福田和也・「江藤淳という人」①
「江藤淳の文学と自決」より: なぜ自殺は、許しがたいのか。どうして江藤氏は、過激な行動に自他を駆り立てることも、その場を立ち去って別の場所の賭けを試みることも断念して、生存し続けることを選ばねばならなかったのか。畏友山川方夫に捧げた文章の中で、江藤氏は学生時代から肩を並べて何とか筆一本で暮らして行こうと奮闘してきた友に語り掛けている。「私は山川に言いたかった。病気が何だ、癲癇(てんかん)が病気なら、大腸カタルも同じ病気じゃないか、頑張って生きてくれ。それは私自身が誰かに言ってもらいたいことに似ていた。崩壊と屈辱と無視を耐え忍ばなければならぬ者が、いつも誰かから言ってほしいと願っていることに似ていた。しかし誰も私に言ってくれるものは現れず、私は憤怒を抱え、曲がる背骨を無理に伸ばして生きている。 生きることに意味があるから生きているのではない。意地で人が生きられることを自分に納得させるために生きているのだ 。」(「山川方夫と私」) 江藤氏は「意地」と言う。意地とは「崩壊と屈辱と無視」が降り注ぎ、いつ果てるという希望がない時節においても、苦境に屈服さずに傲然とし続けること、いかな客観的な事物にも主体としての、「私」としてのあり方が侵犯されはしないということを示し続けること、たった一人でも、その崩落に逆らい、胸を張っていた者がいると示すことに他ならなかった。 示さなければならないのは、祖国が「敗北」したからである。眼前に敗北により打ちのめされた者がおり、そしてその人間たちに希望を、あるいは生きて行く支えを与えられるのは、如何なる時節においても、「曲がる背骨を無理に伸ばして生きている」者の姿しかないからであり、打ちひしがれている者を見捨てて自らの満足に走る事が何より卑しい裏切りだと思われたからである。 敗北したことを忘れ、 ごまかし、敗死した者達を知らぬげに暮らしている者達に、 敗北を忘れぬ者が、少なくともここに一人だけ はいることを示威しつづけるためである。 >>生きることに意味があるから生きているのではない。意地で人が生きられることを自分に納得させるために生きているのだ・・・ ここは俺に似ている。俺も生きることに意味があるとは考えない。死ぬことは自分に負けること、格好悪いこと・・・だから「意地」でも死なないで生きる・・・江藤は、敗戦後50年以上意地を張り続けたが...