日本人とユダヤ人より その3
七 日本教徒・ユダヤ教徒 より抜粋:
(略)日本教の中心にあるのは、神概念ではなく、「人間」と言う概念なのだ。
「人の世を作ったものは神でもなければ鬼でもない。やはり向こう三軒両隣にちらちらするただの人である…草枕を読まずに日本を語ってはならぬ。(略)五年も十年も人の尻に探偵をつけて、人のひる屁の勘定をして、それが人世だと思っている。そうして人の前に出て来て、お前は屁をいくつひった、いくつひったと頼みもせぬことを数える。前へ出て言うなら、それも参考にして、やらんでもないが、後ろの方から、お前は屁をいくつ、ひった、いくつ、ひった、と言う。うるさいと言えば猶猶言う。よせと言えば、益々言う。分かったと言っても、屁をいくつ、ひった、ひった、と言う。そうしてそれが処世の方針だと言う。方針は人人勝手である。ただひったひったと言わずに黙って方針を立てるがいい。人の邪魔になる方針は差し控えるのが礼儀だ。邪魔にならなければ方針が立たぬと言うなら、こっちも屁をひるのを以って、こっちの方針とするばかりだ。そうなったら日本も運の尽きだろう。」
漱石、この西欧の古典、日本の古典、中国の古典、仏典までを自由自在に読みこなし、自分の作品の中に縦横に駆使しえた同時代の世界最高の知識人が到達したのは、「人の世を作ったのは人だ」という、日本教の古来から一貫した根源的な考え方である。(略)
川端康成氏がハワイ大学で言ったことをお忘れなく。日本では「以心伝心」で「真理は言外」であるのだから。従って「はじめに言外あり、言外は言葉と共にあり、言葉は言外なりき」であり、これが、日本教「ヨハネ福音書」の冒頭なのである。(略)日本教の根本理念を形成する「人間」なるものの定義が、すべて言葉によらず、言外でなされている。従って日本教の世界に外国人は絶対に入れないし、外国の宗教も日本には絶対に入れないのである。(略)法外の法、言外の言、この二つが日本教の根本理念である「人間性」を定義しており、一切の異邦人は、この聖域に近寄ることを許されない。(略)憲法改正(悪)絶対反対というが、日本人はいついかなる時代にも憲法を改正したことがない。(略)面白いのは大宝律令である。時勢が変わって、律令では規制できなくなったら、これを改正すればよさそうなものをあえてせず「令外の官」を設ける。検非違使はこの「令外の官」だが、面白いことに、自衛隊も「令外の官」である。(略)私はある日本人に「この集団を憲法改正して明確に規制しろ」と提案したことがある。(略)ところが彼の返答はまことに奇妙でありまた興味深いものであった。「なるほど、そうかもしれない。だが今の日本では憲法に手が付けられないよ」と。(略)憲法はいわゆる法律ではなく、日本教の宗教的律法言わば一種の聖典ないしは宗団戒規なのである。
閑話休題:
俺は自衛隊は違憲と思うが、七平さんは「憲法の外の存在」だと。また自衛隊は必要と考えていて、自衛隊の存在を認めるような改憲をしろと。ただ、日本人には改憲はできない、と実績をもとに語っている。まあ、そうだろうと思う。思うが、自衛隊員の皆さんのためには改憲して自衛隊を合憲化するか、それができないなら自衛隊を廃止して、「災害時の救助と攻められたら逃げるのをサポートする隊」に改組してあげたい。そんな考えは憲法を含む法律に書かれている言葉なぞにこだわらない日本人には通用しない。しかし、これで他の国とまともにお付き合いできるとも思えない。やっぱり鎖国した方がよい。
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