神谷美恵子 著 「生きがいについて」 (別名“自己忠”の勧め)その3

 生きがいを感じる心:

「りっぱな社会的地位につき円満な家庭を持っているひとが、理屈の上では自分の存在意義を大いに認めながら、心の奥深いところでは生きがいが感じられなくて悩むことがある。パスカルの言う通り心情には理性とはまた別な道理があるからである。(中略)理屈は大抵あとからつくようで、先に理屈が立っても感情は必ずしもそれについて行かない。ゆえにある人に真のよろこびをもたらすものこそ、その人の生きがいとなり得るものであると言える。(中略)みどり児は別にそばにだれが見ていなくとも、そして特にこれというきっかけがなくとも、うれしくてたまらなそうに、歌のようなものをさえずり、手足をばたばたさせ、ひとりで笑っている。(略)ウォーコップに言わせると、人間の活動の中で、真のよろこびをもたらすものは目的、効用、必要、理由などと関係のない「それ自らのための活動」であるという。たしかに何か利益や効果を目標とした活動よりもただ「やりたいからやる」ことのほうが生き生きとしたよろこびを生む。(略)大人になるに従って少なくなるこうした純粋な「生きるよろこび」が一番あざやかにあらわれるのは、初めての子を生んだ直後の母親の、存在の根底からふきあがるような喜悦であろう。(略)子供にとっては「あそび」こそ全人格的な活動であり、真の仕事、すなわち天職なのであるから、そこで味わうよろこびこそ子供の最大の生きがい感であろう。グロースやホイジンガのいうように無償の遊戯的活動こそ文化的活動の芽生える母胎と考えられる。(略)ためらわずに行動するためには反省しすぎることは禁物なのであるが、しかし、深い認識や観照や思案のためには、よろこびよりもむしろ苦しみや悲しみのほうが寄与するところが大きいと思われる。(略)それが何に役立つかということはここでは問題ではない。彼はそのようにしか生き得ないのであって、別の生き方を選べば、たとえ社会的にもっと恵まれたとしても、人間としては窒息してしまったであろう。(略)ルソーは「エミール」の初めのほうでいっている。「もっとも多く生きた人とは、もっとも長生きした人ではなく、生を最も多く感じた人である」と。(略)人間が常に前途に目標をすえ、それにむかって歩いて行こうとする生の構造を、いわばひとりでに形成してしまうわけがうなずける。それは何もあの「無償の、無目的のよろこび」と矛盾するものではなかろう。なぜなら人間はべつに誰からたのまれなくても、いわば自分の好きで、いろいろな目標を立てるが、本当を言うと、その目標が到達されるかどうかは真の問題ではないのではないか。ただそういう生の構造の中で歩いて行くことそのものが必要なのではないだろうか。その証拠には一つの目標が到達されてしまうと、無目的の空虚さを恐れるかのように、大急ぎで次の目標を立てる。結局、人は無限の彼方にある目標を追っているのだともいえよう。(略)青年たちも大人になると、いつしか生存の意味を問うことを忘れ、ただ生の流れに流されて行くようになるようにみえるものが多い。(略)だんだん年を取って来てそれまでの生きがいが失われ、生きる目標を変えていかなくてはならない時に、この問題が再び切実に心を占めることになる。女性の更年期症状といわれるものは、たしかに内分泌系のバランスが崩れるために引き起こされるものではあるが、そのきわめて多くの部分は生きがいの喪失という危機によるものと思われる。(略)これは何も女性に限らず、老人一般の最大の問題であろう。いわゆる社会保障制度の充実だけで解決のできるものでないことは、北欧の老人自殺率がよく示している。(略)人はどういうふうに、あることを自分の使命と感じるようになるのであろうか。性格や生活史のなかから生まれた必然性のようなものから、いわばひとりでに目がある方向へ吸いつけられてしまうこともあろうし、意識的によく考えて選択することもあろう。そこにはまた外側から働く「偶然」との出会いも考えられよう。仏教的な「縁」ということばを使ってみてもよい。誰もがやるような何気ない仕事、例えば看護婦とか先生と言うような仕事に初めから特別使命感を感じて、いきおいこんで出発する人もある。なんとなくやっているうちに単なる義務以上のものを感じるようになって、その仕事をすぐれたもの、独特なものに発展させるひともある。(略)社会的にどんなに立派なことをやってる人でも、自己に対して合わせる顔のない人は次第に自己と対面することを避けるようになる。たとえ心の深いところでうめき声がしても、それに耳を貸すのは苦しいから、生活をますます忙しくして、これをきかぬふりをするようになる。この自己に対するごまかしこそ、生きがい感を何よりも損なうものである。そういう人の表情はたるんでいて、一見してそれと分かる。これがまた多くの神経症をひきおこす原因となっていると思われる。(略)使命感に生きる人にとっては、自己に忠実な方向に歩いているかどうかが問題なのであって、その目標さえ正しいと信じる方向に置かれているならば、使命を果たし得なくても、使命の途上のどこで死んでも本望であろう。これに反し、使命にもとっていたひとは、安らかに死ぬことさえ許されない。」・・・成果主義や目標管理・・・目的、効用、必要、理由といった理屈に迫られ、「自分の好き」でなく、会社や上司に言われて無理やり目標を立て、それの到達度を定量的に計測しようとする。俺の会社員人生の後半は、「自己に対するごかまし」に終始したものだった。目的・効用・必要・理由といった理屈で一杯の頭と、「こんなはずじゃあなかった・こんなことをしたくない」という心との葛藤・分裂だった。そして「こんなことを強いる会社から部下を守る」ことが、それでも会社を辞めない言い訳・ごまかしだったように思う。これから会社というものが生き残るとすれば、目的・効用・必要・理由といった理屈の支配力を弱め、「自分の好き」で立てた目標を実現するようなものにならなければならない。(という考えも頭で考えた理屈なのだ・・・困った。まるで本居宣長が漢意<からごころ>を批判・非難するのに漢から伝わってきた文字を使わざるを得なかったのと同じ自己撞着である)そう言えば成果主義以来、会社におけるその部署・個人の責任やしなければならない業務のことを“ミッション”(=使命)って言ったのもすごく嫌だった。会社の利益のための“ミッション”て、目的・効用・必要・理由そのもので、“自己に忠実”・“自分の好き”とは真逆な、浅薄で軽い言葉。

最近の日本の老人は厚労省の尻馬に乗りまた、生きがいを喪失するのが恐くて先回りして「社会とつながりを持っていたい」とか「若者の役に立ちたい」などと言う。奥行きゼロ。年寄がこの体たらくだから、若者も「自分探し」だとか「成長」だとか「キャリア」など、奥行きのないことを堂々と言う。まず一度、生きがいを喪失し虚無に身を置いて、それでも生きようとすることを確認し、そこから出発して「自分の好き」に忠実に、縁や生きがいを探すべきだろう。

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