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神谷美恵子 著 「生きがいについて」 (別名“自己忠”の勧め)その16🈡

 教え子の言葉:神谷先生が僕にくださったお手紙に「ヴァージニア・ウルフのように、何も信じるもの(人間以上のもの)を持たないで、ああいう病気を一生患った人の悲劇をこの頃とてもよく考えます」という一節がありました。   「生きがいについて」を読む前に 坪内祐三 自分の生きがいについて例えば 30 歳( 1944 年)の神谷美恵子は、こんなことを書き記している。「ようやく落ち着いて勉強ができるようになった。同時に自分の中に自分のものを」生み出したい衝動がみなぎる。今まで勉強したこと、これから勉強すること、それらすべてを、自己の生命において燃焼せしめよう。女であって同時に『怪物』に生まれついた以上、その特殊性を精一杯発揮するのが本当だった。男の人の真似をする必要もなければ女の人の真似をする必要もない。かといって中性で満足しようとする必要もない。傍若無人に自分であろう。女性的な心情も、男性的な知性も、臆病な私も、がむしゃらな野心家の私も、何もかも私の生命によって燃やし尽くそう。誰に遠慮する必要があろう」『自分のもの』『自己』『自分』と書いていく神谷美恵子は、しかし、いわゆる“自己中”ではない。全くの正反対の人である。「生きがいについて」というタイトルの本にひかれてしまう読者に対して私が感じる違和感もそこにある。「生きがいについて」を手に取る読者の多くは、多分、自分探しをしている人たちだろう。だが、そういうあなたたちは、どこまで本当の自分探しをしているのだろうか(ここで私が述べる“本当の自分探し”とは、もちろん、“本当の自分”探しではなく“本当の”自分探し、である。)自己中によって、すなわち実は他者の目を意識しながら自分の「生きがい」を探し求めようとしているのではないか。けれど、神谷美恵子は全く違う。同じ年、 6 月 5 日の日記で彼女はこう書いている。「私がもし何か研究したり、創作したりしたとしても、それは決して『人類のために』などでない。そうであって欲しくない。学問や芸術の世界における活動は、極端に言えば、人生に及ぼす影響など考慮しないでよいのだ。少なくとも私は自分が書くものが人にどんな力を及ぼすか知らないし考えたくない」だから、神谷美恵子の述べる「生きがい」とは、他者との関係から生まれてくるものではなく、もっと根源的、まさにラディカルなものなのだ...

神谷美恵子 著 「生きがいについて」 (別名“自己忠”の勧め)その15

 柳田邦男 困難な「現代のジレンマ」克服への道 (前略)権力による抑圧や働く者からの搾取がなくなり、老人や病人や障害者が安心して暮らせる支援制度が確立したとしても、その先にある心の問題・・・病気や障害を苦にする心、死への不安、喪失体験による悲嘆、他者への怨念・恨み、劣等感、支配欲、権力欲等々を克服できなければ、結局、人は心の平安も幸福感も得ることは出来ないだろう。むしろ経済的・物質的に豊かになればなるほど、そういう心の問題が表面化し、前面に出てくるだろう。社会的な活動を否定するのでなく、社会の仕組みを変えたり、経済的・物質的豊かさを求めたりする時には、そういう新しい状況の中で心の問題がどうなるのか、心の問題にどう対処したらよいのかを、同時に考えて行かないと、人は厳しく困難な新しい問題に直面するおそれが大だ。神谷さんはそういう捉え方をしていたのだ。(略)最近、水俣病患者の緒方正人さんを中心とする「本願の会」の思想と行動に魂を揺さぶられるものを感じている。(略)水俣病を特定の症状に限定して国が認定し医療支援などを行う制度そのものへの疑問(緒方さんは申請しても認定患者として認められなかった)と、企業(チッソ)や国から賠償金を取ることで決着させようとする裁判闘争への疑問から、19 85 年、認定申請を取り下げるとともに、自ら会長を務めていた水俣病認定申請患者協議会を脱会した。しかし、それは闘争を止めるということではなかった。認定申請を取り下げたのは、一見逆説的だが、水俣病問題に幕引きをさせないためであり、より根源的に水俣病の原因と責任を問い続けるためであった。それは現代文明への批判であり、自分の内なるチッソへの問いかけでもあった。だから、不知火海で漁を続けながら、一人でも抗議すべきは抗議の座り込みをするし、同時に破壊的な現代文明に依存して生きている自分達自身の罪に対して救いを求める祈りもする。緒方さんは、 1994 年に志を同じくする患者仲間や有志たちとともに「本願の会」を発足させたが、その機関誌「魂うつれ」第 9 号( 2002 年 4 月)のインタビュー記事の中で、こう語っている。「裁判での和解、政治決着という名の幕引きを前にして、私たちは水俣病が制度的な処理機構の中に埋め立てられるのではないか、と強く危惧したのです。だから、『本願の会』はその状況を見越し、...

神谷美恵子 著 「生きがいについて」 (別名“自己忠”の勧め)その14

 現世へのもどりかた①のこされた問題 毎日の生活の中にこれといって打ち込むものも見当たらない人の虚無と絶望は、その人でなくてはわからないに違いない。(略)私たちは幸か不幸か現世の中で自分の居所を与えられ、毎日の勤めや責任を負わされ、人や物事から一応必要とされて忙しく暮らしており、そのおかげでこの虚無をこの「空」を、なんとか浅く紛らわしている。どうして彼らが、何一つ紛らわすものもなく、裸のままで毎日この恐ろしい虚無と顔を突き合わせていなくてはならないのであろうか。この問いに答えはないのであった。答えのないことを自覚する者は、自己陶酔に安住することを許されず、この虚無を克服する術を、社会の在り方の中にも、毎日の生活の営み方の中にも、心の持ち方についても、探求し続けなくてはならない。(略)人間の存在意義は、その利用価値や有用性によるものではない。野に咲く花のように、ただ「無償に」存在している人も、大きな立場から見たら存在理由があるに違いない。自分の目に自分の存在の意味が感じられない人、他人の目にも認められないような人でも、私たちと同じ生を受けた同胞なのである。もし彼らの存在意義が問題になるなら、まず自分の、そして人類全体の存在意義が問われなくてはならない。そもそも宇宙の中で、人類の生存とはそれほど重大なものであろうか。人類を万物の中での「霊長」と考えることからしてすでに滑稽な思い上がりではなかろうか? 答が出そうもない問題の答えを求めることを煩わしい、面倒だ、と回避する人もいれば、面と向かって答えを求めようとする人もいる。答えの出そうにない問題を面倒だと回避して答えが出る問題だけ取り上げて答えを出す人のことを“専門家”といい、その専門家が時代を経るごとに幅を利かせるようになる。コロナが流行したら、「専門家」が集められたが、彼らが会議で発言したことは政治家や官僚にどう扱われたのか?「専門家」を集めたのは単なる「アリバイ作り」ではなかったか?片や「専門家」たちも、何を言っても事態は変わらない、と無責任に言いたい放題だったのではないか?俺は「しょうがねえなあ」と思うだけだが、若い人たちに与える絶望感・虚しさはますます日本の未来を暗く絶望的にする。即効薬はない。政治家・官僚にまともな人材が増やす工夫をすべきではないか? 忙しくしていると「空」(=虚無、絶望=存在意...

神谷美恵子 著 「生きがいについて」 (別名“自己忠”の勧め)その13

 心の世界の変革①宗教的変革体験 (前略)“らい”である自分がこれから生きていくことは無意味であると思えたのです・・・生きる意味を見つけ出すことが出来ないにもかかわらず、もう死へ踏み切ることはなかなかできませんでした。死のうという決心は鈍る、しかし、生きるのも辛いという切羽詰まった気持ちでした。色々考えてもその気持ちを解決できそうな考えは出てきませんでした。こんな気持ちになっていた時、たしか診療を受けた日から三日目だったと思いますが、突然、それまで考えていたこととは何の脈絡もなしに、自分は生かされているという思いがおこりました。自分が生きているのではなく、生かしてくれる者がある、それは、神ではなかろうか、神によって私は今こうしてあるのではなかろうか、という思いでした。そしてその神は、キリスト教の神であることが、考えるまでもない事として非常に強く感じられました。 俺にはこのような「回心」の経験はない。「生かしてくれる者がいる」と言う話を聞くことがあるが、実感できない。いまだに「自分の主人は自分」と思い込んでいる。確かにこの世におぎゃあと生まれ出ることは自分の意志ではできないし、上さんがいなければ俺の人生はなかったとも思うが。それでも、自分が生きるか死ぬかくらいは自分で決める。   心の世界の変革②「変革体験の特徴」 小さな自我に固執していては精神的エネルギーを分散し、消耗するほかなかったものが、自己を越えるものに身を投げ出すことによって初めて建設的に力を使うことができるようになる。これはより高い次元での自力と他力の統合であると言える。(略)変革体験はただ歓喜と肯定意識への陶酔を意味しているのでなく、多かれ少なかれ使命感を伴っている。つまり生かされていることへの責任感である。小さな自己、みにくい自己にすぎなくとも、その自己の生が何か大きなものに、天に、神に、宇宙に、人生に必要とされているのだ。それに対して忠実に生き抜く責任があるのだという責任感である。 自分の運命を握っている神様がいるとしても、神様に「おんぶにだっこ」ではなく、神様が自分をこの世に送り出した理由・意志を知ってそれを実践する責任がある、ということか。俺は神を信じない。自分の主人たる自分の声に耳を傾け、忠実でいようとは思う。   心の世界の変革③変...

神谷美恵子 著 「生きがいについて」 (別名“自己忠”の勧め)その12

 新しい生きがいの発見①「心の奥行きの変化」 生きがい喪失の苦悩を経た人は少なくとも一度は皆の住む平和な現実の世界から外へはじき出された人であった。虚無と死の世界から人生及び自分を眺めてみたことがあった人である。今、もしその人が新しい生きがいを発見することによって、新しい世界を見出したとするならば、そこに一つの新しい視点がある。それだけでも人生が、以前より彫りが深く見えてくるであろう。もはや彼は簡単にものの感覚的な表面だけをみることはしないであろう。ほほえみの陰に潜む苦悩の涙を感じ取る目、体裁のいい言葉のへつらいや虚栄心を見破る目、虚勢を張ろうとする自分を滑稽だと見る目・・・そうした心の目はすべて、いわゆる現実の世界から一歩遠のいたところに身を置く者の目である。 一歩引いた視点と引く前の視点・・・奥行き或いは余裕   精神的な生きがい①「審美と想像のよろこび」 盲目の一患者は一輪の桜を「舌と唇で愛し、そこから故山に匂う桜を見た」といい、これを「静かな花の宴」と呼んで、悦びを表現する。考えてみると、ものの形や色や音に、現実の利害や効用を越えたよろこびを感じる心が人間にそなわっているのは、驚くべき事である。この心は、ごく幼い子供にも認められるから、人間の生得の素質と考えなくてはならない。太古の時代にすら人間の芸術的な心の発露のみられることからも明らかである。   らい病患者は目も見えなくなるが同時に指先の感覚も失うことがある。目も見えず、指先に頼る点字も駄目、ということになった人は口を使って点字を読んだり、上述のように桜を口で愛でる。 精神的な生きがい② 「 他のよろこびを自己のよろこびとし、他の悲しみを自己の悲しみとする 」こと、「他を愛し得る人間となる」こと、たとえ今すぐそういう人間であり得なくても「やがては愛をもちうる・・・という信頼と希望」が、精神の世界における最高のよろこびの一つであることは、らい患者の社会においても、一般社会においても、全く同じことであろう。このような愛は単なる血縁や異性間の本能的牽引力によるものとはちがい、もっと本質的な人間同志としての結びつきの意識に根差すものと思われる。ある患者は散文詩に歌う「傷に包帯を巻いてもらいながら、この痛みを爽やかに洗ってくれるもの・・・少女の手の汗や疲...

神谷美恵子 著 「生きがいについて」 (別名“自己忠”の勧め)その11

 新しい生きがいを求めて①「自殺をふみとどまらせるもの」 自殺をふみとどまらせる上に一番大きな原動力となるのは、なんといっても攻撃心かもしれない。打たれれば打ち返す、というのが人間に備わっている原始的、本能的な反応のしかたであるから、運命の打撃を受けた人間がまず最初に発するうめき声は「なぜ自分だけがこんな目にあわなくてはならないのだろう」という、あのパール・バックの恨みに満ちたことばである。このうらみと攻撃心が自分に向けられてしまえば自殺となり、どこにもこれを持って行きようのないとき、それはいつまでも心の中でくすぶり続ける。しかしこの恨みの念も、報復の念も、適当な方向とはけ口さえあたえられれば、ひとたび足場を失って倒れた人間を再び起き上がらせる。長い絶望の期間の後にパール・バックを再びしゃんとさせたのは、このことを無駄に終わらせてはならない、娘の不幸を社会的に意味あらしめようという烈しい意欲であった。羽仁五郎は愛児を一歳半で失い、その深い悲しみを契機として次のような心境に至ったという。「世界に比なき日本の乳幼児の死亡率の高さに対して、すなわちその原因である日本帝国主義の残酷に対して、あくまで戦うことを決意するようになった。」(略)がんや結核などでもはや治る見込みのないことを自覚している人間の場合には、それでもうちのめされ切ってしまわないだけの攻撃心の強い人ならば、その攻撃心が時間というものに向けられることもある。自分の余命はもうあと何年、何か月しかない、という認識は、一種の終末論的な意識と切迫感をうみ、それがすべての思考や行動の背景となる。許されたわずかな時間を最大限に生かし、そこに質的な永遠を打ち立てようとする烈しい意欲である。 攻撃心:「このまま負けていられるか!」という負けじ魂。   新しい生きがいを求めて② パール・バックの言葉「そして私の魂を、反抗によって疲れさせる事は止めました。私はそれまでのように、『なぜ』という疑問を次から次に持たなくなりました。しかしそうなった本当の秘密は、私が自分自身のことや悲しみのことを考えるのを止め、そして子供のことばかり考えるようになったからでした・・・私が自分を中心にものごとを考えたり、したりしている限り、人生は私にとって耐えられないものでありました。そして私がその中心を少しでも自分自...

神谷美恵子 著 「生きがいについて」 (別名“自己忠”の勧め)その10

 生きがい喪失者の心の世界⑤苦悩の意味 苦悩が人の心の上に及ぼす作用として一般に認められるのは、それが反省的思考をうながすという事実である。苦しんでいる時、精神的エネルギーの多くは行動によって外部に発散されずに、精神の内部に逆流する傾向がある。そこにさまざまの感情や願望や思考の渦がうまれ、ひとはそれに目を向けさせられ、そこで自己に対面する。人間が真にものを考えるようになるのも、自己に目覚めるのも、苦悩を通して初めて真剣に行われる。(略)苦しむことによって人は初めて人間らしくなるのである。(略)すべて前世の因縁であるという仏教的な見方で、身の不運を達観し、静かなあきらめと忍従の境地に生きる人は東洋の私たちの周囲に少なくない。それからまた、キリスト教的な「終わりまで忍び果たせたものが天国で幸福になれる。こここの世に於いてのみ、神のために苦しむことが、あなたに与えられているのだ」という教えもある。(略)自分に課せられた苦悩を耐え忍ぶことによって、その中から何事か自己の生にとってプラスになるものをつかみ得たならば、それは全く独自な体験で、いわば自己の創造といえる。それは自己の心の世界を作り変え、価値体系を変革し、生存様式をまったく変えさせることさえある。ひとは自己の精神の最も大きなよりどころとなるものを、自ら苦悩の中から創り出しうるものである。知識や教養など、外から加えられるものとちがって、この内面から生まれたものこそいつまでもその人のものであって、何ものにも奪われることはない。 「苦しみを苦しむ」のは無駄ではない。内面から生まれ、誰にも奪われない拠り所を創り出す。

神谷美恵子 著 「生きがいについて」 (別名“自己忠”の勧め)その9

 生きがい喪失者の心の世界③「苦しみ」 30 歳になる一患者は生存目標がないために長年悩んでおり、おそらくそのために生じたと思われる心臓発作に苦しんでいたが、ある時、膀胱炎と腎盂炎にかかって高熱を出し、 2 か月近く病室で療養した。この間、肉体的苦痛はあっても、「精神的にはかえって楽です」と自ら言い、心臓発作も 1 回も起こらなかった。ところが、身体の病気が全快すると、病気以前と同じ精神状態に戻り、心臓発作もまた起こるようになった。これはどういうわけであろうか。療養中は医師や看護婦から注意や世話が受けられる。それが孤独な心に安らぎを生んだ点もあろう。しかし、もっと根本的には、身体病の治療という、はっきりした生活目標ができ、それに向かって日々歩むことが出来たから、それで心の統一とおちつきが生まれたのではなかろうか。(略)精神的苦痛のうち、経済的なものや対人関係に関するものは、一般のひとの日常の悩みの大きな部分を占めている。これらは時代の変遷と社会機構の変革によってかなり軽減し得るものであろうが、いわゆる「世界苦」に類するものは、いつまでも絶えることがないであろう。例えば、死とか病とか罪などに関する苦しみである。この種の苦悩こそ生きがい喪失者の心の世界を占めるものであることは、すでにいろいろな例でみて来た。また、特別何か外側に原因がなくても、人によっては、生まれつき心に自嘲的、虚無的なものがあって、いわば自然発生的に生きがい喪失に陥る人もある。精神的苦悩は、他人に打ち明けることによって軽くなる。なぜであろうか。聞いてくれる相手の理解や愛情に触れて、慰めや励ましをいけるということもあろう。しかし何よりも苦しみの感情を概念化し、ことばの形にして表出するということが、苦悩と自己の間に距離を作るからではなかろうか。「いうにいわれぬ」苦しみを言い表そうとするとき、ひとは非常な努力によって無理にも苦しみを自分から引き離し、これを対象として眺めようとしている。この時、自分ひとりでなく、他の人も一緒にそれを眺めてくれれば、それだけでその悩みの客体化の度合いは大きくなる。悩みというものは少しでも実体がはっきりするほど、その圧倒的なところが減って来るものらしい。従って、いい加減な同情の言葉よりも、ただ黙って聞いていてくれる人が必要なのである。そういう聞き手がいないとき、または苦...

神谷美恵子 著 「生きがいについて」 (別名“自己忠”の勧め)その8

 生きがいの対象①生きがいのつくる心の世界 (長い間夫婦でいる二人の間で)もし何かのことで二人に食い違いがあからさまになったとしよう。するとこんなに長い間一緒に暮らして来たのに、相手は自分をこんなにも理解してくれていなかったのか、と夫または妻は愕然と気が付き、自分は一人全く別の世界にいたのだ、と痛烈な孤独感を意識する。しかし、オルテガの言う通り、人間の生はそもそも「根源的な孤独」であって、愛はこの「二つの孤独を一つに融合しようという試み」なのであるから、愛はまず互いの心の世界を知る事、理解することへの努力から出発すべきであろう。 オルテガの言う「愛」は九鬼周三さんの言う「粋」と似ている。交じり合わないものを交じり合わせようとする試み。もっとも九鬼さんは夫婦は結ばれたから「野暮」とし、結ばれない芸者と客の関係に「粋」を見た。   生きがい喪失者の心の世界①「肉体との関係」 生きる意味を失った人は、生きて行きたくない人である。それにもかかわらず生きて行かなければならないのは、肉体が精神の状況とは無関係に生きて行くからである。たとえば、“らい”にかかった人は、自己の肉体に対して強い嫌悪の念を抱いているのがよく観察される。足の指が欠損して、うまく草履の履けない人が少なくない。そんなとき「肉体に侮辱されているような気がします」と彼らは言う。しかも、“らい”という病気そのものは人を死に至らしめることはほとんどないので、この肉体の生きている限り彼らは生きてゆかなくてはならない。また愛する者に死なれた人は、もう生きていきたくないと思うような悲嘆のどん底にあっても、なお自分の肉体が食物を欲することを悲しむ。このように生きがいを失った人はいわば肉体にひきずられて生きていく存在である。「生ける屍」とはこのことを言うのであろう。 The endo of the world の歌詞を思い出させる。失恋して死のうと思い、この世の終わりだと思う。それでも日は上り、心臓は鼓動する。自然や自分の肉体は、相変わらず今までのままを続ける。そして生ける屍から生き返ったり、この世の終わりから舞い戻って来て、人生をより深く味わう…そういう経験をした人の特権。   生きがい喪失者の心の世界②「不安」 生きがい喪失状態には必ず不安が伴う。(略)それら...

神谷美恵子 著 「生きがいについて」 (別名“自己忠”の勧め)その7

 生きがいを求める心⑤「自己実現への欲求」 「自己実現」と単なる「わがまま」の区別は、生きがい感と結びつけて考えてみれば明らかである。「わがまま」というのは、自我の周辺部にある、末梢的な欲求に固執することで、これが満たされても真の生きがい感は生れない。これに反し、「自己実現」の場合には、実現されるべき自我とは、いわゆる「小我」ではなく、中心的、本質的な自我を意味する。「業績への欲求」とか「自尊心を維持する欲求」などを人間の基本的欲求の内に数えあげる学者もあるが、これも、根本的には似たことになる。いずれの場合にも、他人の目に対して、業績をあげることや自尊心を保つことが第一の問題ではなく、何よりも自己に対して、自己を正しく実現しているかどうか、に関係した欲求であると思われる。もしこの意味で自己にもとっているならば、外面的、対人的にどんなに立派に見えようとも、心の底にはやましさの意識がひそんでいて、心の目はーそしてしばしば肉体の目までも、自己をも人生をも正視することができなくなり、横目使いや上目使いをするようになる。いきいきと、堂々と歩いて行くためには、どうしても人は自己に忠実に「そのあるところのものになる」必要がある。 人間は、他人との共同世界にしか生きられないが、同時に他人の目ではなく、自分の評価軸に従い“自己忠“で自己実現すべきだ。ここで言う「自己」とは「自分探し」の自分のことだろう。「自己・自分とは何者か?」わからないまま、学校や職業や配偶者や、様々なものを選ぶ・・・当然失敗・後悔する人が多く、転職や離婚のハードルが低くなる、という理屈になる。かつて俺たちの世代でも「自己・自分」など分からないまま、学校・職業・配偶者・・・を選んだが、なぜか転校・転職・離婚はそれほど多くなかった。生きていくうちに、選んだ結果と自己・自分との折り合いをつけようと葛藤し、後付けでなんとか折り合いをつけた)・・・高度成長期というまばゆい光(の残滓)があったから、目がくらんでいたのか?ただ、「わがまま」と「自己実現」の間で揺れた。他人に認められ、羨ましがられることは嬉しいがそれだけじゃあ後ろめたい。かと言って自己実現だけでは自己満足と同義で張り合いがなく、つまらない。 俺は日本の未来は暗い、と悲観している。悲観していても仕方がないから、何かしたい(自己実現)とも思うが、年寄...

神谷美恵子 著 「生きがいについて」 (別名“自己忠”の勧め)その6

 生きがいを求める心③「反響への欲求」 リントンは他人からの、主として情緒的な反応を人間の基本的な欲求のひとつとしている。それがどんなに根強いものであるかは子供の成長を考えてみればわかる。子供は最初からひとびとのなかにうまれてきて、その人格はひとびととの相互関係の中で形作られる。まず、他人の存在というものがあって、自我は最初はそれと渾然一体となっているが、次第に他人との交渉という経験を通じて少しづつ自我の輪郭がはっきりと意識されていく。他人との共同世界の中で生きていること。これが人間の根源的なありかたなのだと多くの哲学者や思想家が考えた。他人に自分の存在を受け入れてもらう性質のものでなくては生きがい感は生まれにくいであろう。 人間は他人との共同世界に一人っきりで生まれ出る。共同世界に一人っきりで放り出され、生き始めるのだ。他人との相互関係ありきではない。まず、一人っきりで生まれ出て、それから親や周囲の人たちの世話になって生命を維持し、相互関係を作る。世話になったからと言って自分から世話してくれ、と頼んだわけでもなく、 他人の目や考えに迎合し支配される必要はない。(キリスト教的に言えば神様だけが支配者で周囲の人たちと育ててもらう赤ん坊は対等・平等)   生きがいを求める心④「自由への欲求」 人間のあり方は、生物学的、心理学的、社会学的条件によって完全に支配されてしまうのだ、というフロイトやその流れをくむ学者たちの決定論では、生きがいの問題には歯が立たない。アメリカの社会学者ラピエールによると、この決定論的思考は精神分析のおどろくべき普及とともに、アメリカの社会のあらゆる領域に浸透し、それがアメリカ人の家庭、学校、社会における生活態度を無気力なものにしてしまっているという。パイオニア時代にアメリカ人を力強く支えていた自発性。自律性、独創性、冒険性は今や消え失せ、絶望と否定の倫理が支配し、そこで指向されるものは単に適応と安定のみであるから、これはアメリカの将来にとって大きな危険をはらんでいる、とラピエールは主張する。(略)たしかに、自由を得るためには、さまざまの制約に抵抗を試みなくてはならない。それが大変だから「自由から逃走」することにもなる。これこれの事情だから、これこれの人間だから、だから自分は不本意な生活もしかたがない、とぐちっ...

神谷美恵子 著 「生きがいについて」 (別名“自己忠”の勧め)その2

 これより本著からの引用・抜粋。 ・・・ 黄色部 は俺のコメント  生きがいということば: 存在理由(レゾン・デートル)と似ているが、むしろ、生存理由(レゾン・デヴィヴレ)といった方がよさそうに思える、もうひとつ生きがいに似た言葉に“はりあい“というのがある。 …生きがいを俺流に言い換えれば死なずに生き続ける理由だ。初めから”死ぬこと“を排除してどう生きるか?何故生きるか?生きる目的は????ではない。あくまで死ぬことも選択する可能性があるという条件下において、死なない選択をする理由を求める。俺に言わせると生きるという選択をするという結果は同じでも、死ぬことを排除して考えるのと排除しないで考えるのでは重みと言うか、深みが違う。生という1つの視点しかないのと生死という 2 つの視点から見るのは奥行きが違う。このことを人に出会うたびに確認するわけにはいかないが、付き合っていくうちに、俺にはどちらの人か分かるような気がする。そしてハナから”死ぬこと“を排除していると思われる、軽くて浅薄で安直な人のことは信じないし、馬鹿にする。(時には、「死を排除しない考え方もあるんだよ」と大きなお世話だが教えたくなる)。”はりあい“は、俺にとってはいい芸に接した時、無償の行為・無私(無我)の行為に接した時、旨いものを喰った時に『生きててよかった』と思う、これが”はりあい”だ。生きることを選び、生き続けるためには月一回なのか、年一回なのか、ともかく、『生きててよかった』と思うことは確かに必要だし、生きていれば必ずそういうチャンスが来る。理屈は「生きるなんて無意味さ」「意味なんてないのが生きるってことさ」「死に向かって生きているのさ」と言い、また、肉体は衰えていずれ滅ぶようにできている。頭も肉体も生きることに後ろ向きだ。それでも死なずに生きるのはなぜか?俺はその生存理由が見つかるまでに約 10 年を要した。その約 10 年間は訳もなく、ただ生きていたことになる。今振り返ればその 10 年間を“無駄に”生きた言い訳・後付けの理由を 10 年かけて探したようなものだ。俺のたどり着いた“死なない理由”は「死ぬ方が楽そうだから」「死は逃げ・負けだから」「死ぬより苦しい方、“生きる”ことを選ぶ」だった。

神谷美恵子 著 「生きがいについて」 (別名“自己忠”の勧め)その1

この数年間で一番重く心に響いた本(神谷美恵子著「生きがいについて」)を紹介する。 この本について語るにはまず、「らい(ハンセン)病」及び 1950 年代における日本のらい病患者の扱いについて語らねばならない。 Wikipedia 及び「生きがいについて」(以下、“本著”)によれば、らい病とは: らい菌によって引き起こされる感染症で、現在では感染力が非常に弱く、また、適切な治療をすれば皮膚に重度の病変を生じる後遺症も起きないことが分かっている。日本では戦中戦後、適切な治療が行われないで、視覚障害、知覚障害、皮膚の変形などの後遺症を発症する人が多かった。 1953 年「らい予防法」が制定され、患者の隔離、隔離された患者の外出制限等が定められた。日本では、一緒に暮らしていた家族の一人が発症すると前世の悪行のたたりとか神罰と言われ、家族も地域から疎外されるから身内に患者がいることを隠そうとしたり絶縁したりした。また、本人も家族に迷惑がかかるのでこっそり隔離施設に入ったり、自殺する者もいた。発症し、隔離された患者は恥辱感、疎外感を強く味わった。 患者の肉体が欠損、変形、障害を起こして、それでもまだ、死なずに生き続けるということは、肉体は崩れていくが精神活動は維持されるということになり、神谷美恵子によれば「肉体に侮辱されているように感じ」、「生けるしかばね」になる。また、不自由になった肉体は価値が下落し、それがそのまま自己の存在全体の価値が下落した、と患者は劣等感を持つ。頭で「人間の価値は人格や精神にあり」と考えて自尊心を持とうとするが、これを理屈・思想としてではなく生存感自体にしみ込ませるのは容易ではない。患者は今までそこにはまりこんで暮らしていた世界から急に「無用者」「アウトサイダー」「疎外者」としてはじき出されてしまう。一方で自殺もできず施設に入れば衣食住は国家によって一応保障されるが、多くは社会復帰できるかどうか分からないので、死ぬまで施設から出られない可能性がある。日本にも世を捨てると言う伝統はあったが患者たちは強制的に世捨て人にさせられた。療養所は「死ぬまでの仮の宿」となる。 俺の「遊び」の定義は「目的・理由のない行為」であるが、隔離されたらい病患者は「一生施設の外に出ないで遊んでいろ」と宣告されたのも同然だ。あるいは死刑囚に似ているか?生きていく目的・...

神谷美恵子 著 「生きがいについて」 (別名“自己忠”の勧め)その5

 生きがいを求める心②:「未来性への欲求」は全文を以下。 変化と発展への欲求は、当然未来性への欲求をはらんでいる。これからの生が新しい発展をもたらすであろうと期待するからこそ、生きがいは感じられる。前途は未知のほうがよく、道は先まで続いていると感じられなくてはならない。どんなに広い、立派な道でも先は袋小路と知れば、とたんに足はすくんでしまう。 未来がひろびろとひらけ、 前途に希望の光が明るく輝いている とき、その先に目を吸いつけられて歩く人は、過去にどのようなことがあったにしても、現在がどんなに苦しいものであっても、「すべてはこれからだ」という期待と意気込みで心に“はり”をもって生きていくことができる。現在の幸福と未来の希望と、どちらが人間の生きがいにとって大切かと言えば、言うまでもなく希望の方であろう。それゆえに高給でも将来性のない仕事ならば、選ばない方がよいのである。将来性という観点から見れば、功なり名とげたというような状態は、かならずしもうらやむものではない。若い人の方が生きがい感を持ちやすい理由の一つは、彼らが過去と言う重い荷に制約されることなく、すべてを未来にかけて、わき目もふらずに何物かを創り出そうと力の限りをかたむけるからである。 この未来というものに、ひとはどのような内容を与えているのであろうか。近い未来における身近な生活目標を持つことは、ほとんど誰もがやることで、それがなければ、愛生園の人びとの一部にみられたような、深刻な生きがい喪失を生む。しかし人間には同時に、もっと遠い、大きな未来を夢みたい欲求がある。はっきりした終末観をもつ信仰の持ち主には、この確固たる未来展開がおどろくべき強さをもたらし、現在のあらゆる苦難に耐える力を与える。多くのひとは子孫とか民族国家とか文化社会、人類の進歩や発展に夢を託し、それらの大きな流れの中に、その一部として自己の未来性を感じ、それを支えに生きていく。人類滅亡の危険にさらされている現在では、そうした未来性への欲求がどれほどまでに、はばまれていることであろうか。そこに現代における生きがいの問題の大きな困難の一つがある。 ・・・嘘でもいいから明るい未来を夢見させて欲しい、とも思う。「前途に希望の光が明るく輝いている」とあるが、このくだりは、手塚治虫先生の「火の鳥」の一場面を想起させる。地下から地...

神谷美恵子 著 「生きがいについて」 (別名“自己忠”の勧め)その4

  生きがいを求める心①: 育児に追われている若い母親は、幼い生命の示す日々の変化と成長の目覚ましさに目を見張り心を奪われ、それを自分自身の生命の発展として体験していくから、この上なく大きな存在充実感を味わっている。子供の病気やその他の心配事も、それがどうやら乗り越えられすれば、この充実感をなおさら大きくするのに役立つ。けれども子供が大きくなってだんだん手をはなれて行き、ひとり立ちしてしまうと、あとに残った母親の生活は単調なものとなり、それが変化への強い欲求をうみだす。ちょうど更年期の生理的動揺と重なって、時には精神的危機をつくりだすこともあるのはよく観察されるところである。すでに自己の生命の終わりに近づいた老人にとって、草花を育てる事や孫の相手をする事が大きな楽しみになるのは、ただの暇つぶしという意味よりもむしろ若い命のなかにみられる変化と成長が、そのまま自分のものとして感じられるからなのであろう。生活に変化がなくなると、人間は退屈する。それは精神が健康である証拠なのであって、心が病むと退屈は感じられなくなることが多い。たとえば脳の手術をして前頭葉の一部を傷つけられたひとは自発性を失い、毎日何の目的もなく茫然と暮らしていても平気になる。(略)とすれば、この「退屈性」こそ、人間の健康のしるしであり、進歩の源泉であるといえるが、その反面、これがまた破壊性の原動力ともなりうることを忘れてはならない。(略)カミュの言う通り、「退屈な平和」は犯罪や戦争の危険をはらんでいる。(略)生活を陳腐なものにする一つの強大な力はいわゆる習俗である。生活の仕方、言葉の使い方、発想の仕方までマスコミの力で画一化されつつある現代の文明社会では、皆が習俗に埋没し、流されていく恐れが多分にある。かりに平和がつづき、オートメイションが発達し、休日が増えるならば、よほどの工夫をしない限り「退屈病」が人類のなかにはびこるのではなかろうか。(略)少し心をしずめ、心の目をくもらせている習俗や実利的配慮のちりを払いさえすれば、私たちを取り巻く自然界も人間界も、たちまちその相貌を変え、珍しいものをたくさんみせてくれる。自分や他人の心のなかにあるものも尽きぬ面白さのある風景を示してくれる。わざわざ外面的に変化の多い生活を求めなくても、じっと眺める目、こまかく感じ取る心さえあれば、一生同じところで...

神谷美恵子 著 「生きがいについて」 (別名“自己忠”の勧め)その3

 生きがいを感じる心: 「りっぱな社会的地位につき円満な家庭を持っているひとが、理屈の上では自分の存在意義を大いに認めながら、心の奥深いところでは生きがいが感じられなくて悩むことがある。パスカルの言う通り心情には理性とはまた別な道理があるからである。(中略)理屈は大抵あとからつくようで、先に理屈が立っても感情は必ずしもそれについて行かない。ゆえにある人に真のよろこびをもたらすものこそ、その人の生きがいとなり得るものであると言える。(中略)みどり児は別にそばにだれが見ていなくとも、そして特にこれというきっかけがなくとも、うれしくてたまらなそうに、歌のようなものをさえずり、手足をばたばたさせ、ひとりで笑っている。(略)ウォーコップに言わせると、人間の活動の中で、真のよろこびをもたらすものは目的、効用、必要、理由などと関係のない「それ自らのための活動」であるという。たしかに何か利益や効果を目標とした活動よりもただ「やりたいからやる」ことのほうが生き生きとしたよろこびを生む。(略)大人になるに従って少なくなるこうした純粋な「生きるよろこび」が一番あざやかにあらわれるのは、初めての子を生んだ直後の母親の、存在の根底からふきあがるような喜悦であろう。(略)子供にとっては「あそび」こそ全人格的な活動であり、真の仕事、すなわち天職なのであるから、そこで味わうよろこびこそ子供の最大の生きがい感であろう。グロースやホイジンガのいうように無償の遊戯的活動こそ文化的活動の芽生える母胎と考えられる。(略)ためらわずに行動するためには反省しすぎることは禁物なのであるが、しかし、深い認識や観照や思案のためには、よろこびよりもむしろ苦しみや悲しみのほうが寄与するところが大きいと思われる。(略)それが何に役立つかということはここでは問題ではない。彼はそのようにしか生き得ないのであって、別の生き方を選べば、たとえ社会的にもっと恵まれたとしても、人間としては窒息してしまったであろう。(略)ルソーは「エミール」の初めのほうでいっている。「もっとも多く生きた人とは、もっとも長生きした人ではなく、生を最も多く感じた人である」と。(略)人間が常に前途に目標をすえ、それにむかって歩いて行こうとする生の構造を、いわばひとりでに形成してしまうわけがうなずける。それは何もあの「無償の、無目的のよろこび」と矛...

神保町散歩②レコード購入成果(釣果)

4月14日、お茶の水、disk unionで購入したレコード: ① The best of Kenton Presents(Capitol) 1971年日本の東芝製造  ¥380     Bob Cooper sextet    Serge Chaloff sexret⇒既存コレクションと重複    Boots Mussulli quartet⇒既存コレクションと重複    Frank Rosolino quintet  ※すべて1954~55年録音。Bob Cooper sextetのHoward Robertsのギターだけで もこのアルバムを買う価値あり。正しくThis is west coast jazz。 ②③A jazz holiday(MCA) 1973年米国MCA製造 2枚組 ¥480   Benny Goodman & his biys,clarinet solo   Red Nichols & his five pennies   Adrian Rollini & his orchestra⇒既存コレクションと重複   Joe Venuti-Eddie Lang all star orchestra  ※いずれも1920年代~30年代初頭の録音。全曲でGoodmanがソロを取る。Goodmanの1920年代の演奏は珍しいから購入。Adrian Rolliniも好きだが、購入したものはすでに持っていた。Lreonard Feather seriesと銘打ってあるのだから、Leonard Featherのコンピレーション、選曲なんだろう。聞きながらおかしいな、と思ったら、なんと、2枚組のアルバムで1面、4面のカップリング、2面と3面のカップリング。多分ミスだろう。アメリカ人はこういうものを堂々と売るからすごい。そう言えば、昔「わら」みたいなものが練り込まれたレコードもあった。これもアメリカ製。日本人は自分が製造するものに神を宿らせようとと思って大事に作ってたね。アメリカ人は食うためにしかたなく働く。 1930年頃の音楽って古くさいと言えば古くさいが、優雅というか典雅。特にクラリネットという楽器は1930年前後の音...

神保町散歩①

 このブログによれば、昨年11月に上さんと神保町に行った。それ以来だから4月14日、5か月ぶりに神保町界隈を歩き回った。昼飯を一緒に食べるべく、午後1時に上さんとお茶の水駅で待ち合わせ。それまで一人で午前9時半から3時間半、歩いては古本屋をのぞき、古レコード屋に寄る。結果、この日丸一日で15000歩歩いた) 相変わらず建て替えられているビルが目に付く。俺の好きだった古き良き神保町の風情がどんどん失われていくことだろう。それでも1軒、新しくできた古本屋でいいのを発見。それから50年以上営業を続けている古レコード屋が健在であることも確認。嬉しくなって、「ご祝儀」で、古本屋では5冊1540円、古レコード屋では9枚3700円の買い物をした。(1冊あるいは1枚300円とか500円とかで売られているとついつい買ってしまう)家に帰って来て計量したら、本が2.1Kg、レコードが2.4Kgあった。これを抱えて歩き回ったのだから疲れた。 購入した古本は:  山本七平 「日本人とは何か。」 ¥440  結城昌治 「志ん生一代」上・下巻 各¥220  色川武大 「ばれてもともと」 ¥330  歴史読本 2002年8月号 特集天皇家125代 皇位継承の真相 ¥330 買った店の住所・名前はレシートを紛失したので分からなくなった。(地下鉄・神保町駅から靖国通りを駿河台下に向かって歩き、駿河台下の手前で左に折れ、明大通り方向に向かう道を少し入ったあたりにある古本屋。)確かカタカナの名前がついていたから昔からある古本屋ではない。気に入ったのは日本の歴史、落語や映画・演芸といった関係の本が充実していたこと。これだけ俺のニーズに合った品ぞろえの店は珍しい。 「日本人とは何か。」は<東アジアの最後進民族><縄文人とは、いかなる民族か>から始まり、なぜ<日本人は明治維新に成功したのか>に至る、日本人論。七平さんの本は全部読んだつもりでいたが、これは読んでいなかった。 「志ん生一代」は以前借りて読んだと記憶するが、「座右に置くべき名著」と思って購入。 「ばれてもともと」は多分読んでない。色川武大さんも大好きで大体読んだつもりだが、未読だと思う。絶筆の「好食つれづれ日記」を含む、最後のエッセイ集。色川さん、1989年4月に死ぬのだが、3月末に岩手県一関に引っ越してすぐ心筋梗塞で入院、10日後に60歳で...

4月16日のNHK素人のど自慢で

 俺の大好きな女子アナ、廣瀬智美が司会をすることになった”素人のど自慢”を見た。場所は熊本県・宇土市。番組が始まってすぐ、関心は廣瀬智美ではなく、ゲストの水前寺清子に。というのは、ちゃんと立ったり歩いたりできず、判断能力も衰えていたように見たから。水前寺清子自身が悪いとは思わない・・・自身に判断する力はもうないのではないか?・・・周囲(事務所)とNHKが悪い。地元だからと安直な判断なのか、それとも、「これなら大丈夫だろう」という判断があったのか?芸能人たるもの、歌う能力もさることながら、姿勢を保つのもギャラの内だ。番組終了前チャンピオンを選んでいる際中、水前寺清子が衰えた声で「365歩のマーチ」を歌う姿、そしてそれを喜ぶファンを見て、「そうか、地元の根強いファンにはこんな水前寺清子でも来てくれれば嬉しいんだ」とも思った。しかし、水前寺子自身及び熱狂的なファンだけにとっては喜ばしいかも知れないが、それ以外の人間にとっては見苦しい。 俺は顔(頭)を垂直に上げられず地面に向けたまま腰を曲げてゆっくりとしか歩けない老人を見ると、「こういう姿を晒して人前を歩くのは美しくない」と思う。損得や善悪ではなく、美醜が先に来る。まあ、人にはそれぞれ事情理由があるから他人のすることにはとやかく言わないが、自分がそうなったらみっともない姿をさらして外を歩くことはしたくない、と強く思う。美しくないものを見せて人様に不快感を与えるし、早く歩く健常者に迷惑をかける。水前寺清子同様、そういう状態になったどうかは自身では判断できないだろう。そういう判断をしてくれる仲間、周りの人が必要だ。だから上さんには、俺が死ぬまで生き続けることはもちろん、正常な判断力を維持してもらわないと。 最近見かけなくなったが、ジムで筋トレのマシンとマシンの間を徘徊するように移動する年寄も同様だ。

AI=核兵器論

 AIって便利そうだけど悪く使われれば危ない。使う人の倫理が問われる・・・全く同じことが核兵器について言われたし、言われ続けている。俺に言わせれば核兵器は「やったもん勝ち」だ。核兵器不拡散だって、すでに持っている奴らが自分に都合の良いルールを作って、これから持とうという奴を邪魔しよう、という話。広島で核兵器廃絶などと言っても核兵器をすでに持っている国は馬耳東風だ。そりゃそうだ、自分ひとり核兵器を捨てるバカはいない。 機械あれば機心あり・・・便利なものが出てくれば人間は頼ってそれに振り回される・・・人間には、有名になりたい、楽をしたい、幸せになりたい、金が欲しい、出世したいといった「機心」があるから、便利なもの(機械)に飛びついて乗っかろうという輩が出てくる。(ところが乗っかるつもりが乗っかられ、支配されてしまう) 加えて、現代のアングロサクソン・ユダヤの機心は新しい技術が出てきた瞬間、まだ他者の参入・開発が始まっておらず、規制やルールやモラル倫理が出来上がらないうちに独占して、後から使おうとか開発しようとする他者を特許だ、ルールだ、規制だ、と言って排除し、邪魔しようとする。 AIも核兵器と同じ運命をたどりそうだ。

岸田首相襲撃未遂事件

事件のあった日、16時30分現在、 TVで見た感じを; ①民主主義は面倒だ。どうして選挙演説会場に行く人の持ち物検査をしないのか?要人を襲撃する自由も保障しなければならぬのか? ②容疑者が捕まえられた時の様子をスマホで撮影する馬鹿野郎がいた。スマホ病だ。見ていて非常に腹が立った。あの行為は犯罪とすべき。(もし馬鹿野郎がネットで公開するようなことをしたら罰するべきだ。決して金を儲けさせてはならない)そこに行くと容疑者を取り押さえた漁協のおじさんは偉いし勇気がある。 ③インタビューされた政治家の「民主主義に対する挑戦・暴挙で断じて許せない」とかなんとか与野党を問わない紋切り型。このことに関しては、安倍事件に関する番組(ETV特集)で髙村薫さんが「銃で襲うことが民主主義に対する脅威ではない。みんなが一斉に『民主主義への挑戦』と言うことが危うい」と指摘したことが印象深い。 ④昨年奈良県で安倍首相が殺された時も思ったのだが、奈良、和歌山、三重は人間が「ゆるい」のではないか?警察も格段に「ゆるい」感じ。昨年9月1日付けで警察庁から異動して和歌山県警本部長になったのは山崎洋平さん。当時46歳。京大・法学部卒。エリートだろう。前任の和歌山県警本部長も警察庁から来て(?)警察庁に戻った。数年間無事に和歌山県警本部長をつとめ上げて警察庁に戻るのが出世のコースだ。安倍事件当時の奈良県警の鬼塚本部長は事件の3~4月前に50歳で就任したばかりだった。興味深いのは鬼塚さんに対する処分と山崎さんに対する処分、どちらが重いか?事件の結果は安倍さん事件の方が深刻だ。今回の岸田さん事件は未遂に終わったものの、「同じ轍を踏んだ」。まずは、山崎本部長の記者会見を見たい。鬼塚さんは記者会見の時、意気消沈して火の消えたようだった。

アボカドの喰い方

 アボカドは外から触って熟した時期(食べどき)を探って食うという作法を守ってきた。俺は何回かの試行錯誤の末、外から触って食べどきを正確に推定する技術も会得した。ところが、熟成なんか待たないで硬めのを買って来て牛乳で煮た方がいい、と考えを改めざるを得ないような経験をした。牛乳で煮ると言う方法は、NHKの「トリセツショー」で、知った。 俺の出入りするスーパーでは当日食べたらちょうどいい、という適度な熟成度のアボカドにお目にかかったことはない。大抵、熟し過ぎかちょっと未熟で1~3日熟成させたほうがよい、というものだ。従い、おれはちょっと硬めで1~3日後に食い時になるアボカドを買う。過日どうしても「チョレギサラダ アボカドのせ」が食いたくなって、硬いアボカドを半分に割り、7~8ミリ厚さに切って牛乳で煮た。これがいけた。 この方法の利点はロスが少ない(歩留まりがよい)こと。家で熟成させている間にどこかが痛んで黒くなるのでその部分を取って捨てる。経験上、大体5%かひどい場合は10%くらい、捨てる。牛乳で煮る方法だとこのロスがゼロに近くなる。 問題が一つある。煮るのに使った牛乳の始末だ。鮮やかなアボカドグリーンの破片が浮いている牛乳・・・匂いは問題ないようだが、カフェラテには使えないだろう。俺は単に牛乳として飲んだ。シリアルにかけるのはいいかも。この問題を回避すべく、もう一つの「レンチンする」という方法も試してみるか? 閑話休題: 石原さとみのことはあまり好きではなかったが、トリセツショーでのパフォーマンスを見て好きになった。かといって、彼女が出るドラマや映画を見ようとまでは思わないが… 「買ってきたアボカドが硬かったら・・・」というアドバイスが出るということは、大抵の人はアボカドを買う時、外から触って「これは硬い」とか「これは柔らかすぎて痛んでいる」などと熟成度や傷み具合を推定する作業をしていない、ということだ。これが俺には意外だ。ちょっと訓練すれば「これは明日食える」とか「これは3日たったら食い時」などと判断できるようになる。牛乳で煮るにしても、できれば1日か2日後に食い時になるものを(つまりかなり熟成が進んでいるが、まだ少し硬いのを)買うべきだろう。 チョレギドレッシングはレシピも見ないで適当に醤油、すりごま、ごま油、酢を混ぜたらとてもうまかった。韓国海苔のおかげか...

末法思想

 神谷恵美子さんの「生きがいについて」を読むと「明るい未来があると信じられれば人間、特に若者は「わき目もふらずに何ものかを創り出そうと力のかぎりをかたむける」というくだりがある。自分探しと言って様々な仕事を「つまみ食い」し、社会貢献とか成長とかキャリアなどと言っても浅薄で画一的で流行を追いかけているだけという感じのする若者を見て、「何故?」と思っているが、それは明るい未来が感じられないからではないか、という思いを深くした。また、同著には「終末観」という言葉もあって、「末法思想」という言葉が頭に浮かんだ。 さて、”末法”とは釈迦が死んだ紀元前949年から2000年たった後に始まると信じられていた。つまり、1052年以降。そこで1052年頃の日本を振り返ってみると: 1027年、権謀術数の果てに藤原氏内部のライバルを蹴落とし摂政、関白、太政大臣となり、娘に三代続けて天皇を生ませて天皇家に対しても恫喝・駆け引きしてやりたい放題やった藤原道長が死んだ。後継は道長の長男・頼通。親の七光りで摂政、関白、太政大臣と、律令制の出世階段を順調に昇った。一方、1028年には平忠常の乱が起き、これを朝廷は源頼信に鎮圧させたが、武士の反乱を武士に鎮圧させるという、武士の台頭を予見させるできごとだった。忠常を討伐する責任者の人事では、頼通(藤原氏・北条流)が選んだ平直方が討伐に失敗し、頼通のライバルの藤原実資(藤原氏・小野宮流)が選んだ源頼信が成功した。藤原一族の中に、道長はやりすぎたし、武士が台頭してきて藤原一族による律令制・摂関政治が危うくなっているのに北条だ、小野宮だ、と内輪もめしてる場合じゃあない、という危機感というか、倦怠感というか、そろそろ藤原氏も終わり、という終末観が芽生えたのではないか? 道長は娘を次々と皇室に送り込み、外戚としての地位を確固たるものにしたが、頼通には実の娘は一人切りで天皇の息子を生めず、続いて養女を送り込んだがやはり天皇の息子は生まれなかった。弟の藤原 教通も娘に天皇の息子を生ませることはできなかった。そして1045年、生母が藤原氏出身でない 尊仁親王が皇太子となり、1068年、 後三条天皇となる。後三条天皇は天皇即位後アンチ藤原政治を試みることになるが、すでに1045年の時点で藤原氏内部には「終わった感」があったのではないか? 末法思想では地獄のよ...

血圧ジョーク

数年前から コレステロール値が高くなり、毎月1回医者に行っている。(かかりつけの医者と言べきか)今日、医者に行ってきた。医者でやることと言えば血圧測定だけだ。あとは必要と好奇心に応じ、質疑応答。これで1500円。高いと言えば高いが、まあ許容範囲内… ところで、家で測る血圧の方が医者のことろで測る血圧より高い。上さんは逆で家で低かった血圧が病院では急上昇(白衣高血圧症?)俺が「なぜ俺の血圧は家の方が高いんだろう」と言ったら上さんが「男は美人を見ると血圧が上がるんだって」と。このジョークが気に入って医者にも披露しようと思っていた。今日、医者の所で測った血圧は138だった。そこでジョークのイントロとして俺は「家で測る方が高いんですよ。140以上あることもある」と言った。そしたら医者がまじめに「それは心配ですね。140を頻繁に超えるなら薬を飲まなくては・・・」と言い出した。俺は「ジョークを言う場合(相手)じゃない」と判断してジョークを控えた。 帰って来てから上さんに以上の顛末を報告したが、上さんいわく、「医者がまじめに話すからこそジョークを言うんだ」と。その是非はともかく、ジョークがわかる女っていい。 閑話休題: 医者に到着したばかり(運動した直後)は血圧が高いと言う。白衣高血圧、美人高血圧・・・こんなあてにならぬもので130超えたとか140切ったとか言って一喜一憂し「血道を上げる」のは全くバカバカしい。ただし、絶対値ではなく傾向は見るべきか?俺が一番恐れるのは脳出血とか脳溢血とかクモ膜下とかが発症して死にきれずに「生きたしかばね」になること。そして高血圧は脳出血・脳溢血・クモ膜下などの原因だ。だから血圧には神経質になる。 ①家で上さんを見ながら②上さんは家にいるが別室で目に見えない③上さんが外出中で俺は留守番 の3ケースで血圧を測って比較をしてみようか?これらの間で何か傾向が発見できれば夏休みの自由研究くらいの価値はあるか?将来孫の自由研究にしようか?

大丈夫は大丈夫でない

 毎月のことだが、医者に行って、コレステロールを下げる薬を処方してもらい、調剤薬局で薬を買う。今日、薬局の女から「マイナンバーと紐づいた健康保険証はあるか?」と突然聞かれた。俺は「ない」と答えた。女は「それなら大丈夫です」と言い放った。この「大丈夫」は「もうこれ以上、自分の聞きたいこと、あなたから入手したい情報はない」ということ、つまりそれ以上のコミュニケーションの一方的拒否宣言なのだ。(後述の通り、俺はなんでそんなことを聞くのか知りたかったが、拒否を感じたので詮索はやめた) 「大丈夫」という言葉には、そういった、「もうおしまい」「それ以上はやめて」「問答無用」「理由は聞かないで」といったニュアンスがある。 俺は質問されると「なぜ、そんな質問をするの?」と逆質問したくなることがある。「なぜ?」と詮索するのは別に質問された時に限らない。「なぜ生きているの?」「なぜ死なないの?」「なぜこんなことをやり続けるの?」「なぜ年長者は偉いの?」「なぜお墓に埋められなくてはならないの?」「なぜ墓参りするの?」等々みんながすること、今までしてきたことを素直に受け入れることが出来ずに「なぜ?」と質問したり考えてみたりする。 「大丈夫」と言い放ってそれ以上のコミュニケーションを拒否するのはこの「なぜ?」を拒否・封殺することだ。「なぜ?」を拒否・封殺すると言うことは常識と言われるもの、既成事実、昔から続いてるもの、流行、インフルエンサーの言うことを素直に受け入れ飲み込むということだ。「大丈夫」はその宣言だ。ここ10年(20年?)日本では「大丈夫」が横行しているが、それは「なぜ?」による詮索の拒否や一方的なコミュニケーションの拒絶の宣言が横行しているということだ。これで日本の将来、大丈夫なんだろうか?確かに無駄な会話や詮索をするのはタイパが悪い。嫌な思いをすることだってある。ただ、その無駄な詮索・嫌な思いが今までは人類の進歩を生み出してきた。どうしても詮索しないではいられない人がいた。(例えば真善美と言われるものを追求した)人間に進歩を委ねると温暖化や核兵器など、人類滅亡の方向に行くから進歩なんてAIにでも任せておけばいいのだろうか?進歩はともかく、コミュニケーションや思考の深みというか、奥行きのためには無駄な詮索が必要だ。 逆に言えば、大丈夫を連発する輩は理由や背景や事情を知ろう...

街中華風野菜炒め

 かつては、しょうゆと中華スープの素で野菜炒めを作っていたが、街中華の野菜炒めと全然違う。街中華の野菜炒めの方が味が濃くて”下品”な焦げたような匂いが。これを自分でも作りたい。ネットで調べるとしょうゆでなく、オイスターソースを使う野菜炒めが紹介されていた。それから中華料理でよく登場するネギ油も使うことにした。 まず”ネギ油もどき”を作る。フライパンでラードとサラダ油を熱し、刻みネギと刻みニンニクを加える。これにオイスターソースを加えて焦がす。この焦げが味を濃くして”品”をなくす。あとはキャベツ、ピーマン、もやし・、にんじん・・を加えて炒める。少しは街中華に近くなる。

ブロッコリーのアヒージョ(ペペロンチーノ)

アヒージョの素というものがスーパーに売っている。材料としては、きのこと魚介がスタンダードかな?かつてはこういう材料でアヒージョを作っていた。このアヒージョの素が実にいい。2回分で確か100円程度でとても安くてうまい。ある日賞味期限が迫って安く売っている牡蠣をアヒージョ用に購入した。ネットで調べたか、ひらめいたか記憶が曖昧だが、きのこの代わりにブロッコリーと牡蠣でアヒージョしてみた。これがよかった。ただし、ちょっと牡蠣にあたって腹がおかしく。俺は元々牡蠣に弱い。そこで冷凍のムール貝とブロッコリーのアヒージョにしたところ、味も申し分なくまた、おなかの心配もない。このアヒージョを1/3くらい残してニンニクの刻んだのとオリーブオイルを追加してスパゲッティーを茹でて加えて炒めるとペペロンチーノに。 過日、ブロッコリーを買ってアヒージョにしようとしたら、アヒージョの素の在庫が切れていた。ネットで調べたら刻みニンニクとアンチョビとオリーブオイルと鷹の爪でアヒージョが出来ると。それでやってみたらおいしくできた。(ガーリックパウダーも加えた) 大事なのはブロッコリーの加熱の仕方。上さんによると俺はブロッコリーを煮すぎて歯ごたえがない由。そこでブロッコリーの加熱時間を管理した。まずブロッコリーの芯というか茎を1cm厚さの輪切りに。この芯の皮を厚めに取って2つか3つに切り分けたものをまず ”アヒージョだれ”で2分間加熱。つぎにブロッコリーの”房”を切ったのを加えて更に3分加熱。多分これでは硬いので硬さを確かめながら更に加熱。なお、この”アヒージョだれ”でもアヒージョの素でも、材料がどんなものでも、ぴったり蓋のできる鍋を使って蓋をして加熱する。(多分、野菜の水分が出て蒸し焼き状態になるのだと思う。蓋をしないと焦げてしまう)スパゲッティーでは面倒だ、ヘビーだ、というなら、残った”汁”をパンでふき取って食すのもよい。 かつてはブロッコリーの食べ方というと茹でてチーズを合わせて、というパターンしかなかった。(チーズと一緒に焼くか、チーズフォンデュで食すかしかなかった)ブロッコリーも結構値段が上下する。俺の基準だとひと房150円以下なら買う。たまに100円を切っていれば必ず買う。

感謝と日本人と神

 日本人は何千年、何万年も豊かな自然の恩恵を受けて来た。加えて外から襲ってくる異民族や異教徒*の脅威もあまり経験せずに済んだ。確かに台風や地震、雷といった自然の脅威もあったし、外敵に襲われたり占領されたりすることもあった。だが、こういう脅威は一時的(短ければ数時間、長くて数年間)であった。それは「頭を下げておとなしくしていれば通り過ぎる」ものだった。 日本人は、自分に恩恵・利益を与えてくれるものや自然に感謝し、様々なものや自然現象を「神」と呼んだ。「家」と呼ばれるものは、土地とそれに付随する労働力とそれらから得られる収益を獲得・分配する仕組みで、家や土地にも神が宿っていると信じられ、土地を最初に開発・獲得し、家を子孫に伝えた人を先祖と呼び、神と考えた。一方でその「神」が恩恵・利益を与えてくれなくなった(=オワコンになった)と思われた瞬間、神は神でなくなってしまう。それまで英雄だった大物が何かの事件、スキャンダルをきっかけに一転世間・メディアで叩かれる。一神教の神様のように永遠でもないし、絶対でもない。日本では寿命の短い神様が次から次へと現れては消える。それゆえ日本で何百年も神であり続けることは「奇跡」、「神の中の神」であって、日本人は訳もなく尊崇する。家や組織がそうだ。単に古い、長く続いている、というだけでありがたがられる。人も長い間その地位にとどまっているということだけで一目置かれる。昭和天皇は自ら「神ではない、人間だ」と宣言した。しかし殺されもせず、廃位もされずに生き残り、政治的には神ではなくなったが、心理的には日本で一番長続きした家として神であり続けた。 先輩先人はなぜ偉いのか?1年でも1月でも1日でも早く組織に所属し、辞めないこと自体が「神」ということか?しかし、後輩に恩恵が与えられない、特に組織の寿命を短くするようなことをすれば感謝されなくなって「神」ではなくなる。 日本人は既成事実に弱い。このことについては、日中戦争を止めるべきかどうかが問われた時、東条英機が「中国ですでに多くの日本兵が亡くなっており、英霊を見捨てられない」と言ったら日中戦争継続が決まったというエピソードを思い出す。日本人は既成事実に押し流されて国を滅ぼした、とも言えなくはない。これも、先輩先人が一旦行ったことに神が宿ってしまう例だろう。そうやって続けられた戦争だが、「自分の代で...

”遊び”の効用

 会社に入ってから出会った人は「こいつはアカン、付き合いたくない」「薄っぺらい。馬鹿じゃないの?」という人間と「こいつは面白い、付き合ってやろうじゃないか」「賢そうだ」という2種類に大別できた。「コイツはアカン」のは技術屋に多かった。まれに「この人いいなあ、尊敬できるなあ」と思える人がいたが、全て事務屋だった。(そう書いて、一人だけ技術屋で俺の何倍も様々なことを知っていて、かつ深く考えている人・・・尊敬できる人がいたことを思い出した)俺は事務屋で、技術屋のもっている技術のレベルは評価できないが、自分の頭で考える人かどうか、信頼していい人かどうかの評価・識別はした。 今日、ふと思いついたのだが、自分の頭で考えるには遊びが必要だ。ここで言う「遊び」とはもちろん、酒を飲んだり、賭博をしたり、女の子とデートしたり、もあるが、そういう紋切り型の”遊び”ではなく、タイパの逆、”時間の無駄使い”ということだ。俺は大学の4年間は遊んで暮らそうと思っていた。”紋切り型”の遊びもしたが、必ず何もすることがなくて時間を持て余す時がある。そういう時間を何百何千時間と過ごすということだ。クラブ活動も、50年前は就活のネタになるとは思わなかったが、いい暇つぶしであり”遊び”であった。(遊びではあったが、道を究めるべく、毎日練習し、真面目に取り組んだ) 何もすることがなくて時間を持て余すと何をするか?くだらないこと、例えば「なんでこんな親の元に生まれたの?」「なんで死なずに生きているの?」「どこから来たの?」「死んだらどうなるの?」なんて、答えのない問いの答えを求めて考える。この経験で世の中には意味のない事、自分の分からない事があるんだ、人間の死生なんて意味もなさそうだし、自分には分かりそうにない、と気づく。こういう悩みを抱えているタイミングで新興宗教につかまることもあろう。 答えのない問いの答えを求めて時を過ごすなんて贅沢であるだけでなく、”生きる余裕”になる。車のハンドル操作に”遊び”が必要と言うが、人生にも一見無駄に見える余裕、空隙が必要だ。俺の想像だが、技術屋は大学生の時は理科系で理科系の学生はあまり遊び時間がなく、時間に追われて授業や実験や実習をしていたのではないか?つまりこの目的のために何を何時間やる、という風に時を過ごしていたのではないか?「時間の無駄遣い」は文科系の学生に...

排他的経済水域

ぼーっとTVを見ていたらフランスは仏領ポリネシアという植民地?を持っており、世界一 排他的経済水域が広いということを知った。興味をもってネットで調べた。排他的経済水域とは何かについては「海洋法に関する国際連合条約」なる条約に定められているのだそうだ。Wikipediaで面白かった記述は: ①アメリカはこの条約に参加してない。(不参加の理由を知りたい) ②排他的経済水域ランキング1位からフランス、アメリカ、オーストラリア、ロシア、イギリス、インドネシア、カナダ、日本、ニュージーランド、中国(以下略)。フランスは仏領ポリネシア近海ほか南太平洋に排他的経済水域を有する。アメリカもハワイやグアムなどの「植民地」のおかげで排他的経済水域が広い。イギリスが広いのも多分、旧植民地のおかげ。つまりまだ帝国主義時代の残滓が生きている、ということだ。誰がどうやってこんなルールを作ったのか知らないが、中国やロシアから見れば、「力による現状(ルール)変更」をしたいだろう。南シナ海を巡る中国、フィリピンの争いについて常設仲裁裁判所がフィリピン有利の判断を下したが、中国は無視している。 排他的経済水域に興味を持ったのは自衛隊のヘリコプターが日本の排他的経済水域と思しき宮古島近辺で行方不明になったきり、「なんでそうなったのか?事故機はどこに行ったのか?」が半日たってもわからないことが原因だ。これが民間のヘリコプターならのんびり調べて乗組員の無事を祈っておればよい。こんな平時に自衛隊機が行方不明になることは民間機の行方不明とは意味が違う。ことは国防に関わる。この事態は自衛隊の「ゆるみ」を感じるさせる。岸田首首相や浜田防衛大臣が記者会見で乗組員のことを心配したり無事を祈ったりするのは俺には理解不能だ。そんなことより行方不明になったこと自体を反省し、原因や行方が分からないことを恥じる発言をして欲しい。戦争になったらどうすんだ?自衛隊員が死ぬたびに防衛大臣が涙流してどうする?こんな体たらくを見たら中国や北朝鮮は喜び、米国は、やっぱり」と思ってがっかりするだろうな。 閑話休題: 「美人高血圧」という言葉があるそうだ。(美人を見ると男は興奮し、血圧が高くなる)この言葉を上さんが見つけて、俺の血圧が、家で測る方が病院で測るより高いのは「美人高血圧」だと。面白いジョークなので今度病院に行ったら、このジョーク、言...

大隅和雄 著「愚管抄を読む」を読む

 ひょんなことから愚管抄を読もうと思った。名前を聞いたことがあるだけでどんなことが書いてあるのか知らなかったが悪い癖で原典に当たろうとせず、愚管抄研究の第一人者らしい大隅和雄さんの解説本を読んだ。家とか世(世間の「せ」、世論の「よ」)といった日本独特のものについて書いてあり、それに刺激されて以下: 日本古代の支配者層(豪族)では、土地及び そこで働く労働者、そこから得られる収入 は元来は血のつながった一族で共有・分配されていた。ところが、一族に所属する血族の人数は幾何級数的に増えるので一族全員に行き渡らせるのが難しくなる。土地を小さく切り刻んでバラバラに所有してもリターンを生まないから一族の間で血筋、実力、生まれた順番、性別その他何らかの基準・方法によって優劣をつけ、一番の者が全部或いは多くを継承する仕組みに移行せざるを得なくなる。ここで親兄弟のみという一族より狭く限定された範囲の「家」という概念が登場する。つまり、かつては一族で共有されたり平等に分配されていた土地及びそこで働く労働者・そこから得られる収入が一部の「家」によって占められるようになり、その地位・権利の継承をめぐって争いが起こる。自然や敵と争い戦うことのない日本人は争いになじまないから、争いを回避・防止・隠ぺいしたいと考える。 藤原不比等は中国に似せて日本でも律令制を作ったが、中国にない「太政官」を作って国王(天皇)に代わって行政や司法を行わせるというシステムにした。後年(鎌倉時代に)藤原氏・九条家出身の僧、慈円は「愚管抄」の中で、天皇一族で起こる地位・権利の継承争いを回避・防止する仕組みを作り、実質的には天皇の地位・権利の継承をコントロールするのは、藤原氏・九条家の正統な仕事であり権利だ *1  、と言っている。(万世一系を建前とする天皇選びでは後継候補の選択肢が少なく、おかしな天皇、早死にする天皇も出てくる、そんな天皇家を守り、同時に本来まともな天皇なら持つべき権利を代行するのが藤原氏・九条家だ、という論法・・・ここに家を守るために形式上のトップと実質上のトップが存在するという二重構造が生まれ、優秀なトップを選ぼうとすれば争いが起こってその家は長続きしない、家を安定的に予定調和的に永続させるためには無力あるいは無能なトップと優秀な番頭さんという組み合わせがよい、という理屈が生まれる。そし...

タイパ病患者判別法(就活マニュアル破り)

後輩の現役会社員(部長)から以下のメールが・・・  先週は来期の新卒採用者との面接を今年初めて行いましたが、候補者の学生の方々が 口を揃えて「学生時代に頑張ったこと」が、ゼミなりサークルなりで必ず仲間や後輩を 束ねて寄り添い面倒を見て共同作業で成果を出した、というのは、纏めて訊いていると 何だか妙な気分になりますね。こういうのが就活マニュアルになっているんでしょうかね。 個人的には「自分でこんなことしたいと思って周りとも喧嘩したがやり遂げた」的な話 あってもいいか、などと思いましたが、そういう人は就活なんてしないで起業するんで しょうね・・・ これを読んでまず、俺が現役の時の採用面接と変わっていないなあ、と思った。マニュアルというか俺の大嫌いな「紋切り型」。次に、この後輩のために”就活マニュアル”破りを考えた。それは、「あなたは何故生きているの?」という質問をすることだ。(「何故死なずに生きているの?」という質問の方がよいか?)どんな答えが返って来るかは分からない。何かの宗教の影響を受けていればその教えを述べるかも知れない。それはそれで面白いし、混乱してマニュアルやネットに書いてないことをしゃべるんじゃないか?或いは答えないかも知れない。その反応は採否の判断材料として大いに参考になりはしないか?詳細は以下の通りだが、実際に質問するなら、事前に、同席する人事担当者に了解を得て置く必要があろう。 ①「何故生きているの?」という質問に答えはない。そんなことを考えるのはタイパ最悪だ。そんな時間の無駄になるようなこと、だけど根源的なことを考えずにはおれない人間なら自分の頭で考える奴で、就活マニュアルを馬鹿にしているかも知れないし、入社してからも「この会社は何故存在しているの?」てなことを考える野郎かも知れないし、そろそろ次のキャリアを・・・と転職するような尻軽ではないかも知れない。(ただし、うかうかしていると、会社にいる連中特に上司を「バカ」だと思って辞めちゃうかも知れぬ)この質問に対する反応によってその辺が少し見えないか?マニュアルという仮面の下の素顔がのぞかないか…と、ここまで書いて、後輩の言葉じゃないが「そういう人は就活なんてしない」かな、と思った。 ②マイクロソフト、グーグル、ヤフーで「なんで生きてるんだろう」「なぜ生きているのか」を検...