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棒高跳びの理不尽

 アジア大会における女子棒高跳びを見る。日本人が勝ったが、勝利が決まったのち、彼女は記録を伸ばすべく一人棒高跳びを続ける。俺は理不尽を感じる。負けた者は帰るに帰られず、勝者の記録への挑戦を黙って見続けなければならないのだ。 見ていたら、3回続けて失敗したからまだよかったが、仮に成功したら、また3回失敗するまで敗者たちは後悔や惨めな思いを抱えて勝者の独演を見続けなくてはならないのだ。この時点で”競技”ではなくなっている。 この理不尽の原因は勝者を決めることと記録を残すことが別々に切り離して行われるところにある。うまい改善法がありそうだが・・・

賀茂道子「静かなる占領」②

2025年発行 賀茂道子「静かなる占領」読後感: この本は日本人論でもあり、マッカーサー、GHQの立場から書かれた「占領物語」でもある。日本人がこういう視点で占領を語るのは初めてではないか。GHQから見れば「検閲」は占領統治を効率よく確実に行うためのツールだった・・・我が江藤淳を批判的に取りあげるのもやむなしか。 もともと矛盾していた占領方針が冷戦によってねじ曲がった・・・日本人は地震や台風が来たら、頭を下げてじっと待ち、終わったら後片付けして元通り立て直す・・・戦争も占領も日本人にとっては地震や台風同様の天災だった。 昭和天皇についてはかなり批判的と言うか、冷笑的だ。 55年体制の前に、その原型となるものがあった。天皇制を残すべく、天皇自身とGHQとメディアの三者が顔を見合わせながら平仄を合わせたのだ。一方、平成の明仁天皇(夫婦)については手放しの絶賛に近い。 以下抜粋; (敗戦後の)天皇の関心は、三種の神器を保持した上で天皇制が維持できるか否かにあった。三種の神器は天皇が皇祖皇宗から引き継いでいるもので、北朝の血統である天皇にとって、自身の正統性を証明するものでもある。天皇は終戦直前の7月31日、内大臣・木戸幸一に対し、「万一の場合には、自分がお守りして運命を共にする外ないと思う」と悲痛な決意を述べていた。つまり、天皇にとって国体護持とは、三種の神器を保持したままで、すなわち現血統の正統性を確保したうえで、天皇制を存続することにあった。 >>室町幕府の政治力で三種の神器なしにスタートした北朝のコンプレックス。 実際のところ、天皇にとって「象徴」という地位は、おそらくは本意ではなかったはずである。しかし、この時期は、東久邇宮による退位発言や、極東委員会の厳しい状況などが天皇側にも情報として入っており、また東京裁判をにらんで、天皇免責のためにの後の「天皇の独白録」と呼ばれる文書の作成にも取り掛からねばならないと言った、いわば天皇制維持にとっては逼迫した状況であった。当時侍従長であった徳川義寛は、天皇にとって何より重要だったのは天皇制を維持する事であり、「積極的に改正を急ぐ意向によりGHQ案の受け入れを促した」と証言している。このことからも、英国の君主制を理想とし天皇大権を残したいと考えていた天皇にとって、「象徴」を受け入れることは天皇制維持のためのやむを得ない判断で...

記憶と記録

草森紳一 2026年刊 「大正天皇」より  テープレコーダーはないにしても、速記術は流行していたが、だれもがすぐ身につくというものではなく、当時の記者は談話をメモしたのである。あとでその断片を見れば、そのときの相手の言葉や癖までもまざまざと記憶に甦える。1960年代ごろまでの新聞記者は、まだそうしていたように思っているが、録音機を用いるようになってからのほうが、かえってトラブルが多い。それは、現場にあって、要点を頭に刻んでおくという作業が抜け落ちてしまうからではないか、刻んだ後、そのまま忘れてしまっても(忘れた方がむしろ記憶保存にかなうし、からだのためにもよい)、メモ(一種の写真である)さえあれば、そのときの情景までが浮上してくる。 >> 同感。「要点を刻んで頭に刻んでおく」ことが抜け落ちる点では写真を撮るのも同様ではないか?

Billie Holiday "Let's call a heart a heart"

何故か知らないが、YouTube様が勝手にBillie Holidayの歌う "Let's call a heart a heart"をかける。実にいい。クラリネットソロが数十秒間。これがいい。Lester Youngみたい?誰が吹いてんだ、と思わずdiscographyを調べたらIrving Fazolaという寡聞にして知らない人。やむなくIrving FazolaをWikiる。New Orleans生まれで Leon Loppolo の影響を受けたと。あんまり有名なバンドには所属してなかった。最後の方に面白い記述が。Fazolaが使っていたクラリネットの一本は彼の死後、Pete Fountainに譲られたが、ものすごくにんにく臭くてFountainには吹けなかった・・・ホンマカイな? Fazola influenced Pete Fountain, whose style resembled Fazola's and who substituted for Fazola at the Opera House the night of his death. Fountain owned one of Fazola's clarinets, but he said the odor of garlic from it was so strong that it was nearly impossible to play.   Bunny Beriganのミュートトランペットもいい。 Billie Holiday And Her Orchestra Bunny Berigan, trumpet; Irving Fazola, clarinet; Clyde Hart, piano; Dick McDonough, guitar; Artie Bernstein, bass; Cozy Cole, drums #1,2,4, drums, speech #3; Billie Holiday, vocal. NYC, September 29, 1936 この歌、situation,understanding, evidently などと流行歌にあまり使われない固い言葉が。そもそもタイトルの"Let's cal...

そうか、電報って生き残るんだ

中日スポーツに 舘ひろし、高市首相からの電報に感謝「こんなすごい長い電報は初めて。ありがたいです」 と題して以下:  俳優の舘ひろし(76)が21日、東京都内で、芸能生活50周年を祝したディナーショー「HIROSHI TACHI 50th ANNIVERSARY PARTY 2026」を開催した。  ディナーショーには柳沢慎吾(64)、石原良純(64)、仲村トオル(61)、黒川想矢(16)も駆けつけた。  高市早苗首相から電報も入り、司会の代読で「半世紀にわたり俳優として第一線で活躍され日本のコンテンツ産業、映画、テレビ文化の発展に多大な貢献をされてきたことに敬意を表します」とたたえられた。  さらに高市首相は「若い持期には伝説的なバイクチーム、クールスを率い、オートバイとともに青春を駆け抜けられた舘さんの姿は多くの若者の憧れの的でした。私自身もその1人であり、舘さんに憧れてオートバイに乗ったことを懐かしく思い出します」などと読み上げられると、舘は「マイナンバーカードで、着ぐるみを着たときの総務大臣で、そのころからのお付き合いです。こんなすごい長い電報は初めて。ありがたいです」と感謝した。 >>そうなんだ、葬式とか結婚式、ディナーショー・・・ではオールドな電報が有効なんだ。

富岡幸一郎「天皇論 江藤淳と三島由紀夫」

 富岡幸一郎「天皇論 江藤淳と三島由紀夫」より: 文學界(昭和64年2月号)で柄谷行人との対談で浅田彰は 「実を言うと、ぼくは昭和について語りたいとは全く思わない。昨年の9月この方、連日ニュースで皇居前で土下座する連中を見せられて、自分はなんという『土人』の国にいるんだろうと思ってゾッとするばかりです。」と言う。 日本人が日本人であることを恥じる・・・それは西洋啓蒙思想やマルクス主義に心酔した(実存主義でも構造主義でも新自由主義でもよい)一部の「日本人」の問題ではなく、昭和と言う時代そのものの問題、つまり全ての日本人にとっての難問として現れ、今も現前しているといってよい。江藤淳がいうように、昭和天皇自身も、「お若い頃に非常に強い離脱の願望を持たれていのではないか」という問題なのである。「離脱」すなわち明治以降に西洋の文物や思想が入ってくることで、知識人が「洋学者流」に変身して、古い日本式伝統や教養を捨て去ろうとした願望は、インタビューで江藤淳が指摘する満州事変(昭和6年)以降の世界情勢の中で「回帰」・・・すなわち日本主義や民族的なナショナリズムへと雪崩を打って行く。 中野重治「五勺の酒」・・・五勺の酒とは、日本国憲法が公布された時の「憲法特配の酒」の残りの「五勺」のことである。<<僕は午後の祭りをみていたのだ。(略)新聞には十万とあったが、記事そのままで嘘はなかった。僕はおのぼりだからリュックをかついでうしろにいた。天皇が来て、帽子を取らぬ者もいたが、僕は帽子を取った。天皇が台へ上って帽を取った。万歳が起こった。仕かけ鳩が飛んだ。天皇はかえっていった。僕の時計で出てきたのが3時35分、おかえりになったのが36分、正味1分で、全てが終わった。そして終わった時始まったことが僕をおどろかした。(略)散って行く十万人、その姿、足並み、連れとする会話、僕の耳のかぎり誰一人憲法のケンの字も口にはしていなかった。あらゆることがあってそれがなかった。>>日本人が70年間「平和憲法」として守ってきた、その憲法の公布された時の情景を、中野重治はこのように描いている。このような事実はこの瞬間を実際に体験しなかった後世の人々に、一体どのように伝えられてきたか。「平和憲法」という美辞麗句のなかで、この現実は消え去り、「自由」と「民主」と「平和」主義というコトバだけ伝わって来たのではな...

賀茂道子「静かなる占領」

 賀茂道子「静かなる占領」を読んで; 1945年10月4日にGHQが日本政府に 治安維持法や思想犯保護観察法など15件の法律・法令の廃止または効力停止 政治犯・思想犯の即時釈放(共産党員など約3,000人) 特別高等警察(特高警察)など秘密警察機関の解体 内務大臣以下の警察幹部の罷免・解雇 天皇制や国体に関する自由な討議の許可 言論、信仰、集会の自由の保障 人種、国籍、信教、政見による差別の撤廃        を命じた「人権指令」から、 1947年2月1日のゼネスト中止命令までの、 1946年を中心とした1年強の期間が、日本のリベラリストたちにとって燦然と輝く理想郷だったんだなあ、と改めて思う。なにより、リベラリストに限らない多くの日本人が解放感を感じ、希望にあふれる明るい未来を描くことができた期間だった。(飯は食えなくていつも腹ペコだったが) 朝日・毎日の記者、共産党員、社民党員、立憲民主党員の一部他リベラルの皆さんにはそれを実際に見た先輩たちから言い伝えられた、この理想郷の放つ明るい光に目がくらみ、それを取り戻すことしか考えられないらしい。(当時、共産党は武力革命を起こして独裁などという反民主的なことを党是としていた、なんてことはこの際忘れよう) そしてある進駐軍兵士が、高校に出向いて言ったとされる、 「選挙で選ばれた代表同士が意見を交わし、議長が提示した議題について意見のある人は挙手をし、指名されてから意見を述べ、最後に多数決で結論を下す。こうしたやり方が民主主義的な方法で、また他人の話をきちんと聞いたうえで自分の考えと比較する事、さえぎらずに最後まで他人の話を聞くこと、自分の考えを正確に他人に伝えるということが民主主義の基本」 という言葉がその理想境で行われるべき『話し合い』だ。これが「話し合えば分かる」「熟議」といった今では空虚な言葉になって亡霊のように浮遊する。 GHQが与えてくれた理想郷はゼネスト中止令以降、日本を防共の砦にしようという「逆コース」に乗せられる。日本のリベラリストの皆さん、爾来80年たってもまだ、そのときの理想郷を忘れない(忘れられない)というのは立派と言えば立派だ。 こう書きながら、ふと思う。リベラルの皆さん、自民党やアメリカのやることに反対するのはやめて、つまり敵を作って闘うのをやめて、ひたすら自分たちの夢見る理想郷を語った...