神谷美恵子 著 「生きがいについて」 (別名“自己忠”の勧め)その16🈡
教え子の言葉:神谷先生が僕にくださったお手紙に「ヴァージニア・ウルフのように、何も信じるもの(人間以上のもの)を持たないで、ああいう病気を一生患った人の悲劇をこの頃とてもよく考えます」という一節がありました。 「生きがいについて」を読む前に 坪内祐三 自分の生きがいについて例えば 30 歳( 1944 年)の神谷美恵子は、こんなことを書き記している。「ようやく落ち着いて勉強ができるようになった。同時に自分の中に自分のものを」生み出したい衝動がみなぎる。今まで勉強したこと、これから勉強すること、それらすべてを、自己の生命において燃焼せしめよう。女であって同時に『怪物』に生まれついた以上、その特殊性を精一杯発揮するのが本当だった。男の人の真似をする必要もなければ女の人の真似をする必要もない。かといって中性で満足しようとする必要もない。傍若無人に自分であろう。女性的な心情も、男性的な知性も、臆病な私も、がむしゃらな野心家の私も、何もかも私の生命によって燃やし尽くそう。誰に遠慮する必要があろう」『自分のもの』『自己』『自分』と書いていく神谷美恵子は、しかし、いわゆる“自己中”ではない。全くの正反対の人である。「生きがいについて」というタイトルの本にひかれてしまう読者に対して私が感じる違和感もそこにある。「生きがいについて」を手に取る読者の多くは、多分、自分探しをしている人たちだろう。だが、そういうあなたたちは、どこまで本当の自分探しをしているのだろうか(ここで私が述べる“本当の自分探し”とは、もちろん、“本当の自分”探しではなく“本当の”自分探し、である。)自己中によって、すなわち実は他者の目を意識しながら自分の「生きがい」を探し求めようとしているのではないか。けれど、神谷美恵子は全く違う。同じ年、 6 月 5 日の日記で彼女はこう書いている。「私がもし何か研究したり、創作したりしたとしても、それは決して『人類のために』などでない。そうであって欲しくない。学問や芸術の世界における活動は、極端に言えば、人生に及ぼす影響など考慮しないでよいのだ。少なくとも私は自分が書くものが人にどんな力を及ぼすか知らないし考えたくない」だから、神谷美恵子の述べる「生きがい」とは、他者との関係から生まれてくるものではなく、もっと根源的、まさにラディカルなものなのだ...