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嗚呼、フェミニスト!(日本国の性被害)

沖縄県知事選に思う 「誰のせいにもしない」敵を名づけない闘いは「弱い人」を犠牲にはしないか と題して北原みのりがAERAに以下: (前略)古謝氏は、「誰かのせいにしない沖縄」を掲げて選挙を戦った。 「国を悪者にして、あるいは大企業、県外の資本、こうしたところを悪者にして、沖縄の暮らしが良くならないと嘆くのは簡単だが、それでは沖縄は変わらない。誰かのせいにして、今を諦めるのはもうやめましょう」  これはとても今的な発想だ。というか、私も同じようなことを最近よく言われる。「男を悪者にして嘆くのは簡単だが、それでは社会は変わらない」と。女だからといっていつまでも被害者でいてはいけない、 男に敵対しないほうがいい ……そんなふうにたしなめるのが今どきのフェミニズムだったりするのだ。そう、フェミニズムも「誰かのせい」にはせず、社会にほほ笑む時代。古謝氏の言うことは時代に合っているのかもしれない。 >>男に敵対しないほうがいい・・・これは確かに「今的」で、ちっとも正しくなくて馬鹿で浅はかな考えだ。俺はフェミニストではないが、男だろうが女だろうが敵対すべき相手には敵対すべきだと思う。ただし、「敵を作って闘う」ことを自己目的化するのはバッカだ。  でも、あえて時代に反論するならば、「自分を苦しめる誰か」を見定めなきゃ、闘えないんだよ。「誰かが」がわからないと、闘い方を間違えるんだよ。声を上げるということは、「誰か」の名前を明らかにすることなんだよ。なにより、そうやって、女は、沖縄は、闘ってきたんだよ。つまり「誰のせいにもしない沖縄」とは、沖縄が「敵は特定しません、闘いません」と宣言したようなものなのだろう。 >>せっかく古謝氏がいいこと言ってんのに、 北原みのりは どうしてもオールド・フェミニストでい続けたいらしい。どうしてわざわざ敵を作って「闘いたい」のか理解できぬ。保守的(=オールド)フェミニストだ。バッカとしか言いようがない。古謝氏は「今的」ではない。ごくごく普通のことを言っている。北原みのりはリベラルやフェミニズムがオワコンになったことを認めたくないらしい。女子高生を殺したヘリ基地反対協議会は全共闘世代の亡霊だ。彼女もオールドを通り越して亡霊フェミニストを目指すのか?  私が沖縄の基地問題に関心を持つようになったのは、1995年、小学生の女の子が米兵3人に性暴力を受けた事件...

ミスコンて微妙

テレ朝NEWSに 「2026ミス・ジャパン 日本大会」が開催され、「2026ミス・ジャパン・プレミアム」グランプリは、福岡県の公務員・大場雪乃さん、「2026ミス・ジャパン」グランプリは、神奈川県の会社員・中村彩乃さんに決定した、と。 大場さんは二人の子持ちだって。 もっと詳しく調べると; 項目 ミス・ジャパン ミス・ジャパン・プレミアム 対象 18歳以上の女性 30歳以上の女性 婚姻歴・出産歴 不問(独身であることが条件) 婚姻の有無を問わない 創設 2019年開始の本部門 30歳以上向け部門として新設 選考 都道府県大会→日本大会 都道府県大会→日本大会 だって。なんだか微妙。年齢も婚姻歴・子持ちかどうかも問わず。単純に「女性」という条件だけでやらないのか?まあ、生まれつき女とそうでない人とは区別した方がいいかな? ジェンダー平等好きな人たちにはミスコンなんて不評だろうなあ。でも逆に言えばミスコンがまだ生き残ってるってすごいことだ。応募する女性がいるんだから。

福田和也・「江藤淳という人」③

「江藤淳先生と私」より: 戦後フランス文学史でナショナリストの文学者たちが抹殺された理由の根本は、ドイツの占領下における彼らの対独協力と、そしてフランスが現実には敗戦国であるのにもかかわらず、 「レジスタンス」という神話を作り上げて戦勝国の一陣に滑り込んだ、ほとんど天才的ともいえるドゴールの、その手腕故の欺瞞であった。対独協力者たちは、敗戦を「現実」として認め、ドゴールのようにロンドンに逃げることのできない数千万の国民を守るために、宿敵ドイツとの交渉の場に付いたが、単身ロンドンで祖国の不敗を訴えたドゴールは彼らを裏切り者と呼び、フランスの抵抗(それは本当に些細なものだった)とは関係なく、米ソの力でドイツは倒れ、ドゴールはフランスが無力であるからこそ、その勝利、精神の勝利を声高に叫ばれなければならなかった。フランスが勝利した、フランスの知的伝統としてのヒューマニズムがファシズムに対して勝利したという虚構を守るために、ナショナリストたちは文学史から抹殺され、知識人の間では、きわめて強い否定のニュアンスを帯びなければ、その名前を発するのは憚られるようになった。戦後フランスの知的枠組みがもっていた欺瞞のあり方と、当時江藤先生が進めておられた占領下検閲での言論統制の問題は、緊密な関係を持っていた。先生は「閉ざされた言論空間」等において、占領下にGHQが推進した検閲の指針、つまり戦争の意義を認めることや戦死者を賛美することの禁止、憲法成立の実態とその内容への批判の禁止などの基準が占領解除後も日本の言論空間を規制していることを詳しく検証されている。いわば無意識な政治規範と化したイデオロギーを批判する先生のお仕事は、戦後フランス思想を見えない形で規定している占領下の記憶とその抹殺という私のテーマと、第二次大戦後今日まで続いている言論の世界的な衰退傾向として一括し得るものだった。 「いくら工夫を凝らしてみたところで、他人から与えられた物語を生きるふりをしてみせている文学者に、人の心を打つことのできる物語が書けるわけもない。その一方で、誰に気兼ねをしてか、自己の物語を発見しようとするいかなる努力に対しても、嘲笑し続けるのだとすれば、文学の荒廃は自然の帰結で、並大抵のことでは書く喜びを取り戻すことすら覚束ないと言うべきではないか。」という江藤淳の「他人から与えられた物語を生きるふりをする...

福田和也・「江藤淳という人」②

 「江藤淳氏を悼む」より: 批評の代表作「成熟と喪失」のなかで、江藤氏は喪失を凝視し、喪失を嘆くのではなく、喪失を宿命として受けとめ、浸食されつつある現実を少しでも持ちたえるべく、絶望的な努力を倦まず続ける治者となる成熟の経路を示している。 江藤氏は、自らを甘やかすこと、甘やかされることを唾棄した。保護されることを拒否して保護を与えるものになろうとした。 このような江藤氏の姿勢が、誰もが庇護を求め、些細な傷も他人に責任を転嫁し、慰めを求める戦後の日本において、異様に映ったのは仕方がないかもしれない。だが江藤氏は大勢に媚びることなく、この小児だらけの国で、治者たり続けることを貫いたのである。「閉ざされた言語空間」などで氏が、占領期以来継続している日本人の言語の歪みを訴え続けたのも、江藤氏が誰に課されたのでもない責任感のためであった。(略) 氏が自殺をされた。それは氏が死者たちとの約束をもう守る気力がなくなったと言う事だろうか、「弱さ」を前に甘えを断念することを止めてその誘惑に応じたと言う事なのか、あるいは自ら進んで治者であることを放棄したのか。 >> 悪いのは自分以外の誰かでその誰かに搾取差別されている、と言って泣きわめく小児。リベラルの別称だ。悪いモノを正すためにはどうしたらいいのか、考えて提案するのが治者。

オイシックスの株買おうかな?

文藝春秋プラスでオイシックス社長の高島宏平氏が日本の農業・食を語る。まず他人(農水省やJA)を非難しないところがいい。ここをこうすれば・・・という言い方。日本の農業にも勝ち筋はある、と淡々と語る。素晴らしいと思った。「日本も捨てたもんじゃアない」と思えた。オイシックスの株を買おうかな?と思うのだが、配当利回りが2%以下。加えて、上さんが言うには以前、パイナップルを買ったが、美味しくなかった、と・・・。株価は2年前と比べて決して上がっていない。今一度オイシックスのものを買ってそこそこの味だったら配当利回り2%以上になるような価格で指値しようか。 高島氏の発言・・・ 黄色の部分は俺の意見 ①日本の農家は一人ひとりの持っている技術ノウハウを外に漏らさない=共有化できない。小さな農家がチマチマと競争したって駄目。 これを共有化しろ ・・・技術の共有化って日本人の良さの否定ではある。競争の否定だ。 ②技術の共有化と大規模化を進めてコモディティとしてコストを安くして大量に輸出しろ・・・今までの「いいものを作って余ったものを高い値段で少し輸出する」と言うやり方でなく、海外マーケットでどのくらいの値段でどんなものが売れるか、マーケティングしろ。平時に大量に輸出しておけば、有事に輸出を減らすことで食料安全保障になる。・・・日本の自動車産業がお手本だ。昔何百もあった自動車製造会社がどんどん減って大規模化した。 →農業の寡占化が進む。自動車屋は明らかに談合している。似たような車を似たような価格で売っている。 ③食料自給率なんて意味はない。問題は飼料・肥料の調達も含めた有事の際のBCPだ。 ④ゼスプリはニュージーランドの全国的なキウイの協同組合だ。ゼスプリがマーケティングや全国各地の収穫時期を一手に行っている。日本のJAも地域ごとでなく、品目別にしろ。収穫時期(=耕作時期)をずらせば例えば、同じ桃で山梨と福島が競争するような無駄な競争が減る。( 高価な耕作機械や作業者を使いまわすことができる) ⑤農業は人知の及ばない天候依存の産業。個人や1社ではそのリスクを負えない。そのリスクを軽減、吸収するためにJA(のような存在)が必須。 JAでなくても食管法のようなものでもいいんじゃあないか? ⑥農水省は敢えて日本の農業や食の危機を煽る・・・そうしないと財務省から金を取れない ⑦日本の人口当たりの農...

福田和也・「江藤淳という人」①

 「江藤淳の文学と自決」より: なぜ自殺は、許しがたいのか。どうして江藤氏は、過激な行動に自他を駆り立てることも、その場を立ち去って別の場所の賭けを試みることも断念して、生存し続けることを選ばねばならなかったのか。畏友山川方夫に捧げた文章の中で、江藤氏は学生時代から肩を並べて何とか筆一本で暮らして行こうと奮闘してきた友に語り掛けている。「私は山川に言いたかった。病気が何だ、癲癇(てんかん)が病気なら、大腸カタルも同じ病気じゃないか、頑張って生きてくれ。それは私自身が誰かに言ってもらいたいことに似ていた。崩壊と屈辱と無視を耐え忍ばなければならぬ者が、いつも誰かから言ってほしいと願っていることに似ていた。しかし誰も私に言ってくれるものは現れず、私は憤怒を抱え、曲がる背骨を無理に伸ばして生きている。 生きることに意味があるから生きているのではない。意地で人が生きられることを自分に納得させるために生きているのだ 。」(「山川方夫と私」) 江藤氏は「意地」と言う。意地とは「崩壊と屈辱と無視」が降り注ぎ、いつ果てるという希望がない時節においても、苦境に屈服さずに傲然とし続けること、いかな客観的な事物にも主体としての、「私」としてのあり方が侵犯されはしないということを示し続けること、たった一人でも、その崩落に逆らい、胸を張っていた者がいると示すことに他ならなかった。 示さなければならないのは、祖国が「敗北」したからである。眼前に敗北により打ちのめされた者がおり、そしてその人間たちに希望を、あるいは生きて行く支えを与えられるのは、如何なる時節においても、「曲がる背骨を無理に伸ばして生きている」者の姿しかないからであり、打ちひしがれている者を見捨てて自らの満足に走る事が何より卑しい裏切りだと思われたからである。 敗北したことを忘れ、 ごまかし、敗死した者達を知らぬげに暮らしている者達に、 敗北を忘れぬ者が、少なくともここに一人だけ はいることを示威しつづけるためである。 >>生きることに意味があるから生きているのではない。意地で人が生きられることを自分に納得させるために生きているのだ・・・ ここは俺に似ている。俺も生きることに意味があるとは考えない。死ぬことは自分に負けること、格好悪いこと・・・だから「意地」でも死なないで生きる・・・江藤は、敗戦後50年以上意地を張り続けたが...

常見陽平、朝日に噛みつく!いいぞ!

常見陽平が、朝日の天声人語に対して以下:   説教モードの問題提起は届くのか 朝日新聞社のジェンダーギャップ指数は?  本日の朝日新聞は、ジェンダーギャップ指数の問題にかなりの紙面を割いている。本気を感じる。問題提起も力強い。ただ、読み終えて残ったのは、ずっと説教をされ、ダメ出しを受けているような感覚だった。家庭や職場で積み重ねられている小さな変化、その呼吸や体温が伝わってこない。そこまで問題提起したいなら、それでもいい。ただ、これで社会は前に動くのだろうか。  ジェンダーギャップ指数の改善は重要だ。しかし、この指数を「社会の男女平等の絶対的な通信簿」のように扱うことには慎重でありたい。そもそも何をどう測っているのか。なぜその国が上位なのか。意外な国が高かったり低かったりするのはなぜか。順位だけでなく、その構造まで検証したい。正しさの採点に力が入りすぎると、眼前で起きている小さな前進や、生活のなかで人々が重ねている妥協と工夫を取り逃す。  男女共同参画とは、理念や指数だけの話ではない。給与明細があり、スーパーのレシートがあり、保育園や学校への送り迎えがあり、仕事と家事を夫婦でやりくりする時間がある。テレワーク中の妻に夫が昼食をつくる。そんな名もなき変化もまた、社会を動かしている。  糾弾、説教、抗議だけでは人は動かない。どうすれば届く言葉になるのか。「それなら自分も」と思える社会の変え方とは何か。指数の順位に怯えるのでも、誰かの正義を採点するのでもなく、生活の呼吸と体温から男女平等を考えたい。  そして一読者として、これだけ社会のジェンダーギャップを問う朝日新聞社自身の意思決定層はどうなっているのか。読者はバカではない。今日、来日公演するカーカスを聴きながら考えたい。 問題の天声人語は以下。俺は「また始まった・・・」とあきれて飛ばし読みしだけだったが・・・常見ちゃんはしっかり噛みついた。懲りずに今後も朝日に噛みついてくれ。朝日はジェンダーギャップはともかく、批判を聞かない、丁寧な説明もしない、と全く民主的でないということは、編集委員が自白している。  毎年、他の先進国がうらやましく見える日がある。世界経済フォーラム(WEF)の「ジェンダーギャップ報告書」発表日だ。今年、日本は145カ国中117位で、去年より一つ順位を上げただけだった。相変わらず、G7で最下位...