仏教を毛嫌いしていた高山樗牛が何故、日蓮を賛美したのか?
明治30年(1897年)に「日本主義」を発表し、日本人は現世を大切にするから来世だとか前世などを云々する仏教なんて百害あって一利なしだ、と徹底的にこき下ろした高山樗牛が、その「舌の根の乾かぬ」明治35年(1902年)に「日蓮上人とは如何なる人ぞ」という日蓮を賛美する文章を出す。田中智學という日蓮主義運動家に感化されて日蓮を賛美するようになったらしい。
ここで田中智學をWikiる。1903年に智學が、日本書紀の、神武天皇の詔勅にある「掩八紘而為宇」=八紘(あめのした)を掩(おお)ひて宇(いえ)にせむ をもとに造語したと言われる”八紘一宇”とは:
人種も風俗もノベラに一つにするというのではない、白人黒人東風西俗色とりどりの天地の文、それは其儘で、国家も領土も民族も人種も、各々その所を得て、各自の特色特徴を発揮し、燦然たる天地の大文を織り成して、中心の一大生命に趨帰する、それが爰にいう統一である。
といういかにも日本人らしい、唯一絶対の神のもとの統一ではなく、民族民族によって違った特徴を発揮した上で統一する、という今でいうダイバーシティに富んだ考え。ちなみに八紘の八は「たくさん」、紘は「ひも」の意とすれば、「たくさんのバラバラのひもを一つにまとめる」となる。
日蓮をWikiれば:
日蓮は浄土宗(法然)の”極楽に行きたければ一心に「南無阿弥陀仏」と唱えろ”、という教えを徹底的に攻撃し、「立正安国論」を時の執権・北条時頼に提出して浄土宗・真言宗に代表される間違った仏法を信じるのをやめないと国は乱れ、外国からも侵攻される、正しい仏法=法華経に従え、と説いた。このため、浄土宗からは襲撃され、幕府によって流罪とされたがそれでも都合3回、幕府に意見し、働きかけた。しかし、幕府は聞く耳を持たなかった・・・つまり、日蓮は日本を末法から救うために既存仏教を捨てて法華経を信じろと権力者に意見し、その結果、迫害され命を狙われたがそれでも屈しなかった。
仏教嫌いの高山樗牛が日本の仏教の親分のうち、日蓮だけ好きになった理由がなんとなく分かる。国の庇護を受けてぬくぬくとしている仏教はダメだが、国を救うために命がけで権力にぶつかっていく日蓮はリスペクトする、ということだろう。これは革命、改革を目指す人、反権力の人には左右の別なく受けると思われる。
閑話休題:
同じく田中智學の影響で日蓮に憧れたのが石原莞爾だ。石原は陸軍所属だったが、日本国を救うには、ヌクヌクと育った陸軍では駄目だ、と官僚としては優秀な東条英機を馬鹿にし衝突した。石原も高山も山形県鶴岡市出身。二人とも独特の歴史観を持ち、日本がどうあるべきか(国体)についても強い考えを持っていた。何か因縁を感じる。
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