日本人とユダヤ人 より
かねてより、何故日本人(だけが)納期や時間厳守にこだわるのか、知りたかった。
「日本人とユダヤ人」によれば、四季の違いがはっきりしている日本で稲作をするには、好きな時に種をまいて実ったら収穫する、という訳には行かず、「去年と同じ日に同じことをする」必要があった、と。これで日本人の前例主義、既成事実に引きずられる理由も分かる。
梅雨時には苗を植え、台風前には実を実らせ、秋晴れの時期に刈り入れる・・・といった日程を、否応なし、待ったなしの緻密な計画・段取りのもと、去年と同じようにこなす。これが日本人の「仕事」だ。これを繰り返すうち、「なぜそうするのか?」を考えなくなって、「緻密な計画を日程通りこなすこと」が自己目的化する。
毎年いつ何をすべきかの日程を示す暦を授けるのが朝廷の仕事であった。
以下「クローノスの牙と首」より抜粋:
遊牧民的生き方から見れば、日本人の生き方(特に時間を切ると言う行き方)は全く不可解で気違いじみたものに映っても少しも不思議ではない。ヨーロッパ人は遊牧民的行き方と農耕民的行き方がミックスしているから、同じように計画を立てても日本人とは行き方が違う。特に「請負」における日本人の働きぶりは理解が出来ないし、下請という日本人特有の一種の「稲作型小作制度」も理解できない。(略)かつては、全日本人の85%が、ある時期(天の時)になると一斉に同一行動を起こした。(人の和)田植えの時には全日本人が田植えをしなければならない。(略)自ら隣(模範)を選び、その通りにやるのは立派な一つの自主性であり、しかも的確にまねができるということは、等しい技量をもたねがならねば不可能であるから、その技量に到達するよう自らを訓練することも自主性である。(略)日本人は全員一致して同一行動するがとれるように、千数百年にわたって訓練されている。従って独裁者は必要でない。遊牧民に、一定の方向に向かって統一行動を取らせようとすればコーランと剣、すなわち宗規と強権が必要であり、打ち勝たねばならぬ強大な敵か競争相手が必要であった。(略)ギリシア神話のクローノス(時間)は首の長い怪物で、自らが生んだ子を追いかけて食べてしまう、ゼウスだけがその首に跳びのって食い物にされるのをまぬかれたと。日本人はまさにクローノスの鼻先をかけている。(略)遊牧民は、クローノスの首に跳びのっているのが常態なのである。(略)聖書には「待つ」という言葉があるが、日本人にとってこれは「まだか、まだか、まだか…」といらいらしながら待つこと、(すなわち、期待の成就と、迫りくるクローノスの首を二つながら絶えず意識していること)だが、遊牧民にとっては、時の流れに乗っている状態に過ぎないのである。
閑話休題:
①「請負」も確かに日本特有の契約。時間を切って、いつまでにこれをやり遂げる、その対価はいくら、と約束する・・・欧米の契約では納期も価格も決めるが、それを守れなくてもクローノスに食われるような切実と言うか、命がけのものではない。しかるべき理由があり、最善を尽くした結果、それが守れなくても仕方がない、というもの。もっと言えば、納期やコストは目標を決め、それをクリアしたらボーナス、クリアで見なければペナルティ(俺の知る限りペナルティは下品ということで損害賠償と言う)という契約が多いのではないか?
②1980年代に日本は先生となる「隣」を見失った。皆で真似すべき「模範」をどうやって作ればいのか?米作りでは模範が作れたんだから、出来ないはずはないのだが。「去年と同じこと」をいくら緻密に上手にやっても、資本主義、グローバリゼーションが進んだ今では、それで出来るものを買う人は多くないから日本人全員は食っていけない。「みんなが何年も同じことを繰り返し」て、それでみんなが食っていける、というのが日本人向きなのだが…
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