神谷美恵子 著 「生きがいについて」 (別名“自己忠”の勧め)その4
育児に追われている若い母親は、幼い生命の示す日々の変化と成長の目覚ましさに目を見張り心を奪われ、それを自分自身の生命の発展として体験していくから、この上なく大きな存在充実感を味わっている。子供の病気やその他の心配事も、それがどうやら乗り越えられすれば、この充実感をなおさら大きくするのに役立つ。けれども子供が大きくなってだんだん手をはなれて行き、ひとり立ちしてしまうと、あとに残った母親の生活は単調なものとなり、それが変化への強い欲求をうみだす。ちょうど更年期の生理的動揺と重なって、時には精神的危機をつくりだすこともあるのはよく観察されるところである。すでに自己の生命の終わりに近づいた老人にとって、草花を育てる事や孫の相手をする事が大きな楽しみになるのは、ただの暇つぶしという意味よりもむしろ若い命のなかにみられる変化と成長が、そのまま自分のものとして感じられるからなのであろう。生活に変化がなくなると、人間は退屈する。それは精神が健康である証拠なのであって、心が病むと退屈は感じられなくなることが多い。たとえば脳の手術をして前頭葉の一部を傷つけられたひとは自発性を失い、毎日何の目的もなく茫然と暮らしていても平気になる。(略)とすれば、この「退屈性」こそ、人間の健康のしるしであり、進歩の源泉であるといえるが、その反面、これがまた破壊性の原動力ともなりうることを忘れてはならない。(略)カミュの言う通り、「退屈な平和」は犯罪や戦争の危険をはらんでいる。(略)生活を陳腐なものにする一つの強大な力はいわゆる習俗である。生活の仕方、言葉の使い方、発想の仕方までマスコミの力で画一化されつつある現代の文明社会では、皆が習俗に埋没し、流されていく恐れが多分にある。かりに平和がつづき、オートメイションが発達し、休日が増えるならば、よほどの工夫をしない限り「退屈病」が人類のなかにはびこるのではなかろうか。(略)少し心をしずめ、心の目をくもらせている習俗や実利的配慮のちりを払いさえすれば、私たちを取り巻く自然界も人間界も、たちまちその相貌を変え、珍しいものをたくさんみせてくれる。自分や他人の心のなかにあるものも尽きぬ面白さのある風景を示してくれる。わざわざ外面的に変化の多い生活を求めなくても、じっと眺める目、こまかく感じ取る心さえあれば、一生同じところで静かに暮らしても全然退屈しないでいられる。(略)たとえば肢体不自由である上に、視力まで完全に失ってベッドに釘付けでいながら、なお窓外の風物のたたずまいや周囲の人々の動きに耳を澄まし、自己の内面に向かって心の目を凝らし、そこから汲み取るものを歌や俳句の形で表現し、そこに生き生きとした生きがいを感じているひとはかなりいる。ベッドの上に端座し、光を失った目をつぶり、顔をやや斜め上向きにして、じっと考えながら、ぽつりぽつりと僚友に詩を口授するひとの姿。そこからは精神の不屈な発展の力が清冽な泉のようにほとばしり出ているはないか。
子供を育て、子供が独り立ちした後の母親の喪失感のくだり・・・「母親が子供を育てる」ことを前提としている。ジェンダーそのものだ。子供を産むことは女にしかできない。その1点をもって俺は男より女の方が偉くて重要で大切に守られるべきだと思う。子供を育てるのも男より女の方が得意で適性があると思う。これが正しい男女差別だろう。この考えに多分、上さんも賛成すると思う。孫が変化し成長するのを楽しむ・・・孫を持って身に沁みる言葉。「退屈な平和」に飽き飽きして戦争を始め、犯罪を犯す・・・これを談志師匠は「業」と呼び、人間本来のものとして肯定されるべき、とした。「習俗に埋没」って現代社会ではポリティカルコレクトネスとかコンプライアンスのこと。かつてはマスコミが習俗を作り、広げた。今はインターネット・SNSが「いいね」や「映え」(=習俗)をあっという間に広げ、それで飯が食えるので競って新しい習俗を作り出す者が現れる。さて、学校を卒業したらおおよそ自分の将来が見えてしまい、「退屈病」で心の目が曇ってしまった日本の若者は、明るい未来が想像できなくなってしまった老人のようだ。それゆえ(それでも若いから)自身の未来の変化・成長を求める。ただし、今の若者の言う成長とは習俗や実利的配慮の手あかにまみれているように感じる。画一的で「精神の不屈な発展の力が清冽な泉のようにほとばしり出ている」ようには感じられない。若者が悪いのではない。大人、年寄が画一的で「精神の不屈な発展の力が清冽な泉のようにほとばしり出る」ことのない生き方をした結果、そういう世の中を作ってしまったのだ。それでも若い人に期待し、信じて励ますしかないのだ。
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