斎藤野の人「国家と詩人」より
明治36年発表の「国家と詩人より」:
露国文豪シューコースキ嘗(かつ)てアレキサンドル2世に書を送りて曰く「帝王と雖も、其最大にして最神聖なる本文は、人となる事なるを忘るる勿(なか)れ」と。真に「人たること」は人生の第一義也、個人の活動と力とを外にして社会国家一切凡て空なるのみ。故に幸福を云い平和を云うものは、先ず「人」の福音を教えざるべからず。かの漫(みだり)に国家の理想を説き膨張を云うはこれ阿諛(あゆ)のみ、大なる偽善のみ、大なる虚栄のみ、大なる反逆のみ、知らずや国家を滅するものは常に反抗の人にあらずして、此の如き阿附の徒、偽善の輩なるを。
斎藤野の人(さいとうののひと)は高山樗牛の弟。1878年生まれ、1909年死去。これが発表されたのは25歳の時。40数年後、日本という国家が「阿附の徒」によって滅することを見事に言い当てていた。死ぬのが早かったとも言えるが、若くして日本の未来を言い当てた文章を残したから、それで十分じゃないか。百年も無駄に生きる必要はない。
阿附:「へつらい従う」こと…日本人は、へつらい従わないまでも、流行を追っかけることに夢中になる。
ここに、山本七平さんの「人間」という言葉を思い出す。自分を含む世界すべてを作り支配する「神」のない日本では「人」は、昨日、先週、先月、去年・・・過去を、そして親、祖父母・・・祖先をそして自然を神様とする。しかし日本人の「神様」は唯一絶対ではないから、浮気心を起こしてみんなで流行を追っかけ、時には阿附する。野の人が思い描いていた人はそんなんじゃなくて「個人」だが・・・皮肉なことに唯一絶対の神を信じる人たちは、神とペアになって「個人」になる。つまり、祖先も親も関係なく、一人一人がバラバラに神様と契約する。さて、日本人らしい「個人」なんてあり得るのか?また個人なんてものを追求すべきか?個人なんてなくたって、ときどき滅んだって、運がいいから日本は生き残る、とも思うが。
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