神谷美恵子 著 「生きがいについて」 (別名“自己忠”の勧め)その13

 心の世界の変革①宗教的変革体験

(前略)“らい”である自分がこれから生きていくことは無意味であると思えたのです・・・生きる意味を見つけ出すことが出来ないにもかかわらず、もう死へ踏み切ることはなかなかできませんでした。死のうという決心は鈍る、しかし、生きるのも辛いという切羽詰まった気持ちでした。色々考えてもその気持ちを解決できそうな考えは出てきませんでした。こんな気持ちになっていた時、たしか診療を受けた日から三日目だったと思いますが、突然、それまで考えていたこととは何の脈絡もなしに、自分は生かされているという思いがおこりました。自分が生きているのではなく、生かしてくれる者がある、それは、神ではなかろうか、神によって私は今こうしてあるのではなかろうか、という思いでした。そしてその神は、キリスト教の神であることが、考えるまでもない事として非常に強く感じられました。

俺にはこのような「回心」の経験はない。「生かしてくれる者がいる」と言う話を聞くことがあるが、実感できない。いまだに「自分の主人は自分」と思い込んでいる。確かにこの世におぎゃあと生まれ出ることは自分の意志ではできないし、上さんがいなければ俺の人生はなかったとも思うが。それでも、自分が生きるか死ぬかくらいは自分で決める。

 

心の世界の変革②「変革体験の特徴」

小さな自我に固執していては精神的エネルギーを分散し、消耗するほかなかったものが、自己を越えるものに身を投げ出すことによって初めて建設的に力を使うことができるようになる。これはより高い次元での自力と他力の統合であると言える。(略)変革体験はただ歓喜と肯定意識への陶酔を意味しているのでなく、多かれ少なかれ使命感を伴っている。つまり生かされていることへの責任感である。小さな自己、みにくい自己にすぎなくとも、その自己の生が何か大きなものに、天に、神に、宇宙に、人生に必要とされているのだ。それに対して忠実に生き抜く責任があるのだという責任感である。

自分の運命を握っている神様がいるとしても、神様に「おんぶにだっこ」ではなく、神様が自分をこの世に送り出した理由・意志を知ってそれを実践する責任がある、ということか。俺は神を信じない。自分の主人たる自分の声に耳を傾け、忠実でいようとは思う。

 

心の世界の変革③変革体験の意味

(略)愛の対象にせよ、物質にせよ、地位や名誉にせよ、すべて所有というもののなんとはかなく、もろく、むなしいものであるかを彼は身に沁みて知った。それらを自分が所有していると信じていたとき、彼はその中に自分の存在の重みを感じ、それを生きるよりどころとしていた。しかしひとたび限界状況に陥ってみれば、全て外部から取ってつけられた所有物は奪い去られ、彼は全く裸のままに取り残されたのであった。彼が羽振りのいい時には周囲に群がった人々も彼が落ち目になった時、または他人と違った状態になった時、ただそのことだけで彼を価値なき者と判断し、非難し、彼から遠ざかって行った。肉親すら彼を恥とした。(略)このようなことを彼に教えたのは苦しみと悲しみの体験であった。このようなことを分かってくれる人もまた深い苦悩を一度は通ったことのある人にほとんど限られていた。結局、人間の心の本当の幸せを知っている人は、貧しい人の方が人間らしい、素朴な心を持ち、人間の持ちうる、朽ちぬよろこびを知っていることが多いのだ。

生きている限り、自分自身だけは誰からも奪われようのない、自分自身の所有物ではないか?虚しいことに変わりはないが…

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