神谷美恵子 著 「生きがいについて」 (別名“自己忠”の勧め)その7

 生きがいを求める心⑤「自己実現への欲求」

「自己実現」と単なる「わがまま」の区別は、生きがい感と結びつけて考えてみれば明らかである。「わがまま」というのは、自我の周辺部にある、末梢的な欲求に固執することで、これが満たされても真の生きがい感は生れない。これに反し、「自己実現」の場合には、実現されるべき自我とは、いわゆる「小我」ではなく、中心的、本質的な自我を意味する。「業績への欲求」とか「自尊心を維持する欲求」などを人間の基本的欲求の内に数えあげる学者もあるが、これも、根本的には似たことになる。いずれの場合にも、他人の目に対して、業績をあげることや自尊心を保つことが第一の問題ではなく、何よりも自己に対して、自己を正しく実現しているかどうか、に関係した欲求であると思われる。もしこの意味で自己にもとっているならば、外面的、対人的にどんなに立派に見えようとも、心の底にはやましさの意識がひそんでいて、心の目はーそしてしばしば肉体の目までも、自己をも人生をも正視することができなくなり、横目使いや上目使いをするようになる。いきいきと、堂々と歩いて行くためには、どうしても人は自己に忠実に「そのあるところのものになる」必要がある。

人間は、他人との共同世界にしか生きられないが、同時に他人の目ではなく、自分の評価軸に従い“自己忠“で自己実現すべきだ。ここで言う「自己」とは「自分探し」の自分のことだろう。「自己・自分とは何者か?」わからないまま、学校や職業や配偶者や、様々なものを選ぶ・・・当然失敗・後悔する人が多く、転職や離婚のハードルが低くなる、という理屈になる。かつて俺たちの世代でも「自己・自分」など分からないまま、学校・職業・配偶者・・・を選んだが、なぜか転校・転職・離婚はそれほど多くなかった。生きていくうちに、選んだ結果と自己・自分との折り合いをつけようと葛藤し、後付けでなんとか折り合いをつけた)・・・高度成長期というまばゆい光(の残滓)があったから、目がくらんでいたのか?ただ、「わがまま」と「自己実現」の間で揺れた。他人に認められ、羨ましがられることは嬉しいがそれだけじゃあ後ろめたい。かと言って自己実現だけでは自己満足と同義で張り合いがなく、つまらない。

俺は日本の未来は暗い、と悲観している。悲観していても仕方がないから、何かしたい(自己実現)とも思うが、年寄が出しゃばっても(わがまま)・・・と遠慮する。せいぜい、読まれるか読まれないか分からないブログに遺言代わりに(生前贈与として)繰り言を書き残すか、新聞やTV局に投書メールをするか、気に入った政治家の応援をするくらい。そしてTVに向かって文句を言って上さんに嫌がられる・・・TVに向かって文句言うのは「わがまま」だ。

 

生きがいを求める心⑥「意味と価値への欲求」

意味づけ、価値づけという心の働きは、知覚のみならず、感情、思考、学習、記憶その他、人間のあらゆる生体験の中に含まれているのではないかと思われる。言い換えれば、人は自分でもそうと意識しないで、たえず自己の生の意味をあらゆる体験のなかで自問自答し、確かめているのではなかろうか。そしてその問いに対して求める答えは、どんなものでもよいから自己の生を正当化するもの、「生肯定的」なものでなくては生きがいは感じられないのであろう。この肯定の答えが簡単にえられるひとは生きていくことが楽であり、楽しみにちがいない。単純素朴に神を信じ、神からつねにその答えを与えられているひと、他人が肯定し、うけあってくれれば、それで安心して自分も自分の生を肯定できるひとなど。ところがひとによっては性格の出来が複雑で、劣等感を抱きやすく、他者からの肯定も受け入れられず、自分で自分の生の意味をみとめることもできず、一生をこの意味への探求に苦闘してくらすひともある。

性格の出来が複雑で・・・不器用な生き方。一生苦闘して探求する・・・俺はそっちの方が好きだ。単純素朴に何かを信じ、肯定感を抱くなんて格好悪い。(半分うらやましいが、自分にはできない)かつてのアメリカ人は単純素朴にマニフェスト・デスティニーを信じ、世界の征服を目指したが、どうもうまく行かない。段々性格の出来が複雑というか悪くなり、おかしなことに。でもアメリカ人は大人になりつつある、とも言える。

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