日本人とユダヤ人より その2

 六 全員一致の審決は無効 より抜粋

日本では、全員一致の議決は、最も強く、最も正しく、最も拘束力があると考えられている。だがユダヤ人はその逆で、その決定が正しいなら反対者がいるはずで、全員一致は偏見か一時の興奮の結果、または外部からの圧力以外にありえないから、その決定は無効だと考えるのである。日本では極端な場合、明らかに全員ではないのに、全員の如くに強弁する。たとえば「全国民が一致して反対している安保を強行し・・・」といった言い方である。

ユダヤ人の弁証法の最も奥底にあるのものは、人間には絶対的無謬はありえないということであろう。従って全員一致して正しいとすることは、全員が一致して誤っていることになるはずで、たとえわずかでも異議を称える者があるなら、その異議との対比の上で、比較的、絶対的正義に近いこと(すなわち無謬に近いこと)が証明されるわけで、少数の異論もある多数者の意見は比較的正しいと信じてよいということなのである。全員が一致してしまえば、その正当性を検証する方法がない。絶対的無謬はないのだから、全員が誤っているのだろうが、それもわからない。従って誤りでないことを証明する方法がないから、無効なのである。(略)

日本では、「決議は百パーセントは人を拘束せず」という厳格たる原則がある。戦争直後、ヤミ米を食べずに餓死した裁判官が一人いた。ということは、その人が例外なのであって、他の裁判官はもちろんのこと、この議決をした議員も、その議員を選出した国民も、誰一人として、国会の議決によるこの厳然たる法律に、百パーセント拘束されていなかったことを示している。ユダヤに限らず、アメリカでも「懲役256年」などという判決が出る。日本人の目から見れば、百年だろうが、百五十年だろうが、二百年だろうが、人間がそんなに生きているはずがないから、こんな数字は無意味であろう。しかしアメリカでは、それはあたりまえのことで、法は法として百パーセント適用されねばならないからであって、その人間がその期間の全部を服役できるかできないかは問題外なのである。(略)日本では、国権の最高機関と定められた国会の法律さえ、百パーセント国民に施行されるわけではないから、厳守すれば必ず餓死する法律ができても、別に誰も異論は唱えない。法律を守った人間はニュースになるが、破った人間はもちろん話題にも上らない。といって全日本が無法状態なのではない。ここに日本独特の「法外の法」がある。

(略)この法外の法の基本は何なのであろう。面白いことに、それは日本人が使う「人間」または「人間性」という言葉の内容なのである。「人間味に溢れている」「人間性豊かな」「人間が出来ている」「本当に人間らしい」とか言う言葉、またこの逆の「人間とは思えない」「全く非人間的だ」「人間て、そんなもんじゃない」「人間性を無視している」という言葉、この、どこにでも出て来るジョーカーのような「人間」という言葉の意味する内容即ち定義が、実は、日本における最高の法であり、これに違反する決定はすべて、まるで違憲の法律の様に棄却されてしまうのである。守れば餓死するような法律などは、「そんな人間性を無視した法律を守る必要はない」と全国民が考えると、その瞬間に違憲として棄却されるから、ないも同然になる。それならこの法律を国会で廃止すればよいではないか、と主張する外国人がいれば、まことに日本を知らぬ奴といわねばならない。というのは、この法律は「人間性を無視しない範囲内」では厳然として存在し、それをおかせば罰せられるのである。従って「そりゃ、ヤミをやらねば食っていけないし、おれもやってるけど、あいつはやり過ぎるよ。あんなことまでやれば、捕まるのはあたりまえだ」ということは、人間性という法外の法の保障する範囲がはっきり決まっており、これを乗り越えれば、すぐさま、国会の定める法により処断される。それが当然だ、という考え方である。(略)

日本の新聞は、不偏不党とか公正とかいうだけで、対象を見ている自分の位置を一向に明確に打ち出さない。これは非常に奇妙に見える。物を見て報道している以上、見ている自分の位置というものが絶対にあるし、第一、その立場が明確でない新聞などが出せるはずもなければ読まれるはずもない。不偏不党などという位置があるはずがない、というのは、そういう位置に立ちうるのは神だけである、というのがユダヤ教、キリスト教、イスラム教にほぼ共通した考え方だ。従って人間である限り、自らの位置を明確にしなければ公正でないから、それを明確にせず、否、明確にしないことが不偏不党かつ公正だなどと言われると、西欧人の頭はこんがらがってくる。(略)私は日本の新聞の立場は、今まで述べてきた「法外の法」であり、日本教の宗規なのだと思う。すなわち、日本人がよく口にする「人間」「人間的」「人間味」といった不思議な立場に断固として立っている。

閑話休題:

ここが本書の一番の肝だ。唯一絶対の神との対比で人間を不完全なもの、必ず間違えるという前提の一神教徒。神ではないから絶対正しいことは決めたり実行したりできないが、比較的正しそうなことをやろうじゃないか・・・。そして後日それが間違っていたら直せばいいじゃあないか・・・。一神教徒ならぬ日本人は人間が不完全なものとは考えない。様々な状況で人間は神になりうる。そんな人間が「みんな」で決めたなら間違いはないと考える。(厳密に言うとみんなで決めたことだから例え間違っていてもOKということで、あとで間違っていることが分かっても決めたことは一々変えることなく、そのままにしておいて、「人間」らしく適当に運用していく)

片や256年の刑、片や反省の度合いで刑期を左右。片や人間を支配するロゴス(神、言葉)としての法。片や人間が法をも左右・支配。

法外の法。理外の理、言外の言・・・法も理も言もロゴスだ。「そりゃあ理屈ではそうなるけど…」と言われるその「理屈」だ。21世紀に入ってグローバルスタンダードなどと言って、日本でも法外・理外・言外を認めないような風潮が強い。そっちに行くんならそれはそれでいいかも知れないが、日本人らしさが出て来るから、そっちにも徹底できない。政治も経済も技術開発も中途半端なので何もうまく行かず、失われた〇十年と言われる。

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