大隅和雄 著「愚管抄を読む」を読む
ひょんなことから愚管抄を読もうと思った。名前を聞いたことがあるだけでどんなことが書いてあるのか知らなかったが悪い癖で原典に当たろうとせず、愚管抄研究の第一人者らしい大隅和雄さんの解説本を読んだ。家とか世(世間の「せ」、世論の「よ」)といった日本独特のものについて書いてあり、それに刺激されて以下:
日本古代の支配者層(豪族)では、土地及びそこで働く労働者、そこから得られる収入は元来は血のつながった一族で共有・分配されていた。ところが、一族に所属する血族の人数は幾何級数的に増えるので一族全員に行き渡らせるのが難しくなる。土地を小さく切り刻んでバラバラに所有してもリターンを生まないから一族の間で血筋、実力、生まれた順番、性別その他何らかの基準・方法によって優劣をつけ、一番の者が全部或いは多くを継承する仕組みに移行せざるを得なくなる。ここで親兄弟のみという一族より狭く限定された範囲の「家」という概念が登場する。つまり、かつては一族で共有されたり平等に分配されていた土地及びそこで働く労働者・そこから得られる収入が一部の「家」によって占められるようになり、その地位・権利の継承をめぐって争いが起こる。自然や敵と争い戦うことのない日本人は争いになじまないから、争いを回避・防止・隠ぺいしたいと考える。
藤原不比等は中国に似せて日本でも律令制を作ったが、中国にない「太政官」を作って国王(天皇)に代わって行政や司法を行わせるというシステムにした。後年(鎌倉時代に)藤原氏・九条家出身の僧、慈円は「愚管抄」の中で、天皇一族で起こる地位・権利の継承争いを回避・防止する仕組みを作り、実質的には天皇の地位・権利の継承をコントロールするのは、藤原氏・九条家の正統な仕事であり権利だ*1 、と言っている。(万世一系を建前とする天皇選びでは後継候補の選択肢が少なく、おかしな天皇、早死にする天皇も出てくる、そんな天皇家を守り、同時に本来まともな天皇なら持つべき権利を代行するのが藤原氏・九条家だ、という論法・・・ここに家を守るために形式上のトップと実質上のトップが存在するという二重構造が生まれ、優秀なトップを選ぼうとすれば争いが起こってその家は長続きしない、家を安定的に予定調和的に永続させるためには無力あるいは無能なトップと優秀な番頭さんという組み合わせがよい、という理屈が生まれる。そしてそれは日本で千年以上生き続けてきた。)
日本人は優秀な奴が一人で切り盛り(支配)するのを嫌って足を引っぱって引きずり下ろす。これは豊かな自然(神様)に一切をお任せし、人間の計らいを排除しようとするからだろう。いくら優秀でも自然(神様)には勝てない。優秀なリーダーより凡庸なみんなが仲良く話し合って出した結論に従うことを優先する。*2
慈円は、天皇一族に続いて藤原氏の内部でも同様のことが起こり、九条家と近衛家その他の家々が争い、それぞれ武士を頼んで勢力争いをしている、もう武士の世になった、世も末だ、と嘆く。
日本独特の土地及びそこで働く労働者・そこから得られる収入の分配・継承の仕組みである「家」はこうして生まれた。日本人らしく面白いのは、天皇家も含めて、男子が生まれなかったり、男子が生まれても出来が悪ければ血のつながってない(あるいは血のつながりが薄い)養子をもらって、その養子を家の継承者としたこと。血のつながりを絶対とする中国(儒教)とはここが違う。「家」というフィクションを千年以上の長きにわたって後生大事に守る。狭い土地にひしめき合って生きていて新しい土地を手に入れにくい日本人、それでも争いによる決着をなるべく避けたい(隠したい)日本人にとって「家」というシステムが優れており、「家」を維持継続することが有効だったからであろう。
また、新たに土地及びそこで働く労働者・そこから得られる収入を開発・獲得し、それを次世代以降に残した人はありがたいご先祖様=神となる。これが日本人の先祖崇拝の原点であろう。しかし、これも令和の御代までか?次の天皇を出す秋篠宮家は開明的・合理的・リベラルで、古くさい「家」や「先祖」などというものを否定するのではないか?イギリスの王室でも次男坊はかなり自由で率直で暴れん坊。
一方、支配の二重構造は最近流行りの「ガバナンス」と真っ向から矛盾する。支配の二重構造があるところへガバナンスを振りかざしても無意味・不毛。ガバナンスが有効なのは、優秀なリーダ―の元、その優秀なリーダーが出す指示命令がストレートに伝わる組織だけ。俺たちの世代では二重構造を認めている。(だって、馬鹿な上司・トップが訳の分からないことを言うから、素直に聞いていられない。また上司・トップに報連相しないで悪さを働くのもやむなし)平成生まれの皆さんはどうか?家(=会社や役所といった組織を含む)を守る必要がなくなれば二重構造も要らないはずだが…
今の日本も無力な天皇や馬鹿な政治家や官僚が形式上は支配するように見えて実際には関所、関所にプチ天皇がいて支配しているように見える。つまり、日本も家だ。家に代わるフィクション(“神“と言ってもよい)が編み出されないと日本の「安心・安全」は覚束つかない。
「修身斉家治国平天下」と言う。個人の身をおさめ、家をおさめ、国をおさめ、天下をおさめる。国・自治体=世とは家の集合体である。日本においては個人が直接、国・自治体=世を構成しない。家を媒介させる。民主主義とやらは家抜きで個人が直接国・自治体を構成することを前堤とする。家などと言う余計な介在物が挟まると似て非なる民主主義になる。
*2中国・アメリカでは優秀=競争で勝ち残った個人が支配(ガバーン)するという分かりやすい、普遍的な原則が貫徹され、リーダー候補達はライバルの足を引っ張り合い、スキがあれば抹殺しようとする。これが「グローバルスタンダード」で、これを前提に組織のあるべき姿、管理法が構築される。
閑話休題;
日本人の「家」好きは芸能界にも見られる。歌舞伎俳優や落語家は○○家とか家と同義の「亭」を名のることが多い。商家の○○屋も同様か。芸能界も家などという古めかしいものをすっ飛ばしてYouTuberになろうという人がいる。○○屋はすでにスーパーやコンビニという「新たな家」に置き換わり、更にインターネット通販になる可能性もある。
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