安藤輝三の死にざまに感動

何十年かぶりに「日本人とユダヤ人」を再読し始めたが、文中「226事件の安藤大尉」というくだりがあり、安藤大尉こと安藤輝三をWikiってみて、日本人らしいエピソードに感動を覚えた。以下、Wikipediaより抜粋:

1905年明治38年)2月25日岐阜県揖斐郡揖斐町生まれ(略)

1926年(大正15年)10月25日、任歩兵少尉、補歩兵第3聯隊附。

(略)

1935年(昭和10年)1月17日、補 第2大隊(大隊長伊集院兼信少佐)第6中隊長

中隊長となるにあたっては、部下、同僚からの信望が厚い一方で過激な青年将校たちと関係する安藤を危惧する聯隊長井出宣時歩兵大佐(21期)に対して「誓って直接行動は致しませぬ」との証文を提出した。秩父宮からの口添えもあった。

(略)

安藤は歩3の下士官と将校の教育を計画し、相談に乗った青木常盤が永田に申し入れると、永田は快諾して7,000円の予算をさき、「安藤ならば大丈夫だ。教育構想、講師の人選、運営などは一切安藤に任せて、決して干渉はするな」と言った。統制派の筆頭だった永田からも信頼される安藤の人柄が伺われる。

二・二六事件〜鈴木貫太郎襲撃〜

事件3年前の1933年(昭和8年)に、安藤は日本青年協会の富永半次郎や青木常磐と共に鈴木貫太郎邸を訪問し、時局について話を聞いた事があり面識があった。

鈴木は安藤に親しく歴史観や国家観を説き諭し、安藤は大きな感銘を受けた。面会後、安藤は鈴木について「噂を聞いているのと実際に会ってみるのでは全く違った。あの人(鈴木)は西郷隆盛のような人で懐の深い大人物だ」と語っている。後に鈴木は座右の銘にしたいという安藤の要望に応えて書を送っている。事件に際して安藤は鈴木を一時的に監禁することで済ませることはできないかと考えていた。

決起に対しては慎重な態度を取り続け、あくまで合法的闘争の道を主張したため、磯部らは一時安藤抜きでの計画を検討した。しかし、安藤は最終的に成功の見込みが薄いとは知りながらも、同志を見殺しにすることをよしとせず、直前の23日になって参加を決断した。だが反乱に巻き込まれた部下達は、後に忌避され前線に送られ死ぬ者が多かった。

決断後は積極的に同志を集め、叛軍中最大勢力である歩3を統率して見せた。歩3からは全反乱部隊の総兵力の60%が参加した。

午前5時頃に鈴木貫太郎を襲撃した。はじめ安藤の姿はなく、下士官が兵士たちに発砲を命じた。鈴木は三発を左脚付根、左胸、左頭部に被弾し倒れ伏した。血の海の中となった八畳間に安藤が入ると、「中隊長殿、とどめを」と下士官の一人が促した。安藤が軍刀を抜くと、部屋の隅で兵士に押さえ込まれていた鈴木の妻・たかが「お待ち下さい!」と大声で叫び、「老人ですからとどめはお止め下さい。どうしても必要というなら私が致します」と気丈に言い放った。

安藤はうなずいて軍刀を収めると、「鈴木侍従長閣下に敬礼する。気をつけ、捧げ銃」と号令し、たかの前に進み出て「誠にお気の毒なことを致しました。我々は閣下に対しては何の恨みもありませんが、国家改造のためにやむを得ずこうした行動をとったのであります」と静かに語った。

たかの「あなたはどなたです」の問いに官職も何も付けず「安藤輝三」とのみ答えたと伝えられる。この後、女中にも自分は後で自決をする意思を伝え、兵士を引き連れて官邸を引き上げた。

鈴木は安藤処刑後に「首魁のような立場にいたから、止むを得ずああいうことになってしまったのだろうが、思想という点では実に純真な、惜しい若者を死なせてしまったと思う」と記者に対して述べている。また「安藤がとどめをあえて刺さなかったから自分は生きることができた。彼は私の命の恩人だ」とも語っている。

事件後

決起には消極的だったものの、ひとたび起った後には誰よりも強い意志を貫いた。山下奉文に唆され、一同が自決を考えた際も徹底抗戦を訴えてそれを退け、敗色が濃厚となる中、山王ホテルを拠点に最後まで頑強な抵抗を続けた。投降を決断した磯部の説得にも「僕は僕自身の意志を貫徹する」として応じなかった。

大勢が決したことを悟ると、一同の前でピストル自殺を試みる。磯部は慌てて羽交い絞めにして押し止めたが、彼の決意は翻らなかった。

説得に訪れた直属上官の第2大隊長伊集院兼信少佐は「安藤が死ぬなら俺も自決する」と号泣し、部下たちもこぞって「中隊長殿が自決なさるなら、中隊全員お供を致しましょう」と涙ながらに訴えた。安藤は宿願だった農村の救済が出来ないことを悔やみつつ、部下たちには自分の死後も、その目標を果たすよう遺言した。

磯部はこの光景に感涙しつつも、「部下にこんなに慕われている人間が死んではならない」と必死に説いた。その間にも上層部は何とか安藤と兵たちを引き離そうと計るが、第6中隊の結束は固く、全員が靖国神社で死ぬ覚悟であった。

しかし安藤は兵を投降させることを決断し、「最後の訓示」を与えた後、皆で「吾等の六中隊」の歌を合唱するよう命じた。曲が終わった瞬間、安藤はピストルを喉元に発射して昏倒したが、陸軍病院における手術の末一命を取り留めた

(抜粋終了)

俺は、1920年代、軍縮もあって軍人人気が落ち込み、志願者が減り、それが軍人の質の低下をもたらし、また、数が減った若手に阿り下剋上を煽った上司がいたことが515事件や226事件の原因だ、と考えている。安藤大尉も1920年代に軍人になった。しかし彼は愛すべき純真さを持っていた。部下にも慕われた。そして瀕死の重傷を負わされた鈴木貫太郎の奥さんの「老人ですからとどめはお止め下さい。どうしても必要というなら私が致します」という言葉で安藤がとどめを刺さなかったこと、とどめをさされそこなった鈴木貫太郎の「彼は私の恩人だ」という言葉、いかにも日本人らしい、と思う。

日本人とユダヤ人の筆者は2・26の安藤大尉を「思いつめていたから」人を引きずった、と言う。そしてユダヤ人がいくら思いつめても誰も指一本動かしてくれない、思いつめたからと言って、自己の生存も、自己の安全も、自己の希求も確保できない。これらの全ては、自らの手で、高いコストをかけて、保存しなければならない、とユダヤ人の特徴を日本人と比較して述べる。

日本人は純真さ、思いつめの一途さがあれば議論に勝てる(相手を黙り込ませることが出来る)がユダヤ人は良さそうな選択肢をたくさん提案し、良い提案が出来た方が勝ち、とも。

確かに純真に思いつめるだけでは226というクーデターは成功しなかったし、戦争にも負けた。だがしかし、戦争に負けたあと、立ち直ったのも事実だ。それが日本人だ。

閑話休題:

226事件で日本は軍部に占領され、戦争に向かった。一方、226事件でとどめをさされそこなって生き残った鈴木貫太郎が総理大臣になって戦争を終わらせた。


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