普遍と特殊(個別)
一神教においては神様が絶対だ。絶対正しくて思考や行動の基準・規範になる。つまり、人間の外に基準や規範がある。日本人にとって人間の外側に基準や規範はない。人間の中に基準・規範がある。 となると、一人一人で基準・規範が違うことが前提となる。契約・法律・・・一神教の世界でいったん言葉になったものは神同様、絶対的拘束力がある。絶対守らなければならないから、守りにくくなれば、守れるように変更する。一方日本では契約や法の拘束力は弱い。律儀に守ろうと思われないから、守りにくくても変えよう、とはならない。
一神教の世界ではベストプレーというものにスタンダードがある。つまり普遍的なベストプレーというものがある。従って、そのベストプレーには客観的な評価基準があって、プレイヤーも何をどうやれば評価がどうなるのか分かってプレーする。(評価結果に説得力がある。)一方、日本では①極端な個人主義と②忖度主義。
①個人がその強みを最大に発揮し、かつそれがチームの勝利に貢献するなら彼は神になる。例えば野球のホームランバッターがホームランを打ってチームに貢献すればファンは彼を神とよぶ。彼がチームのためだといってバントをいくらうまく決めたところで神とは言われない。
②個人がチームや上司の気持ちを忖度して自分の強みを殺すこともある。それを本人が自分の強みだ、と思ってしまうことも多い。この場合、プレー自体もさることながら、プレーヤーのチームを優先する態度・人間性も評価される。
上記①②においては普遍的な評価基準がない。どこに着目するのかによって評価は大きく違ってくる。
一神教のベストを尽くす(do one's best)は普遍的な、ベストプレイの標準、共通認識されたベストを実現しようとする試み。多くの人が何がベストプレーかを共有している。
日本の頑張るは、まず、個人が上述の①②のいずれかを選択した上でベストプレーを行う。圧倒的に②が多いが①が理想。
英米(アングロサクソン+ユダヤ)は古くは民主主義、資本主義、帝国主義、特許、最近では核兵器、宇宙技術、バイオテクノロジー、IT、金融などを開発・発明し、それらを誰にでもできる普遍的なものとして他国に布教した。これは彼らが教えるのが好き、伝道が好きというのではなく、本能的に自らの発明品の普遍性を信じ、どんどん世界中に布教したくなるように見える。英米人は技術だけでなく、その用い方のルールまで発明する。布教先の優等生は日独伊・・・しっかり技術を受け入れ、英米を凌ぐほど上達するが、英米に楯突くことはない。露は劣等生。中は英米を凌いで楯突く。
普遍性にこだわり、普遍性を信じるのは一神教の神様で唯一絶対の普遍性を学んだから。政治だろうが、経済だろうが英米は神様のような優秀なリーダーを唯一絶対のリーダーとする形態を取って、それが普遍だと信じる。マニュアル・契約は聖書だ。疑うことなく、マニュアル・契約を信じてマニュアル・契約の言葉の通り行動する。法律も同様。日本人はそうはいかない。個人の好みや人間性が入って来る。
どうして英米(アングロサクソン+ユダヤ)は新しい技術を発明したがるのか?彼らにとって、技術も神様がgovernすべきもの。古い技術は神様がgovernする基準・規範が出来あがってしまっている。ところが新しい技術は神様もどうやってgovernしたらいいか、わからないので基準・規範がない。彼らが新技術を発明するのは自分で好きなようにルールを作って、それが神様の意志だ、と言い張れるから。
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