感謝と日本人と神

 日本人は何千年、何万年も豊かな自然の恩恵を受けて来た。加えて外から襲ってくる異民族や異教徒*の脅威もあまり経験せずに済んだ。確かに台風や地震、雷といった自然の脅威もあったし、外敵に襲われたり占領されたりすることもあった。だが、こういう脅威は一時的(短ければ数時間、長くて数年間)であった。それは「頭を下げておとなしくしていれば通り過ぎる」ものだった。

日本人は、自分に恩恵・利益を与えてくれるものや自然に感謝し、様々なものや自然現象を「神」と呼んだ。「家」と呼ばれるものは、土地とそれに付随する労働力とそれらから得られる収益を獲得・分配する仕組みで、家や土地にも神が宿っていると信じられ、土地を最初に開発・獲得し、家を子孫に伝えた人を先祖と呼び、神と考えた。一方でその「神」が恩恵・利益を与えてくれなくなった(=オワコンになった)と思われた瞬間、神は神でなくなってしまう。それまで英雄だった大物が何かの事件、スキャンダルをきっかけに一転世間・メディアで叩かれる。一神教の神様のように永遠でもないし、絶対でもない。日本では寿命の短い神様が次から次へと現れては消える。それゆえ日本で何百年も神であり続けることは「奇跡」、「神の中の神」であって、日本人は訳もなく尊崇する。家や組織がそうだ。単に古い、長く続いている、というだけでありがたがられる。人も長い間その地位にとどまっているということだけで一目置かれる。昭和天皇は自ら「神ではない、人間だ」と宣言した。しかし殺されもせず、廃位もされずに生き残り、政治的には神ではなくなったが、心理的には日本で一番長続きした家として神であり続けた。

先輩先人はなぜ偉いのか?1年でも1月でも1日でも早く組織に所属し、辞めないこと自体が「神」ということか?しかし、後輩に恩恵が与えられない、特に組織の寿命を短くするようなことをすれば感謝されなくなって「神」ではなくなる。

日本人は既成事実に弱い。このことについては、日中戦争を止めるべきかどうかが問われた時、東条英機が「中国ですでに多くの日本兵が亡くなっており、英霊を見捨てられない」と言ったら日中戦争継続が決まったというエピソードを思い出す。日本人は既成事実に押し流されて国を滅ぼした、とも言えなくはない。これも、先輩先人が一旦行ったことに神が宿ってしまう例だろう。そうやって続けられた戦争だが、「自分の代で」日本民族が死滅するのは忍びない、と思った天皇が戦争を止めさせた。そろそろオワコンだ、だけど俺の代で途絶させたくない、というのもそれまで受けた恩恵・ご利益を与えてくれて「神」となった家や組織の寿命を一日でも伸ばしたい、ということだろう。(日本で”会社”と呼ばれるものは、暴力団の○○一家同様、「家」だし、昭和天皇は日本人民族全体の”親”だった。)

*日本に一神教はなく、キリスト教に対するイスラム教のような”異教”と呼べるようなものは無かった、とも言える。

閑話休題;

不慮の死、志半ばの死、死にたくないのに殺された、といった場合は死んだ人・殺された人の魂は悪い神様「悪霊」になる。悪霊で思い出すのは菅原道真だ。ライバルの藤原時平の陰謀で大宰府に左遷され、2年後に悶死し、その死後、京都で不可解な死や落雷が相次ぎ、道真の悪霊のせいだ、と言われた。この話で面白いのは、藤原一族の慈円。慈円は愚管抄を書きその中で、道真の左遷について「天皇に仕える藤原、菅原の二つの家が揉めるのは恐れ多いと、道真が自ら身を引いた」と言い張る。牽強付会を絵に描いたような記述で、京都の公家の厭らしさ・陰険さに満ちている。

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