神谷美恵子 著 「生きがいについて」 (別名“自己忠”の勧め)その6
生きがいを求める心③「反響への欲求」
リントンは他人からの、主として情緒的な反応を人間の基本的な欲求のひとつとしている。それがどんなに根強いものであるかは子供の成長を考えてみればわかる。子供は最初からひとびとのなかにうまれてきて、その人格はひとびととの相互関係の中で形作られる。まず、他人の存在というものがあって、自我は最初はそれと渾然一体となっているが、次第に他人との交渉という経験を通じて少しづつ自我の輪郭がはっきりと意識されていく。他人との共同世界の中で生きていること。これが人間の根源的なありかたなのだと多くの哲学者や思想家が考えた。他人に自分の存在を受け入れてもらう性質のものでなくては生きがい感は生まれにくいであろう。
人間は他人との共同世界に一人っきりで生まれ出る。共同世界に一人っきりで放り出され、生き始めるのだ。他人との相互関係ありきではない。まず、一人っきりで生まれ出て、それから親や周囲の人たちの世話になって生命を維持し、相互関係を作る。世話になったからと言って自分から世話してくれ、と頼んだわけでもなく、
生きがいを求める心④「自由への欲求」
人間のあり方は、生物学的、心理学的、社会学的条件によって完全に支配されてしまうのだ、というフロイトやその流れをくむ学者たちの決定論では、生きがいの問題には歯が立たない。アメリカの社会学者ラピエールによると、この決定論的思考は精神分析のおどろくべき普及とともに、アメリカの社会のあらゆる領域に浸透し、それがアメリカ人の家庭、学校、社会における生活態度を無気力なものにしてしまっているという。パイオニア時代にアメリカ人を力強く支えていた自発性。自律性、独創性、冒険性は今や消え失せ、絶望と否定の倫理が支配し、そこで指向されるものは単に適応と安定のみであるから、これはアメリカの将来にとって大きな危険をはらんでいる、とラピエールは主張する。(略)たしかに、自由を得るためには、さまざまの制約に抵抗を試みなくてはならない。それが大変だから「自由から逃走」することにもなる。これこれの事情だから、これこれの人間だから、だから自分は不本意な生活もしかたがない、とぐちっぽくあきらめて暮らす人は多い。その顔には生きがい感は見られない。自由からしり込みする人の根底にあるものは、あの、安定への欲求、とでもいうものであろう。これはまさに自由への欲求と反対の極にあるようなものである。そしてこれも自由への欲求に劣らず、あるいはそれ以上に根強い、基本的な欲求であろう。というのは、精神身体医学的に言っても心身のあらゆるからくりは、一応この安定、すなわちバランスを保とうとする方向に働くようにできている。安定への欲求を主として社会的・文化的なものと考えるならば、人間が社会的存在として、何よもまず集団の一員として安心して暮らせるように努めるものであることは明らかである。その証拠には野猿たちの生活の観察記を読んでみればいい。彼らの社会には確固たる秩序があって、実力競争によりボスはボスとしての特権と責任を持ち、弱者は弱者としての分を守る。オルテガの言う通り、動物の生活は、全く他律性だとしても、その「他」は必ずしもいわゆる「動物的な」欲求のなすところだけでなく、力の秩序によって定められた社会的な律法(おきて)に服そうとする力もあってそのためには下位の欲求、たとえば食欲や性欲のようなものでもある程度まで抑制されるのである。社会的安定を失い、仲間外れにされることはそれらの欲求の不満以上に危険なこと、すなわち生存そのものを危うくすることだからであろう。生物の系統発生的な進化の序列の中で、あとから発生したものほどもろい、という一つの法則がある。おそらく主体的な自由への欲求というものは、系統発生的には安定への欲求より後になって現れて来たものであろう。安定への欲求は主として「旧い皮質」である間脳のほうに関係があり、自由と自発性への欲求は大脳皮質の中でも一番新しい前頭葉に関係があると考えられる。(略)してみれば、自由への欲求というものがまだまだひ弱いのも道理で、いざとなると安定ということがひとの心に支配的な比重を占めがちなわけもうなずけてくる。正直に言って、人間には、選ばないで済む方がありがたいと思われることが少なくない。つまり人間には自由への欲求もあると同時に不自由への欲求もあると思われる。しかし本当に選ばないで済むのかというと、少なくとも人間の場合は、厳密な意味では、済まないのである。人生の岐路に立ったとき、自分で進路を決めないで他人や成り行きにまかせるならば、すでにそういう方針をえらんだことになる。オルテガの言う通り、ひとは言わば自由を強いられているともいえる。たとえ宿命的と形容されるような苦境にあっても、一切を放り出してしまおうか。放り出そうと思えば放り出すこともできるのだ。放り出して自殺やその他の逃げ道を選ぶこともできるのだ。そういう可能性も真剣に考えた上で「宿命的」な状況を受け入れることに決めたならば、それはすでに単なる宿命でもなく、あきらめでもない。一つの選択なのである。自由といい、選択とはいうが、もちろん、それを手に入れるためには多くの知恵と弾力性を必要とする。ただがむしゃらにこれを追求してみても、自他ともに傷つくばかりであろう。粘菌という原始的な生物ですら、外部の状況が自己の成長に不利であるときには、スクレロチームという姿を取って、自己の周りに硬い殻を作り、その中でいわば冬ごもりして、最小限度の生命を維持し、周囲の状況がよくなると再び殻を破って増殖し始める。人間もまた、外的条件に恵まれない時にはなるべく抵抗を少なくして、エネルギーの消耗を防ぎ、なんとかその時期をやり過ごすほうが全体から見て得策のことがある。鳴りをひそめ、小さくなって時期の到来をうかがうその姿は、一見消極的に見えても内に強靭な自由への意志を秘めている。未来においてより大きな自由を手に入れるために、現在の小さな自由を放棄し、覚悟の上で自らを不自由の中に拘束しておくというならば、そのような計画性と選択性には、やはり自由と主体性が潜んでいるといわなければならない。またひとは、他人への愛ゆえに自らの自由を捨てて人に仕えることもある。他の道を取ることもできるのにこの道をえらぶとしたならば、これもやはり自由に不自由を選ぶといえる。
こういう親のもとに生まれ、こういう学校を卒業し、こういう会社でこんな仕事をし・・・で一生が決まる・・・現代日本を支配する決定論。その決定論では若者の生きがいを求める心には無力。決定論の先輩、アメリカでは自由を乱暴に求める共和党とその乱暴にタガをはめようとする民主党に分裂。今できる事は、時が来るのを待つこと?・・・時が来るのを待つ。一見、説得力がある考え方だが、いつまで待つのか?周囲の状況がよくなったかどうかをどうやって見極めたり予測したりするのか?これが難しい問題で、死ぬまで待ち続けることになるかも?年寄は死ぬまで待ってもそんなに時間はかからない。死ぬまで時間がたっぷりある若い人には「待て」だけでは不十分。(嘘でもいいから「こうなるまで待て」「いつまで待て」が欲しい。それが未来の希望になる。この精神的枯渇状態に宗教や陰謀論が入り込む)
自由に不自由を選ぶ・・・神谷さん得意のレトリック。俺は好き。ハナから不自由を選ぶのは「不自由に不自由を選ぶ」こと。2つ以上の選択肢の中から選ぶから自由なのだ。日本人て自由が嫌いで「みんな」が選ぶのと同じ選択肢/ご利益がありそうな選択肢を選び、他の選択肢を消去して一択にしたがる。まあ、「他の選択肢を消すこと」も自由の一種かも知れないけど。
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