日本人とユダヤ人より その5

 十四 プールサイダー より抜粋:

さる高名なファッションモデル嬢は、ハイヒールを履いて生れて来たように見えたという。これはこの人々の特技で、全ての衣装を、まるで自分が生まれながらに身につけていたかのように優美に着こなす。だがしかし、率直に言えば、彼女らは着せられているのであって、その衣装を考案し、作成したのは別人であり、彼女らにそれを生み出す力はない。日本における知識人とか文化人とか言われる人々も、多くはまさにそれで、主として西欧で流行している思想を、実に巧みに自分の脳細胞にまとうから、それがまるで、生まれるときからそいう思想を持っていたかのように見えるのである。ということは、あたかもその人が、その思想を生み、育て、かつ発表しているような錯覚を人々に抱かすのである。ある人々の、流行の思想の「着こなし方」のうまさは、まさに神業ともいえる。そして流行の変転とともに、いつも実に巧みに着かえつつ、その間を、演技でつないで行くから、常にステージに立っていられるわけである。だがパンタロンをパタントロンとひきずってころび、腰の骨を打った女性がいても、それはその女性が悪いのであって、ファッションモデルには何の責任もないと言えるなら、脳細胞に巧みにまとっていた思想を頭からすっぽりかぶって目が見えなくなり、穴に落ちて一生を棒に振っても、それは振る方が悪いということになるであろう。いわゆる識者や、文化人、ある種の大学教授や評論家の卓説を、ファッションショーのように見ているなら、「取るべきものは取り」「取りたくないものは着せておけ(言わせておけ)」という言い方は正しいであろう。その人には自らの衣装があるのだから。

(略)マグロのトロが美味しいなら、これを切ってもっとも純粋な形で(ということは、切り身をデンと銀の皿にでものせて)供すればよい、他のものがあっては、かえってその真味が味わえない、とするのがユダヤ人の考え方(というより生き方)である。まさに「土の器に黄金を盛る」行き方なのだ。中が純金なら、器はどうあれ、純金は純金であり、中の金にまじりものがあるなら、容器がいくら立派でもそれは金として価値がないことは事実だが、「かく申すも、それは理屈なり」であろう。文学でも思想でも同じであって、日本に紹介するときには、紹介者によって必ずツマがつけられている。ツマは食べられずにごみ箱に直行したって、絶対に不必要なものではないのである。思想の法を主体に見れば、その人間が自ら思想のツマになっているわけであり、こうしない限り日本人には摂取できないとすれば、本質的には無視され(言わせておかれ)ても、これまた必要な存在である。(略)

こう考えてくると、日本の社会にはすべてツマがある。お嬢さんが大学の英文科に通って教養を身につける、というのは御嫁入りのためのツマであろうから、教えられたことが役に立つとか立たないとかは、はじめから論外のはずである。従ってツマを自慢すれば、鼻をつまれるのも、また当然である。だが、だからといってツマが不必要だとは言えない。(略)しかし言うまでもなく、問題の本筋はツマよりサシミなのだ。このツマが引き立てているサシミとは「評論家の言は、とるべきものはとり、とるべきでないものは(反論もせずに)聞き流しておけ」という、一つの基準性を打ち立てているその精神なのだ。(略)アラビア数字と長らく接触せず、従って筆山が出来なかったということが、逆にソロバンという五進法計算機を極限まで活用する道を開き、同時にこれが徹底的に普及して、玉で(ということは数字という文字なしで)数を自由自在に扱うに至ったというのは、全く特異な現象である。日本人が少しも億劫がらずに数を扱うことは一つの事実である。だが、一方、言葉の訓練となると、これの比重は非常に軽い。というより「ない」と言った方がよい。特に会話の訓練を、ソロバンのように的確に徹底的に習熟さす伝統は日本には全くない。(略)母親が子供に「チャント・オッシャイ」という場合、明晰かつ透明(英語ならクリヤー)に言えということでなく、発声・挙止・態度が模範通りであれ、ということである。クリヤーということは、原則的に言えば、その人間が頭脳の中に組み立てている言葉のことで、発声や態度、挙止とは全く関係ないのである。プラトンの対話編から、例として「クリトン」をあげてみよう。この対話は、明日の死刑執行を前にして、夜明けに、獄中のソクラテスをクリトンが訪ねて、脱獄をすすめるところから始まる。もちろんソクラテスは、おそらく最後まで寝ている。だがどう読んでみても、ソクラテスが起き上がって、威儀を正して、法の遵守を説いて、クリトンに反論したとは思えない。ソクラテスは恐らく最後まで寝っころがったままで話しているのだ。従って、この場合、純粋に、ソクラテスの言った言葉(ロゴス)だけが問題なので、彼の態度や語調は全く問題にされないのである。日本では「その言い方は何だ」「その態度は何だ」と、すぐそれが問題にされるが、言っている言葉(ロゴス)そのものは言い方や態度に関係がない、従って厳然たる口調と断固たる態度で言おうと寝転がって言おうと言葉は同じだなどとは、誰も考えない。従って純然たる会話や演説の訓練はなく、その際の態度と語調と挙止だけの訓練となる。(略)ロゴスに計算という意味のあることを知っている日本人はいるのだろうか。

(略)言葉を使うということは「重い戦棍を持ちあげて振り回すほど」大変なことのはずなのに、日本人は、まるで箸を使うように、何の苦もなく自由自在に使い、かつ使い捨ててしまう。日本人ほど安直に言葉を使い捨ててしまう民族は、おそらく他にないであろう。(数字ならそうは扱わないのに)そしてこれが、プールサイダーや脳細胞ファッションモデルの活躍の素地であろうが、同時に日本には、使い捨ての結果生じる別の言葉が厳として存在するからであろう。問題はおそらくここだ。

(略)ヨーロッパ人なら、複雑な加減乗除も、アラビア数字を使って筆算しなければならない。筆算は言うまでもなく、強度の意識的思考と精神的集中と注意力・持続力がいる。一方ソロバンは全く逆なのだ。「考え」たらソロバンは止まってしまう。いわば、数字を見つつ(あるいは聞きつつ・・・こんなことは西欧人には想像もできない)、意識的思考を極力排除して、無心で半ば放心状態で指を動かす、すると「答が出る」。答えはあくまでも「出る」のであって「出す」のではない。この不思議さはオイゲン・ヘリゲルが「弓と禅」でも取り上げている。「矢が的に当たる」のであるから、「矢を的に当てようとする意識を極力排除して(すなわち無心で)的に向かう」ことが当然である。ソロバンでも名人の指は全く無心に踊っている。(略)聖書とアリストテレスの論理学で1千数百年訓練された西欧人の思考が数式的なら、日本人の思考の型はまさにソロバン型である。これに完全に習熟した人の、目にもとまらぬ早さで出したものが。いわゆる「カン」であろう。従ってこういう場合、この「カン」の出て来た過程を説明してくれと言っても、それは無理である。(略)戦後日本では「意識的思考を排除する」教育がすたれ、「考える教育」が行われている。この結果、二種類の日本人が出て来た。成功例は、ソロバン型思考が完璧にできて、しかもその思考過程を数式的思考で検証しうる人間である。(略)もうひとつは失敗例で、ソロバン型思考も数式的思考もできなくなった人間である。

(略)ソロバンの名手は、手にソロバンを持たないでも頭にソロバンを浮かべただけで複雑な計算ができる。この人に向かって、その際にはソロバンが「物理的に」存在しないと証明したところで、それは無意味である。ソロバンが物理的に存在しようとしまいと、彼にはソロバンが実在しており、それを駆使して得た答えは、一つの正確な成果として、実際の生活の影響を及ぼし、時には、最終的な決定を下している。前述のユダヤ人にとって神とその律法は、このソロバンのごとくに厳然として実存しているのである。従って無神論者が、いかに、神が物理的には存在しないことを証明したところで、それはソロバンの場合以上に無意味である・ユダヤ人にとって、神とはそのように実存し、その律法は、ソロバンの答えのごとくに、動かす事のできぬ現実的成果として、その生活と思考とを規定しているのである。(略)では、日本人に実在しているのは何か?ソロバンだけか?もちろん違う。「人間」である。人間の存在を信じていない日本人は一人もいない。従って、「人間」という概念なしに生きている人間がいるなどということは信じられない。日本人に向かって、日本人の持っている人間という概念は、「物理的」に存在する人間ではない、(その証拠に「非人間的人間」という言葉がある)、などといっても通用しない。だが、ヨーロッパ人には、ちょうど日本人に西欧的・ユダヤ的な「神」や「言葉」が存在しないように、そういった「人間」は存在しないし、またソロバン的思考などは到底想像もできないのと同じように(否それ以上に)、この「人間」の実存をもとにした一つの世界は理解できない。

閑話休題:

お嬢さんが大学の英文科に通って教養を身につける、というのは御嫁入りのためのツマであろうから、教えられたことが役に立つとか立たないとかは、はじめから論外のはずである・・・この本が書かれた1970年頃はこんなことがあった。もっと言えば俺を含めて男子だって大学で教養を身につけようとも、役に立つ知識や経験を得ようとも思わなかった。

神はソロバンの名手がソロバンを頭に思い浮かべるように実存するもの。なるほど。

世界の思考や行動の大元は、一神教では唯一絶対の神。ただし、神様自身は現れずに聖書の残された彼の「言葉」が代わりに信じられる。ここに、神=言葉=ロゴスである。

日本人の思考や行動の大元は、自然であり、自然な人間である。自然とはああしよう、こうしようという計らい・意志がなく、生まれたままの赤ん坊のような無心である。赤ん坊の心=赤心=誠。日本人の神は血のつながった親・・・祖先であり、親や祖先に対して赤ん坊のような心を示すことが日本教の教えの第一歩だ。































































































































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