神谷美恵子 著 「生きがいについて」 (別名“自己忠”の勧め)その2
これより本著からの引用・抜粋。 ・・・黄色部は俺のコメント
生きがいということば:
存在理由(レゾン・デートル)と似ているが、むしろ、生存理由(レゾン・デヴィヴレ)といった方がよさそうに思える、もうひとつ生きがいに似た言葉に“はりあい“というのがある。…生きがいを俺流に言い換えれば死なずに生き続ける理由だ。初めから”死ぬこと“を排除してどう生きるか?何故生きるか?生きる目的は????ではない。あくまで死ぬことも選択する可能性があるという条件下において、死なない選択をする理由を求める。俺に言わせると生きるという選択をするという結果は同じでも、死ぬことを排除して考えるのと排除しないで考えるのでは重みと言うか、深みが違う。生という1つの視点しかないのと生死という2つの視点から見るのは奥行きが違う。このことを人に出会うたびに確認するわけにはいかないが、付き合っていくうちに、俺にはどちらの人か分かるような気がする。そしてハナから”死ぬこと“を排除していると思われる、軽くて浅薄で安直な人のことは信じないし、馬鹿にする。(時には、「死を排除しない考え方もあるんだよ」と大きなお世話だが教えたくなる)。”はりあい“は、俺にとってはいい芸に接した時、無償の行為・無私(無我)の行為に接した時、旨いものを喰った時に『生きててよかった』と思う、これが”はりあい”だ。生きることを選び、生き続けるためには月一回なのか、年一回なのか、ともかく、『生きててよかった』と思うことは確かに必要だし、生きていれば必ずそういうチャンスが来る。理屈は「生きるなんて無意味さ」「意味なんてないのが生きるってことさ」「死に向かって生きているのさ」と言い、また、肉体は衰えていずれ滅ぶようにできている。頭も肉体も生きることに後ろ向きだ。それでも死なずに生きるのはなぜか?俺はその生存理由が見つかるまでに約10年を要した。その約10年間は訳もなく、ただ生きていたことになる。今振り返ればその10年間を“無駄に”生きた言い訳・後付けの理由を10年かけて探したようなものだ。俺のたどり着いた“死なない理由”は「死ぬ方が楽そうだから」「死は逃げ・負けだから」「死ぬより苦しい方、“生きる”ことを選ぶ」だった。
コメント
コメントを投稿