、当時の羽田孜が東大出身者の官僚を減らせなどと言ったことは初めて知った。羽田自身は成城大卒の小田急社員出身だ。 官僚が意欲を失ったり質が...