坊さんという商売もブルシットジョブだ!

 臨済宗妙心寺派の某寺に行ってきた。若くして病死した従兄の33回忌及びその父親の25回忌。施主はこの従兄の妹で家を継いで商売をしている関係もあって親戚づきあいにもそつがない。この従姉の母親とその姉である俺の母親は奇しくも8年前に数週間の違いで亡くなった。

1970年代から1980年代は俺たち世代の結婚式で親戚(いとこ)が集まった。それが終わると1990年代以降、俺たちの親が死んで親戚(いとこ)が集まるようになったが、親が死んで親戚(いとこ)が集まるのも俺の母親の葬式でほとんど終わった。俺たちの子供の世代は結婚(結婚式)をしなくなるから、親戚(いとこ)が集まるのは俺たち自身の葬式しかなくなる。

俺の父方、母方それぞれ5、6人の兄弟(俺から見れば叔父叔母)がおり、彼らがそれぞれ2,3人子供を持っているから、俺には父方母方合計で20人以上のいとこがいる。すでに死んだのは上述の若くして病死した従兄と、あと一人、コロナの最中に死んだのが一人。他はまだ死んでない(と思う)。これからどんんどん死んでいく。葬式に出かけるのが忙しくなりそうだ。そうなる前に、コロナも明けたいいタイミングでこの従姉が親戚(いとこ)が集まる会を催してくれた・・・33回忌なんて取ってつけた理由だ・・・その気遣いが有難くまた嬉しかった。

さて、寺で感じた違和感:

①寺の入り口の門(山門?)のてっぺん両端に「金のしゃちほこ」があった・・・一緒にいた姉に聞いたら先日TVで京都の寺にも金のしゃちほこがあるのを見た、と。「へえ、そんなもんか」と思う。

②本堂に入って右は男、左は女、と男女別席。差別じゃないの?「体は男だけど心は女」の人はどっちに座るの?なんて思う。

③お経の冊子が配られる。それに載っている般若心経と白隠禅師の座禅和讃をみんなで読め、と言われる。「客=参列者」の中には統一教会や創価学会の人やキリスト教徒だっているかも知れない。こんなことを強制したら「信教の自由」を定めた憲法違反だ。俺自身は信じていないお経など読まない。冊子を見るだけ。見るのは、もしかしたら面白い文が書かれているかも知れないと思うからだ。そしたら座禅和讃に、気に入ったレトリックを発見。悟りを開いていない人間の悩みについて「たとえば水の中にいて 渇を叫ぶがごとくなり」と。悟りを開いてないと水の中にいても水がないと勘違いして「喉が渇いた」と叫んじゃうよ、って。つまり、ものの見方、気の持ちようで喉の渇きなんて忘れられる、と。ただ、この考え方は支配者向きだ。すなわち、支配者の政治が間違っていても、被支配者の気の持ちようで我慢できちゃう、ということ。被支配者の反乱が起きなくなる。

そして最大の違和感、というか、ブルシットだったのは:

坊さんがお経をあげる前に「33回忌を迎えた○○(戒名)、25回忌の△△(戒名)、そして◇◇家のご先祖の供養を」と言い、お経を終えた後、今度は「お釈迦様の教えによって供養した」と言ったこと。お釈迦さんは自分個人の迷い・悩みから解脱するために修行して悟りを開き、その悟りを他人に教えようとしただけで、別に親や先祖を供養するなんてこたあ、一切言っていない。先祖を供養するのはあくまで日本教だ。正しく山本七平さんの言う「日本教臨済宗派」だ。「坊さん、お釈迦さんは祖先を供養しようなんて言ってねえぜ!」とツッコミたくなったが、俺はゲストの身。施主の邪魔をしたくないから黙っていた。法事に行く道々読んだ高山樗牛の「日本主義」の一節を思い出す。

浄財を木偶売僧に献じるのをこととする者は、未だもって仏教信者と言ってはならない。一種の社会的形式に束縛されて、祖業を継承してその頭を丸くして、その衣服を黒い法衣にし、口に仏教を唱え、手に仏典を持つ者は、未だもって仏教徒と言ってはならない。あわれ今日仏教と呼ぶものは、ほとんど空虚な形式主義ではないのか。木偶売僧・・・「でくまいす」と読むことを知った(=木偶の坊)。意味は「役に立たないくせに金儲けだけはうまい坊主」。こう言った坊主はたいがい、代々続いた寺を引き継いで頭を丸めて、黒い坊主らしい衣を着て、お経を唱え、お経の本を持ってはいるが、真の釈迦の教えなどには縁のない偽物の仏教徒だ。こんなものを仏教と呼ぶのは、空虚な形式主義だ。

俺の目の前に木偶売僧がいる。何をどう言い訳しようと、資本主義社会で寺をやっているということは自分を商品化し、商売せざるを得ない。

信じてもいない経文を読まされ、男女別席に座らせられる・・・いとこの子供や孫たちも参列していたが、どう思ったのか?聞きたい気もしたが、やめた。

閑話休題:

①教育とか宗教というものは、商品にしてはならないな、と改めて痛感。

何らかの成果や期待効果を約束して報酬・対価をもらうことを商品(化)と言う。商品化しないためには宗教家や教育家が勝手気ままに、受けるか受けないかなど考えないで言いたいことを言い、したいことをする。それに接した人が「ありがたかった」「助かった」と思えば、お礼として労力や、資材や食料や(最悪の場合「金」)を差し出す、という形だ。もちろん、料金表や相場などない。そうしないであらかじめ金を支払ったり(支払うことを約束したり)すると。宗教家や教育家は金をくれる人に受けること、「いいね」がたくさんもらえることをやる。

②俺の一番仲が良かった従弟が来ず、その息子夫婦が来ていた。あとでこっそり従姉から聞かされたのだが、彼は末期がんで手の施しようもなく、家で寝ている由。彼は俺と同じ生まれ年。俺が3月生まれ彼が5月生まれで俺が一学年上だった。彼は実家を継いだから、会社に入って各地を転々とした俺とは結婚式か葬式でしか会わなくなってしまったが、小さいときはよく連れだって遊んだ。家にいて死ぬのを待つ・・・どんな経緯、理由があってそうなったのか?そして奥さんその他家族はどう思っているのか???どっちにしても”がん”は嫌だね。PPKの真逆だ。

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