大丈夫は大丈夫でない
毎月のことだが、医者に行って、コレステロールを下げる薬を処方してもらい、調剤薬局で薬を買う。今日、薬局の女から「マイナンバーと紐づいた健康保険証はあるか?」と突然聞かれた。俺は「ない」と答えた。女は「それなら大丈夫です」と言い放った。この「大丈夫」は「もうこれ以上、自分の聞きたいこと、あなたから入手したい情報はない」ということ、つまりそれ以上のコミュニケーションの一方的拒否宣言なのだ。(後述の通り、俺はなんでそんなことを聞くのか知りたかったが、拒否を感じたので詮索はやめた)
「大丈夫」という言葉には、そういった、「もうおしまい」「それ以上はやめて」「問答無用」「理由は聞かないで」といったニュアンスがある。
俺は質問されると「なぜ、そんな質問をするの?」と逆質問したくなることがある。「なぜ?」と詮索するのは別に質問された時に限らない。「なぜ生きているの?」「なぜ死なないの?」「なぜこんなことをやり続けるの?」「なぜ年長者は偉いの?」「なぜお墓に埋められなくてはならないの?」「なぜ墓参りするの?」等々みんながすること、今までしてきたことを素直に受け入れることが出来ずに「なぜ?」と質問したり考えてみたりする。
「大丈夫」と言い放ってそれ以上のコミュニケーションを拒否するのはこの「なぜ?」を拒否・封殺することだ。「なぜ?」を拒否・封殺すると言うことは常識と言われるもの、既成事実、昔から続いてるもの、流行、インフルエンサーの言うことを素直に受け入れ飲み込むということだ。「大丈夫」はその宣言だ。ここ10年(20年?)日本では「大丈夫」が横行しているが、それは「なぜ?」による詮索の拒否や一方的なコミュニケーションの拒絶の宣言が横行しているということだ。これで日本の将来、大丈夫なんだろうか?確かに無駄な会話や詮索をするのはタイパが悪い。嫌な思いをすることだってある。ただ、その無駄な詮索・嫌な思いが今までは人類の進歩を生み出してきた。どうしても詮索しないではいられない人がいた。(例えば真善美と言われるものを追求した)人間に進歩を委ねると温暖化や核兵器など、人類滅亡の方向に行くから進歩なんてAIにでも任せておけばいいのだろうか?進歩はともかく、コミュニケーションや思考の深みというか、奥行きのためには無駄な詮索が必要だ。
逆に言えば、大丈夫を連発する輩は理由や背景や事情を知ろうとしないで情報なり答えなりを集めるコレクターということだ。面倒なことは詮索しないで情報なり正解なり問題解消法を入手し、蒐集すれば満足。蒐集した情報や正解の背景にある理由・背景・事情などは詮索しない。最近はAI様に聞けば、何でも答えを教えてくれるようになった由。(チャットなんちゃら)自動販売機のようにボタンを押せば答えが出てくる。正しくこういうコレクターたちの御用達だ。彼らは陰謀論なんかも、気に入れば、詮索なしで即刻簡単に信じるだろう。
閑話休題:
俺が、もっと会話したい、とか、もっとュニケーションを深めたい人と思われていれば、簡単に「大丈夫」などと言われない。
俺は”進歩”がいいものとは思わないが、AIにお世話になる進歩よりは人間様の創り出す進歩の方を取る。なぜAIより人間を取るの?それは、人間がああだこうだと悩み、気分の頭で考えることに価値を見出すから。それが好きだから。実は人間の「なぜ?」の詮索は「好き」から先には進まない。キリスト教徒が神を信じるのも、浄土教徒が浄土を信じるのも、結局は好きだから。人間にとって「なぜ?」が重要だ、と言いながら、好き嫌いで片づけるって矛盾していないか?その通り。突き詰めると人間は矛盾しているのだ。あの津田左右吉も、なぜ天皇制は長続きするのか?と自問しながら結局「長続きするから長続きする」と言った。
コメント
コメントを投稿