神谷美恵子 著 「生きがいについて」 (別名“自己忠”の勧め)その1

この数年間で一番重く心に響いた本(神谷美恵子著「生きがいについて」)を紹介する。

この本について語るにはまず、「らい(ハンセン)病」及び1950年代における日本のらい病患者の扱いについて語らねばならない。Wikipedia及び「生きがいについて」(以下、“本著”)によれば、らい病とは:

らい菌によって引き起こされる感染症で、現在では感染力が非常に弱く、また、適切な治療をすれば皮膚に重度の病変を生じる後遺症も起きないことが分かっている。日本では戦中戦後、適切な治療が行われないで、視覚障害、知覚障害、皮膚の変形などの後遺症を発症する人が多かった。1953年「らい予防法」が制定され、患者の隔離、隔離された患者の外出制限等が定められた。日本では、一緒に暮らしていた家族の一人が発症すると前世の悪行のたたりとか神罰と言われ、家族も地域から疎外されるから身内に患者がいることを隠そうとしたり絶縁したりした。また、本人も家族に迷惑がかかるのでこっそり隔離施設に入ったり、自殺する者もいた。発症し、隔離された患者は恥辱感、疎外感を強く味わった。

患者の肉体が欠損、変形、障害を起こして、それでもまだ、死なずに生き続けるということは、肉体は崩れていくが精神活動は維持されるということになり、神谷美恵子によれば「肉体に侮辱されているように感じ」、「生けるしかばね」になる。また、不自由になった肉体は価値が下落し、それがそのまま自己の存在全体の価値が下落した、と患者は劣等感を持つ。頭で「人間の価値は人格や精神にあり」と考えて自尊心を持とうとするが、これを理屈・思想としてではなく生存感自体にしみ込ませるのは容易ではない。患者は今までそこにはまりこんで暮らしていた世界から急に「無用者」「アウトサイダー」「疎外者」としてはじき出されてしまう。一方で自殺もできず施設に入れば衣食住は国家によって一応保障されるが、多くは社会復帰できるかどうか分からないので、死ぬまで施設から出られない可能性がある。日本にも世を捨てると言う伝統はあったが患者たちは強制的に世捨て人にさせられた。療養所は「死ぬまでの仮の宿」となる。

俺の「遊び」の定義は「目的・理由のない行為」であるが、隔離されたらい病患者は「一生施設の外に出ないで遊んでいろ」と宣告されたのも同然だ。あるいは死刑囚に似ているか?生きていく目的・理由がないが、自殺もしない、という存在になる。すると、人間は「自殺せずに生きている理由」を求め、探し出そうとする。これ、正しく20歳前後約10年間の俺と同じだ。

ここで著者・神谷美恵子の経歴を:

1914年、内務官僚・前田多門の長女として生まれる。父親の仕事の関係で幼少期、ジュネーブにいたことも。津田塾2年生の時「らい病」患者に接し、また卒業後、結核になったこともあって病気と闘う医者を目指したが父親が許さなかった。その後、コロンビア大学古典文学科在学中に父親の許しが出て1944年東京女子医専卒業。精神科医となり、1957年~1972年岡山県にある、らい病患者隔離施設の長島愛生園に勤務。著者は精神医学的調査(アンケート・聞き取り調査など)を行ったが、本著はこの最中の1958年に発意され1966年に完成した。愛生園では多くの患者は生きがいを見失い悩むが、例外的に生きがいを見つける患者もいる。この違いはどこから来るのか?を考えたのが本著を書くきっかけだった。著者は、生きがいについて、日本はもちろん、世界中の思想・哲学・宗教に関する膨大な書物を読み、研究・探求・考察した。それらが本著にも多数引用されている。

 

これより本著からの引用・抜粋。 ・・・黄色部は俺のコメント 

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