神谷美恵子 著 「生きがいについて」 (別名“自己忠”の勧め)その9
生きがい喪失者の心の世界③「苦しみ」
30歳になる一患者は生存目標がないために長年悩んでおり、おそらくそのために生じたと思われる心臓発作に苦しんでいたが、ある時、膀胱炎と腎盂炎にかかって高熱を出し、2か月近く病室で療養した。この間、肉体的苦痛はあっても、「精神的にはかえって楽です」と自ら言い、心臓発作も1回も起こらなかった。ところが、身体の病気が全快すると、病気以前と同じ精神状態に戻り、心臓発作もまた起こるようになった。これはどういうわけであろうか。療養中は医師や看護婦から注意や世話が受けられる。それが孤独な心に安らぎを生んだ点もあろう。しかし、もっと根本的には、身体病の治療という、はっきりした生活目標ができ、それに向かって日々歩むことが出来たから、それで心の統一とおちつきが生まれたのではなかろうか。(略)精神的苦痛のうち、経済的なものや対人関係に関するものは、一般のひとの日常の悩みの大きな部分を占めている。これらは時代の変遷と社会機構の変革によってかなり軽減し得るものであろうが、いわゆる「世界苦」に類するものは、いつまでも絶えることがないであろう。例えば、死とか病とか罪などに関する苦しみである。この種の苦悩こそ生きがい喪失者の心の世界を占めるものであることは、すでにいろいろな例でみて来た。また、特別何か外側に原因がなくても、人によっては、生まれつき心に自嘲的、虚無的なものがあって、いわば自然発生的に生きがい喪失に陥る人もある。精神的苦悩は、他人に打ち明けることによって軽くなる。なぜであろうか。聞いてくれる相手の理解や愛情に触れて、慰めや励ましをいけるということもあろう。しかし何よりも苦しみの感情を概念化し、ことばの形にして表出するということが、苦悩と自己の間に距離を作るからではなかろうか。「いうにいわれぬ」苦しみを言い表そうとするとき、ひとは非常な努力によって無理にも苦しみを自分から引き離し、これを対象として眺めようとしている。この時、自分ひとりでなく、他の人も一緒にそれを眺めてくれれば、それだけでその悩みの客体化の度合いは大きくなる。悩みというものは少しでも実体がはっきりするほど、その圧倒的なところが減って来るものらしい。従って、いい加減な同情の言葉よりも、ただ黙って聞いていてくれる人が必要なのである。そういう聞き手がいないとき、または苦しみを秘めておかなくてはならないとき、苦悩は表出の道を閉ざされて心の中で渦を巻き、沸騰する。胸が張り裂けんばかり、という言葉はそれをあるがままに表している。これはまさに危険な状況で、なんとしてもこの精神内の圧を減らさないと苦悩は内訌し、精神的破局・・・すなわち自殺とか精神病理学的反応とかを来すおそれがある。どうしても苦悩を打ち明ける人がいない時には、文章に書くというのも役に立つ。文章に書くというのも安全弁の役に立つ。(略)苦悩をまぎらしたり、そこから逃げたりする方法はたくさんある。酒、麻薬、かけ事その他。仕事に異常に没頭することもそのひとつであろう。しかしただ逃げただけでは、苦悩と正面から対決したわけではないから、何も解決されたことにはならない。(略)もし新しい出発点を発見しようとするならば、やはり苦しみは徹底的に苦しむほかはないものと思われる。
俺は自分が“生まれつき心に自嘲的、虚無的なものがあって、いわば自然発生的に生きがい喪失に陥っている”ような気がする。苦悩を正面から対決し、苦悩を客体化する。俺は逃げなかったという自負はある・・・苦悩している人には苦悩から逃げずに苦悩を客体化する手助けをしてあげなさい、ということ。
苦しみを苦しむ・・・印象に残る言葉。今、俺たちは「世界苦」を苦しんでいるだろうか?もっと浅い、経済的なものや対人関係レベルのもので精一杯ではないか?
生きがい喪失者の心の世界④
ひとたび生きがいを失うほどの悲しみを経たひとの心には、消えがたい刻印がきざみつけられている。それは普段は意識に上らないかもしれないが、他人の悲しみや苦しみにもすぐ共鳴して鳴り出す弦のような作用を持つのではなかろうか。さらにこれは現世や自己に対する一種のニヒリズムを醸し出し、それがそのひとの価値判断にも知らぬ間に影響を及ぼしていると思われる。そのニヒリズムは、ともすれば現世の事物や人間との心の結びつきをゆるくするから、そこに愛の心の生み出すあたたかさが不足すると、冷たいシニシズムや皮肉な態度や厭世的な心の姿勢がうまれるであろう。しかしそこにあたたかさがあれば、ここから他人への思いやりがうまれるのではなかろうか。こういう深い悲しみを体験した人とそうでない人では、大きな差のある事をパール・バックは前に上げた本の中で言っている。「私が、世の中の人々を、避ける事のできない悲しみを知っている人たちと、全く知らない人たちとの2種類に分けることを知ったのは、この頃のことでした。というのは、悲しみには和らげることのできる悲しみと、和らげることのできない悲しみという根本的に異なった二つの種類があるからです・・・和らげることのできる悲しみというものは、生活によって助けられ、癒すことのできる悲しみのことですが、和らげることのできない悲しみは、生活をも変化させ、悲しみ自身が生活になってしまうような悲しみなのです。」パール・バックのように精薄という宿命を負った子の不幸を一生目の当たりに見ていなくてはならない人や、“らい”という病気と一生ともに暮らさなければならない人は、まさにこの「生きた悲しみ」の人と言えよう。(略)こうして人は、性懲りもなく悲しみの中からまた立ち上がり、新しい生き方を見出し、そこに新しい喜びすら発見する。しかしたとえ発見しえたとしても、ひとたび深い悲しみを経て来た人の喜びは、いわば悲しみの裏返しされたものである。その肯定は、深刻な否定の上に立っている。自己を含めて人間の存在のはかなさ、もろさを身に沁みて知っているからこそ、その中でなおも伸びてやまない生命力の発現をいといしむのである。そのいとおしみの深さは、経て来た悲しみの深さに比例していると言える。
パール・バックの言う「避ける事のできない悲しみを知らない人」とは、「ハナから死という選択肢を外して『人は何故生きるのか?』を考える人」と同義ではないか?死は避けることのできない悲しみ。生は嫌なら死んで避けることが出来る・・・これも悲しいネ。
「その肯定は、深刻な否定の上に立っている。」俺好みの表現。ニヒリズム、シニシズムの上に立った暖かさ、思いやり・・・こういう表現を目の当たりにすると生きるってことはそもそも矛盾に満ちたものだ、と痛感する。
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