柄谷行人「世界共和国へ」(2006年)

<<資本は自由を求め、ネーションは平等を求める。国家はネーションの求めるものを規制や所得の再分配によって再現する。

>>利潤追求の自由vs格差を小さくvs格差を小さくする機構・・・国家はネーションの求める平等を実現する機構 

 <<共産国が崩壊したので、資本主義国は福祉なんて言わなくて済むようになった。(福祉国家の誕生で共産主義は存在意義を失った)

共産国家は『国家』に属し、自由<平等を目指す。福祉国家は「ネーション」に属し、自由も平等も中途半端。新自由主義は『資本』に属し、自由>平等。

共産国家が崩壊し「資本は利潤追求のため、国内の雇用なんて無視して海外に出ていってよい」という新自由主義が生まれて来た。

マルクスは、国家によって資本主義経済と階級社会を揚棄すれば、国家は自然に消えてしまう、と考えた。

>>マルクスは「宗教はアヘン」とか言いながら、キリスト教の終末思想から逃れられなかった。革命が起きて資本主義が終わったら労働者が救われる・・・ところが、ソ連において革命を起こして政府を転覆しただけでは自動的に労働者は救われなかったし、2代目のスターリンは独裁政府を作った。マルクス主義者自身もマルクス主義を宗教のように信じたから、革命が自己目的化した。


<< 交換の仕方が変遷するにつれ、共同体が国家になって行く

互酬:労働同士、物同士、労働と物の交換@部族的共同体

略取ー再分配:力で労働や物を独り占めし、再分配する@絶対主義国家

商品交換:金と労働・物の交換@法の支配によって略取を断念させる自由な国家

※地縁・血縁的共同体では、返礼として金を払うと、「水臭い」(=非共同体的)と言われる

国家とは、ある共同体が他の共同体を継続的に支配する形態。①暴力的収奪は一時的でしかない。支配を永続させるには被支配者を保護育成する必要がある。②まずは共同体があり、周辺の共同体がそれに対して防衛、独立しようとして次から次へと国家が生まれる。

>>共同体がいくら大きくなっても、それだけでは「国家」とはならない。隣に同じような共同体ができ、接触して競争相手ととらえると始めて相手を敵国と意識し、自国も意識する。

<<プロテスタントは「天国に宝を積む」ためにこの世では無欲。

<<一般に、呪術師は雨ごい祈祷師ですが、メソポタミアやアラビアでは、収穫を生み出すのは雨ではなく、もっぱら灌漑であると見なされた。このことが、国王の絶対的支配を生んだわけですが、同時に、大地や人間を産み出す神ではなく、それらを「無から」創り出す神という観念を生じせしめる一つの源泉となった、とウェーバーは言っています。それに対して、インドや中国では「神なき」宗教論が生じた、と。

>>大地や人間を産み出すのは自然だ。灌漑ではなく雨を直接利用した日本では手つかずの自然・・・山、海、木・・・をそのまま神様とし、神様は万物を産み出した。メソポタミアやアラビアでは神様は産まないで、万物を灌漑設備を作るように創造し、独占し、絶対者となる。

<<大企業においては、経営者は社員の中から選ばれています。いちおう誰でも末は社長になれるかのように見えます。実際、資本制企業を経営だけで見れば、「労働者の自主管理」とさほど違いはありません。しかし、この経営は究極的に、資本(株主)に拘束されているのです。社員の総意がどうであれ、経営者は資本の要求ー利潤の実現ーを満たさなければならない。市民革命以後の国家、政府、国民の関係は、このような株主、経営者、労働者の関係に類似するものです。絶対主義王権国家において国家の存在は明白でした。しかし、市民革命以後、それは隠れてしまいます。それを見ようとすると、われわれは国家ではなく、政府を見出すことにしかなりません。もはや資本家は存在しない、と言う意味で、もはや国家の主権者は存在しない。だが、資本が存在するという意味で、国家はあくまで存在するのです。このことは通常は見えません。しかし、株主が経営者を解任したり企業を買収したりする場合、ひとはまさに「資本」があるということを実感するでしょう。同様に、国家が存在するということを人が如実に感じるのは、戦争においてです。つまり、他の国家との戦争において、国家の本質が出てくるのです。

>>戦争が起きれば、国・国民は国家のものであることが感じられる。M&Aの時、会社は株主のもの、と感じる。戦争を知らぬ俺は確かに国家など感じない。M&Aの時は、鈍感で株主なんて感じずに、なぜ、こんなバカなことをするんだ?とだけ思った。

<<ホッブスの考えでは、「主権者以外のすべてのものは彼の<国民>subjectである」。つまり、国民という主体は、絶対主義王権に服従する臣下として形成されたのです。だから、ホッブスは個々人から出発するアトミズムとは無縁です。ホッブスは、主権者に対する服従がそれによって安寧を獲得する交換であることを見抜いた。

>>臣下は主権者に安寧を与えられ、見返りに服従する・・・鎌倉時代の土地を安堵され、「いざ鎌倉」と忠誠を誓うのと似てる。

<<通常、国民は国家というものが実のところ、つねに他国との戦争に備えていることに気づきません。だから、戦争は、突然の出来事のように見えます。しかし、それは長期的な展望と戦略によってされたものです。そして、それを実行するのが常備軍と官僚機構です。これらが西ヨーロッパでは、絶対主義国家によって形成されたものだということは、既に述べました。では、それは、絶対主義王権が市民革命によって廃棄された後、どうなったのでしょうか。軍と官僚機構は廃棄されるどころか、質量とも増大したのです。そして、それは別に国民のためではありません。国民の下であろうと、国家はそれ自身のために存続しようとするのです。

社会契約の考えによれば、国家は人民による意思決定に基づくものです。それは国家を政府と同一視することになります。一方、マルクス主義者は国家を経済的な階級(ブルジョアジー)が支配するための手段として見てみました。それは国家の自立性を認めないという点では、社会契約論者と同じです。マルクス主義者は階級対立が解消されたならば、国家は自ずから解消されると考える。だから、資本主義経済を廃棄するために、国家権力を握ることは、一時的に許容されるという考えになります。しかし、国家は何かのための手段とはなりえない。国家を手段と見なすものは、逆に、国家の手段にされてしまうほかないのです。たとえば、革命は旧来の国家機構を廃棄するように見えます。しかし、それは直ちに外からの軍需的干渉を招くので、革命の防衛のために旧来の軍・官僚機構に依存するほかありません。かくして、旧来の国家機構が保存され、再強化されるようになる。国家をその内部だけから見る考えでは、国家を揚棄するどころか、むしろ、国家を強化することにしかなならないのです。

>>国家は人民による意思決定がなくなろうと、階級の対立がなくなろうと、なくならない。革命が起きると、周囲の国々が干渉したり、混乱に乗じてちょっかいを出す。そうなれば、革命を起こした側の国家意識はますます高まる。

<<マルクスは、ルイ・ボナパルトがあらゆる階級に対して気前よく「贈与」することによって権威を得ていく過程を描いています。<ボナパルトはあらゆる階級に対して家父長的な役を演じたいと思う。しかし、彼は、他の階級から取ってこない事には、この階級にも何もやれない>ボナパルトは略奪したものを再分配しているだけなのに、それが「贈与」として受け止められている。そのため、彼は全ての階級に贈与するような超越者、すなわち皇帝として表象されます。しかし、この過程は、国家機構による略奪ー再分配と言うメカニズムが、贈与ー返礼という互酬という表象の下で機能するようになることを意味しているのです。

>>再分配のマジック。何ら付加価値を生み出していないのに、再分配がうまければ、国民から感謝される・・・不思議と言えば不思議だ。でも再分配のおかげで丸く収まるんならそれはそれで素晴らしい芸(スキル)ではある。

<<資本は生産過程におけるプロレタリアを規制することができるし、積極的に協力させることもできます。これまで生産過程におけるプロレタリアの闘争として(政治的)ストライキが提唱されてきましたが、それはいつも失敗して来ました。しかし、流通過程において資本はプロレタリアを強制することはできません。働くことを強制する権力はあるが、買うことを強制することはできない。流通過程におけるプロレタリアの闘争とは、いわばボイコットです。そして、そのような非暴力的で合法的な闘争に対して、資本は対抗できないのです。

>>労働者兼消費者は、労働者として働かないなどとゴネても資本には勝てないが、消費者として買わないという手は有効だ。このボイコットってのは、嫌いな国をいじめるのにも使える。その国のものを買わない、というやり方。高橋和夫先生によれば、これで南アフリカのアパルトヘイトは止んだとか。

<<アントニオ・ネグリとマイケル・ハートは、「帝国」の中で1990年代、冷戦の終結とともに、帝国主義は終わって、帝国が出現した、と言っています。それは、湾岸戦争(1991年)において、アメリカが絶対的な軍事力ヘゲモニーを持ちながら、国連の指示を得て動こうとしたことに示される。彼らはそこに、ローマ帝国に似たものを見出すのです。<湾岸戦争の重要性は、次のような事実に由来するのである。つまり、それは、この戦争によって合衆国がそれ自身の国家的動機に応じてではなく、グローバルな法権利の名において、国際的正義を管理運用することのできる唯一の権力として登場した、ということである。>しかし、合衆国が帝国主義ではなく、帝国だという考えに私は賛成できません。どのような国民国家も、国民国家でありつつ「帝国」であろうとすれば、帝国主義に陥るほかはないのです。そしてそれは、他国民だけでなく、アメリカ国民の側からの反発を招かずにはいない。実際、アメリカが帝国主義でなく、帝国であるという主張は、湾岸戦争から10年後のイラク戦争において反証されています。アメリカはもはや国連の支持を得るどころか、それを公然と無視する「単独行動主義」に踏み切ったのですから。

>>帝国とは、日本国憲法前文に書かれたような平和・自由・平等を希求する徳ある国。帝国主義とはエゴ丸出しで略奪する考え・行動原理。今、徳ある国なんてないだろう。それでも、絶望せず、平和憲法と心中して日本は数少ない「徳」を発揮するなんてのもいいね。自衛は捨てて。上岡龍太郎が言ってたように、「平和憲法を盾に丸裸になって滅ぼされた日本という国がありました」というレジェンド・語り草になるのだ。


コメント

このブログの人気の投稿

”関口宏の一番新しい近現代史”を見る

長嶋追悼:広岡さん

Art Pepper "Violets for your furs"を聞く