神谷美恵子 著 「生きがいについて」 (別名“自己忠”の勧め)その8
生きがいの対象①生きがいのつくる心の世界
(長い間夫婦でいる二人の間で)もし何かのことで二人に食い違いがあからさまになったとしよう。するとこんなに長い間一緒に暮らして来たのに、相手は自分をこんなにも理解してくれていなかったのか、と夫または妻は愕然と気が付き、自分は一人全く別の世界にいたのだ、と痛烈な孤独感を意識する。しかし、オルテガの言う通り、人間の生はそもそも「根源的な孤独」であって、愛はこの「二つの孤独を一つに融合しようという試み」なのであるから、愛はまず互いの心の世界を知る事、理解することへの努力から出発すべきであろう。
オルテガの言う「愛」は九鬼周三さんの言う「粋」と似ている。交じり合わないものを交じり合わせようとする試み。もっとも九鬼さんは夫婦は結ばれたから「野暮」とし、結ばれない芸者と客の関係に「粋」を見た。
生きがい喪失者の心の世界①「肉体との関係」
生きる意味を失った人は、生きて行きたくない人である。それにもかかわらず生きて行かなければならないのは、肉体が精神の状況とは無関係に生きて行くからである。たとえば、“らい”にかかった人は、自己の肉体に対して強い嫌悪の念を抱いているのがよく観察される。足の指が欠損して、うまく草履の履けない人が少なくない。そんなとき「肉体に侮辱されているような気がします」と彼らは言う。しかも、“らい”という病気そのものは人を死に至らしめることはほとんどないので、この肉体の生きている限り彼らは生きてゆかなくてはならない。また愛する者に死なれた人は、もう生きていきたくないと思うような悲嘆のどん底にあっても、なお自分の肉体が食物を欲することを悲しむ。このように生きがいを失った人はいわば肉体にひきずられて生きていく存在である。「生ける屍」とはこのことを言うのであろう。
The endo of the worldの歌詞を思い出させる。失恋して死のうと思い、この世の終わりだと思う。それでも日は上り、心臓は鼓動する。自然や自分の肉体は、相変わらず今までのままを続ける。そして生ける屍から生き返ったり、この世の終わりから舞い戻って来て、人生をより深く味わう…そういう経験をした人の特権。
生きがい喪失者の心の世界②「不安」
生きがい喪失状態には必ず不安が伴う。(略)それらすべての不安といりまじり、つながりあいながら、それよりさらに深いところから来ている不安、いわゆる「実存的不安」または「世界観的不安」がほとんどすべての場合に認められる。いずれにしても、これらの「実存的不安」は、人間の置かれている状況如何にかかわらず、生存そのものに属している。人間が自己の置かれている条件を考えれば、抱くのが当然の不安なのであるが、平生は生活の忙しさや、もっと浅いよろこびや悩みによって覆い隠されている。それが生きがいを失うような限界状況において、現れるのである。このような根源的な不安は、他の人間がいい加減な気持ちで操作すべきものではない。(略)むしろ人間はたったひとりでこの不安に直面し、対決しなければならないのである。
俺は、朝起きると言いようのない不安に駆られることがある。なぜか?「死んだら終わりで死後の世界はない」と思っているせいかな?と思ったりする。「生きていたってろくなことはない」と悲観しているのに「死ぬのも癪だから生きるんだ」と生き続けているからかな?
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