投稿

3月, 2025の投稿を表示しています

池田晶子の言葉「正しく考えよう」「誰でもない我々」

 本当のことを知るためには。正しく考えることが必要だ。「正しい」ということは、自分一人に正しいことではなくて、誰にとっても正しいことだ。本当のことを知っているということは、それ自体が自由なことなんだ。 自由を他人に求めることで我々は誤るのである。人は言う。「自分の自由」。そうではない。本当の自由とは「自分からの」自由である。自分が誰かであることを、何かに求めることをやめることだ。 >> 本当=誰にとっても正しい=自由・・・これらは、池田にとって「生きる」ということと同じだ。間違った意見、みんながそうだ、という意見・・・それに反対するだけでは同じ土俵だ。他人の意見を無視して自分で考え、自分の言葉で語ることが「本当」だ。そしてそれが誰にとっても正しいことを目指す・・・これは絶望的に難しい。「俺はこう思う」と言って反論を待つしかないように思う。今時、「誰にとっても正しい」ってあるんだろうか???なくても目指せということか。 一時はやった「自分探し」・・・転職好きはその延長か?どんな仕事をしてるかでは自分が何者であるかかを示すことはできない。

池田晶子の言葉「思い込みからの解放」「男女は平等である」「言論の自由」

 精神は、考えることで、自分の思い込みから自分を解き放つ。死が存在するということも、アラーが絶対だということも、社会によって自由が保障されるというとも、すべてが不自由な思い込みだ。これが思い込みだということには、考えなければ気がつかない。自由になるためには、人は、自分で考えなければならないんだ。 男も女も、生きている者は必ず死ぬ。完全に平等である。本当に大事なことにおいては、男女の平等は最初から実現しているのである。人間の問題はすべて男女問題に還元されると思うのは、その人がそう思っているだけである。自分の関心が、男女問題にしかないからである。(略)人間の本質は自由である。 不自由になるのは、自らを属性と思い込む以外に理由はない。これは理屈じゃなくて、ヒョイと気がつくだけのことなんですがね。 自由を他者に要求するとは、それ自体矛盾である。自由とは、定義により、自分自身により自由であることだからである。ゆえに、自分の自由を国家に保障されなければならない 民主主義とその制度は、最初から矛盾を孕んでいる ということだ。ならば人は、どのようにして自身の自由を獲得すべきなのか。だからそれが、 正しい言葉を使う ことなのである。 言葉をその節目に沿って正しく使用し、論じ、虚偽であることの不自由 を見抜くことなのだ。 >> 不自由になるのは、自らを属性と思い込む以外に理由はない。これは理屈じゃなくて、ヒョイと気がつくだけのことなんですがね・・・ さあ、ここが理解できない。「真の自由とは何か?」を考えて考え抜いてふと属性と本質の違いに気づく、ということか?俺は自由がそんなに大切なものとは考えないできたから自由について考え抜いたこと、悩んだことがない。「俺はじじいだ」これは「男・年寄」という属性だ。これを忘れて「俺は人間だ」これも忘れて「俺は生き物だ」・・・最後はどこに行きつくか?際限なく考えてみるか・・・ 民主主義の矛盾 :みんなで集まったって真の自由は得られない・・・民主主義をこういう切り口で見るということが新鮮だ。現代社会は上っ面のまがい物の言葉が横行反乱している、そのまがい物に振り回されてあくせく生きるのをやめれば自由になれる・・・じじいはそれをやるには恵まれている。 言葉をその節目に沿って正しく 使用し、論じ、虚偽であることの不自由 を :さあ、これも理解できない。池...

池田晶子の言葉「名を名のれ」

 本当に知られたいこと、知らしめたいことならば、実名で書けばいい。実名で書くと攻撃が  怖いと言う。それならそんなことはやめればよい。(略)もし自らの独自性を信じているなら、実名で書けるはずだ。もしそれが可能なら、この愚劣なネット社会も、少しは成熟の方向へ向かうはずだ。 >> 池田は2007年に死んだ。この文章が2007年に書かれたとしてそこから18年。18年たってネット社会は成熟したか?愚劣なまま、と言うか、もっと愚劣になった。愚劣な人間が愚劣に利用するようになった。トランプの一党のように、実名を隠さずに、嘘をいっぺんに大量に垂れ流して選挙に勝とうとする。一方で匿名で炎上狙いの輩も多い。人間社会って、愚劣に愚劣になるように出来ているんじゃないか?

池田晶子の言葉「人類の集団的勘違い」

 人類の宗教史における最大の勘違いは、「解脱」とか「自由」とかは、徹頭徹尾自分一人の課題であるはずなのに、大勢で集まって一緒にそれを何とかしようとする、なんとかできると思っている、というこのことで、どだいすれは筋違いなのだ。内的自由を希求するために、なぜ集団にまとまる必要があるのか。集団にならなければ達成されないような自由など、どれほどの自由であるというのか >> 池田さんの言う宗教は「小乗仏教」だ。大乗仏教や日蓮宗などは他人を救おう、そのためには支配者に物言おうと言う「宗教」だ。日蓮宗などは確かに政治集団だった。それで得られる自由もある。ただし、その自由は規制からの自由だ。池田さんの言う「自分からの自由」、ではない。でもそんな規制・強制からの自由でも結構ありがたい。

池田晶子の言葉「何を知るべきか」

 「正しい」とは、そもそもどういうことなのか。それ以外に人間が人生で知るべきことなどあるだろうか。情報には本当もウソもある。事実か事実でないかということもある。本当のこと、真実というのは、外から与えらて知るものではなく、自ら考えて知るものだからだ。自ら考えて知るより、知りようがないものだからだ。 >> 俺はもう考えて真実を知ろうと言う努力はしない。疲れた、というかあきらめた。考えないで好き嫌いで決める。

池田晶子の言葉「自由と規律」

 人間は自由にすると悪いことをする。だから規則で規制しなければならない。管理する側はそう思う。しかし、規則で規制したところで、悪いことをする人間は悪いことをする。逆に、善悪とは規則の事だと思うから、 自分で善悪を判断しなくなる。できなくなる 。状況に応じて自分で善悪を判断できない人間たちの社会が善い社会になるわけがない。社会的な規則には、私の自由、状況に応じて善悪を判断する自由を規制する力はないからだ。 >> コンプライアンスやポリティカルコレクトネス・・・自分で判断することをやめることを要求する。これが管理だ。管理の行き届いた会社、社会が住みやすい訳はない。規則には自由を規制する力はないのに、わざわざ自分から規則の奴隷になろうと言う者がたくさんいる。ほとんどの者がそうだ、とも言える。これはアメリカ人には向いている。つまり「法治」だ。本来、日本人は規則なんて無視して状況に応じて都度、善悪の判断をしたがる。

池田晶子の言葉「内なる善悪を問う」

 倫理すなわち善悪の問題は、本当に難しい。難しいのは、それが難しいゆえに何らか外在的なものに委ねてしまいたい、その誘惑に抗するのが難しいのである。道徳、法律、または宗教、そんなものに善悪の判断を委ねてしまえばラクである。しかし、判断の放棄とは、自由の放棄である。人生の自由を失いたくないのなら、人は、自ら内なる善悪を問い続けるしかないのである。 >> コンプライアンスやポリティカルコレクトネスはラク・便宜だからか。そんな便宜を自己目的にする輩もいたなあ。へそ曲がりな俺は、自分以外の基準は拒否したが・・・

池田晶子の言葉「宿命と幸福」

 およそ人の不幸とは、自身以外のところに自身を見出そうとするところにあるのだから、自身を自身と認めることが、それ自体幸福であることのはずだ。 「宿命」を、あらかじめ定められた不自由、自由に対立する必然と思うなら、それは間違っている。必然は自由の対立項ではない。必然を必然と認識するから、それの沿うことで人は自由なのだ。必然を必然と認識しないから、それを拒むことで人は不自由なのだ。人が、自身の宿命を認識し、それに沿い、その実現のために為される努力、これが幸福だ。 >> 宿命を受け入れてそれに逆らおうとしない、他人の宿命を妬まずに自分の宿命を喜んでenjoyする、それが自由で幸福になる秘訣。

池田晶子の言葉「生きることの痛み」

 生存することは「痛み」が伴う。「自分の」痛みではない。自分が生存するために他の生物に痛みを与える、その痛みを痛いと自分が感じるのである。他の動植物を殺して食べまで自分が生きること。では「何のために」生きているのか、そんな残虐なことをしてまで、生きる理由が自分にあるか、生きるほどの自分であるか。 私は、生きるほどの自分であろうとしている。 >> 殺される動植物の痛みを感じるなら戦争で人間を殺したり傷つけたりするのはどうなるのか?動植物どころか、他人の痛みすら感じないから喧嘩や戦争ができるのだ。池田流なら、原爆その他で散々残虐な方法で多くの人を殺したアメリカ(に限らないが)人だって、殺された人々の痛みを感じさえすれば、他人を殺してでも生きる価値があるということになる。動植物あるいは他人(特に有色人種)に対する差別だ。(ただし、俺は差別も是認する) 人の食糧として殺される動植物と国を守るとかいうお題目で殺される人間とどこに差があるのか?俺は差がないと思う。差がなければ池田流では動植物も人間も自分が生きるためには殺してよい、ただし、殺された側の「痛み」は感じなさい、となる。 俺流に痛みを感じないで殺せというのか、池田流に自分が生きるために殺してだけど痛みを感じなさい、というのか・・・殺すことを是認する点では同じだが・・・俺流が下品(げぼん)で池田流が上品(じょうぼん)か?? また、自分以外の痛みに不感症な俺は殺すこと自体が残虐で、殺し方に残虐もそうででないもありゃしない、と思うが、池田流ではどうなるか?やはり痛みを与えるんだから殺すという事自体が残虐なのか?

池田晶子の言葉「たまたま」のこの人生

 なぜ自分はここに生まれてあそこに生まれなかったという事は、考えても理由がない。理由が見つからないという事は偶然である。したがって絶対である。この偶然的なことが絶対的であるという原点に気がついていると、自分の人生に、言って見ると腹が据わるんですね。人と比較するということがなくなるんですよ。だって絶対なんだから、自分の人生はこうであり、これ以外ではあり得なかった、こうわかっているなら、あとは黙って生きるだけだ。 >> 「自分の人生はこうであり、これ以外ではあり得なかった」と思うと同時に、「アイツの人生はいいなあ」とも思う。俺の人生の原点は「相対的」だ。「下品に腹が据わった」とも言えるか。だから愚痴をこぼしたり「愚痴をこぼすのは格好悪いいなあ」という見栄を張ったりして生きてきた。 偶然=運命。これを受け入れる=神を受け入れる。 恵まれているアイツじゃあなく神を相手にすればよかった。神とは他人と比較して苦しむことから逃れるための道具か?

池田晶子の言葉「善く生きるとは」

 「善く生きる」というのは、決して道徳的な意味合いではないですね。逆にその道徳性も含めた社会的な作り事、虚構性を見抜いて、それを虚構だと自覚して、より賢く、自覚的に生きることを言うのです。 >> これも俺には難しい。虚構なんてぶち壊したくなる。虚構だと自覚してねえんじゃないか?と周囲の人をバカにする。これを我慢して周囲とお付き合いするのを上品(じょうぼん)と言う。

池田晶子の言葉「人生の句読点」

 人生の一回性、喜びも苦しみも、一回限りの経験である、そういう経験の総体としての人生というものそれ自体が、一回限りのものである。一回限りで過ぎてゆき、二度と戻らないものである。このことを人は分かっている、深いところで誰もが了解しているのである。だからこそ人は、過ぎゆかないものを求める。過ぎてゆくものにおける過ぎてゆかないもの、過ぎてゆくけれども巡るもの、を求めて、見出し、嬉しいのである。「今年も花が咲きましたね」、と言えることの幸せ。ゆえに、季節とは、過ぎゆく人生の句読点のようなものだろう。一回性における永遠性、永遠の循環性を見出す時、人は、自分が自分の人生を生きていることの奇跡をも知るはずである。 >> 2月には梅が咲き、3月末には桜が咲き、10月初めには金木犀が咲き・・・繰り返されることの不思議。奇跡と呼んでいい。去年と同じモノが咲くわけではないから咲く方から見れば、一回限りとも言える。一回限りが繰り返される奇跡。死なずにいたからこそ味わえる数少ない喜び・幸せ。そして年取ってその喜び・幸せを一緒に味わえる人がいるのが最大の奇跡。

池田晶子の言葉「年をとる醍醐味」

 人は死があると持っているから、生れてから死に向かって時間は流れていると思っています。社会もその前提で動いています。死がないと分かったとき、時間は流れなくなるのです。そうすると、現在しかなくなってしまう。そうなれば、過去もこの現在にあるということに気がつく。それが、年齢を重ねることの面白さでもあるのです。現在と言う瞬間に時間が層を成している。年を取るとその層がだんだん厚みを増していきますから、反芻することが非常に面白くなっていきます。現在において過去を味わうことが年を取る事の醍醐味になる。 >> 死はある。あるけれど生きている間はない。生きている限りは死なない(死はない)と考えて「どうせ死ぬんだから」などと考えずに、目の前の一舜一瞬を精一杯生きる。それが「神」もしくは「善」だ。過去の失敗を思い出したり後悔したりするのも醍醐味だ。「ああそうだったのか」「そういうことだったのか」と今更ながらその意味を知て腑に落ちる。これは確かに面白い。苦い思い出・後悔も含めて味わうべき人生の醍醐味。 年を取るという事はその醍醐味のネタが増えるということだ。後悔もenjoyせよ。

池田晶子の言葉「苦しみも奇跡だ」

 宇宙が存在する、なぜ存在するのか分からない宇宙がなぜか存在すると言うこのこと以上に、納得できないことなんかあるだろうか。存在すると言うことには意味も理由もない。だからこそ、それは奇跡なんだ。自分が存在する。これは奇跡だ。人生が、存在する、これも奇跡だ。人生が存在すると言うこと自体が奇跡なんだから、そこで味わう苦しみだって奇跡だ。そんな風な、あること自体の驚きの感情を失うのでなければ、苦しみの意味や理由をもとめて悩むことは少なくなるだろうし、人生が空しいなんて思うこともなくなるだろう。 >> 人生に意味も理由もない。意味も理由もないのに存在するという事が奇跡だ。これが池田流。俺はついつい「意味も理由もないんだからどうでもいいじゃねえか。人生なんて空しい」に流れる。これは池田昌子に言わせれば善ではなく、悪だろう。悪でも死なずに71年も生きた。これも奇跡と言うべきか。無駄と言うべきか。

池田晶子の言葉「究極の死に方上手」

 生まれた限りは死ぬまでは生きているもので、どうしてそうなのか分からないのでもあれば、生きても死んでも大差ないではないか、基本的にそう思っているので、生きるため生き残るためにそうどうするという発想が、どうしても出てこない。(略)究極の死に方上手というのは、死に方なんぞ知ったことかという死に方であるに違いない。 >> 生きても死んでも大差ないんだが、だからこそ、善く生きてやろうじゃねえか、が池田昌子。そう考えることを彼女は「奇跡」と呼ぶ。会社員時代、会社を生き載らせるためにどうする、こうするなんてやってたことを思い出す。会社だって、死んだって構わねえと思わないわけではないが、関係者が多過ぎて自分の命のようには行かない。人が群れて作った社会ってやつは度し難い。

池田晶子の言葉「人生は終わらない」

 「絶望を生きる哲学」より引く: 人生は今回限りではない。人生はこれで終わりではない。この認識の厳しさこそが、善く苦しむための力なのだ。なぜなら、魂の完成形としての「神」もしくは「善」が明らかに見えている限り、人生が今回限りであるにせよ、それは徒労で終わったことにはならないからである。今回は今回で立派に完結するからである。 どうせ死んでしまうのに この半端な腹のくくり方が、いかに魂を堕落させることか。 >> 人生の醍醐味は苦しむことだ。その醍醐味を味わう覚悟がなければ生きない方がよい。 苦しみから逃げずに、正面から苦しむ。それが善く苦しむという事。善く苦しむことが「神」だ。 どうせ死ぬんだから、と逃げるんなら初めから生きるな。 人生は今回限りである。今回限りだから精一杯苦しむ。それが楽しむ・善く苦しむという事。それが生きるという事でそういう人生なら一回限りであるが、無駄ではない。意味がある者だ。 閑話休題: enjoyという言葉ががある。これは「楽しむ」と訳されるが、正しくは、上述の、醍醐味を味わうと言うことだろう。言い換えれば「酸いも甘いも嚙み分ける」ということ。 池田昌子は生まれることに意味や理由・目的はないと言う。そして生きるという事はほとんど苦しむということと同義だ。でも、だからといって無駄だとか空しいとか考えるな、それは逃げだ、と。逃げたり、ずるしたりせずに、正面から受け止めて、正しく(善く)苦しむこと、それが人生の目的で人生に意味を与えるんだと。

核廃絶か核抑止か

Yahoo知恵袋によると 神学論争とは「 長年議論はされているが,永久に結論が出ない議論のことを神学論争という。 神がいるのかいないのかについて,人類は長年議論を尽くし,もちろん結論はまだ出ていない。」だそうだ。 核抑止論じゃあ地球が滅ぶ可能性がある、核廃絶じゃあないと・・・と共産党の「お美しい」吉良よし子議員が石破首相に議論を吹っ掛ける。石破首相は「核が危ないのは分かってるけど、北朝鮮みたいに、核を持った危ない国もあるし、アメリカ様の核の傘から出ることはできない」という事をそうは言わずに遠回しに答える。 責任ある回答だろう。無責任な野党と責任感のある与党の神学論争だ。聞いていてイライラする。 ここは一番、無責任になって「じゃあ、どうすりゃあいいんだ。お前の言う通りにするから、どうしたらいいのか、言ってみろ」と答えたらどうか。 お美しい吉良様の答えが「アメリカに核廃絶を求め、同時にアメリカの核の傘から出ろ」と言うなら、素直かつ無責任に「じゃあ、アメリカに核廃絶を求め、拒否されるだろうから、日米安保条約をやめて、米軍に出て行ってもらいます。アメリカとの交渉及び米軍抜きの安全保障の構築を担当する大臣にあなたを指名します」としたらどうか??? これで共産党が政権を取ったのとほとんど同じ効果がある。

「より広いキャンバス」を未来に残そう オードリー・タン氏との対話

3月13日付け 朝日新聞デジタルに 僧侶・松本紹圭さん寄稿: (略)オードリーは、幼少期より心臓疾患の持病を抱え、明日の命が約束されない日々を12歳になるまで過ごしています。今日一日を終えるためには心拍数を一定に保つ必要があり、感情の起伏があってはならない。子どもの頃から、心身を安定した状態に保たなければいけないオードリーにとって、家系に受け継がれていた道教の教えは、思想・哲学である前に、今この瞬間を現実的に生き抜くための技であり、智慧(ちえ)でもあったと言います。  「毎晩眠りにつく時は、コインを投げるような心持ちでした。(中略)そうして、自分が消えて無くなる前に、世に出すようになったんです。その日の学びをテープに録音する、書き起こす、タイプする。そしてパブリックドメインのインターネットに公開する。そうしておけば、子孫にとっての『good enough(じゅうぶん)』な祖先になれる。たとえ翌朝、目が覚めなくても大丈夫です」   >>俺のこのブログも似たような動機で書いているのだ。

共産党、頑張って政権を取れ!

イメージ
朝日新聞デジタルに、ほのぼのとしたニュース。以下。    阿部俊子文部科学相は25日の閣議後記者会見で、前日の参院文教科学委員会で共産党の吉良佳子議員に「美しいお顔」と述べたことについて、「不適切な発言だった」と陳謝し、発言を撤回した。  吉良氏は24日の文科委で、教員の残業時間の試算方法について「(2022年の試算で)休憩時間を差し引いているのは不公平なやり方では」と質問。これに対し、阿部氏が「吉良委員が本当に美しいお顔で怒っているのも大変よくわかるのですが」と発言した。  阿部氏は25日の記者会見で「不適切な発言で、吉良議員をはじめ、多くの方々に不愉快な思いをさせてしまい心よりおわびする。自身を厳しく律するとともに、真摯(しんし)に国会審議に取り組む」と述べた。発言の意図を問われると「 意図は大きくなかった」 とした。  吉良氏は25日、X(ツイッター)で、阿部氏の発言にその場で抗議をしたことを明かしたうえで「容姿に関わることを国会の場で述べるなんて、ありえません」と投稿した。【斎藤文太郎、西本紗保美】 >>朝日新聞は相変わらず不党不偏だ。ファクトチェックして事実だけを伝える。「 意図は大きくなかった」 では何が何だか分からない。どうして発言のみを切り取って記事にするか?さらに突っ込んでこの、「意図は大きくなかった」という発言の意図を問うべきだ。(文科大臣の”小さい意図”は何だったんだろうか?知りたい)もしくは憶測だと明示して憶測を書くべきだ。 こういうのって国会中継で生で見れたら面白かっただろう。 お美しい吉良様。Wikiると以下のようなことを主張されているとか。是非日本の首相になっていただきたい。なお、吉良上野介との関係は触れられていない。彼女の口から、「日本なんて外国に攻められてやられたっていいじゃない!」というセリフが出るのを楽しみにしている。憲法9条を何十年も後生大事に抱えてるんだから、日本人は外国にやられちゃって(やられた方が)いい、と思っているに違いない。しかし、好戦的な共産党が、闘争に負けていいと思ってるのか???興味津々だ。憲法案が国会で論議された時。第9条に反対したのは共産党の野坂参三だったんだけど。 原発は日本に必要でないとしており [ 16 ] 、2015年3月8日に 国会議事堂 前で行われたNo Nukes Day 反原発⭐️統...

Great John, you are in the sky of music! Wait us!

 John ColtraneがLike Sonnyという曲を1961年に録音している。敬愛するSonny RollinsにちなんでColtraneが作った由。しかし、「どこがSonnyなの?」というくらい、中東風というかエスニックなメロディー。全然Sonnyらしいメロディーじゃない。ただし、演奏は非常に良い。Coltraneのsheets of sound満載だ。この頃のTraneは麻薬から足を洗って自信満々に吹きたいように吹いてる感じ。 ColtraneはSonnyのことをどう思っていたんだろう?Milesのクインテットにいた頃はMilesから「Sonnyみたいに演奏しろよ(Play like Sonny)」って言われてたらしい。俺にはそのことがトラウマとして残っていて、Milesのクインテットから独立したあとも自虐的なのか、懐かしく思い出してなのか、この曲を作ったように思える。 YouTubeでこれを聞いていたら、コメントにGreat John, you are in the sky of music! Wait us!という英文が。rossiという名前の投稿者。日本人じゃなさそう。イタリア系のカトリック教徒っぽい名前だが言ってることは実に日本人ぽい。「あなたは空にいる」って、日本人の発想。死んだTraneは空=天国にいる。日本人は「人は死んだら空(あるいは空の向こう)に行く」と思っているらしい。そしてWait usだ。「自分たちも死んだらそっちにいくからね」だって。夫を亡くした俺の母親が「自分もお父ちゃんの所に行く」と言っていたのを思い出す。 キリスト教も様々らしいが、一説では、信者なら死んだらパラダイスに行き、信者でない者はハデスに行く。(世界の終焉後、最後の審判で真の信者と認めれれれば新しく創造された世界でで神様と一緒に永遠に生き、信者と認められなければゲヘナという永遠の苦しみが続く地獄に落ちる、と。 日本人は最後の審判なんてややこしいものは待たない。空の向こうに行ったらおしまいだ。ただし、お盆の時など、神様として時々現世に戻ってくる。 閑話休題: Sonny RollinsとJohn Coltraneの共演盤、Tenor madnessもついでに聞いたが、あまり面白いとは感じなかった。 キリスト教も日本教と同じく、人は死んだら(最後の審判まで)ど...

1961年

 Wikipedia、1961年の出来事より抜粋。東西冷戦がピークを迎えた。翌1962年のキューバ危機も確かに大きいが、1961年は世界各地で様々なことが起こった。 1月  アイゼンハワー大統領退任演説で軍産共同体について警告 4月  ソ連が世界で初めて有人衛星成功  ピッグス湾事件(CIAに支援された亡命キューバ人によるキューバ侵攻)発生 5月  アメリカも有人衛星成功 6月  ケネディー、フルシチョフがウィーンで会談 8月  東ドイツがベルリンの壁を建設 10月  史上最大の威力と言われる水素爆弾ツアーリ・ボンバの実験が行われる  

滅亡後の満州

以下、Wikipediaより:  1945年8月18日、皇帝溥儀が退位を表明、満州帝国は滅亡したが、そもそも満州帝国なぞ、国際的には存在していなかった。国連が認めておらず、わずかな国が承認していただけだった。 つまり、満州は”中国”の一部のままであった。問題は、この”中国”の代表は蒋介石の国民党なのか、毛沢東の共産党なのかであったが、1949年まではっきりしなかった。 1945年8月14日、中ソ友好同盟条約*がソ連と国民党との間で締結され、この時点で国民党は米ソ両国の支援を受けることになった。一方共産党の人民解放軍は旧満州の兵器を接収して戦い、戦況は一進一退だった。 1947年、冷戦が激しくなってソ連は共産党支持に回り、アメリカは日本占領に重点を置くようになり、また農民の支持を得た共産党が優勢となって1949年、国民党は台湾に逃れる。1950年2月14日に中ソ友好同盟相互援助条約**が結ばれ、中ソ友好同盟条約は無効となる。 *中ソ友好同盟条約 では、 ソ連の旅順・大連の港の租借や旧満鉄管理への参画の見返りに3か月以内にソ連は撤収することになっており、 満洲は 蔣介石 率いる中華民国に移譲された。 (実際にソ連軍が撤退したのは 1946年5月・・・ 撤退までの間にソ連軍は旧満州国の 持ち出せそうな機械類を根こそぎ略奪して本国に持ち帰った。) ** 中ソ友好同盟相互援助条約により、中国はソ連のジェット戦闘機や原爆の技術を手に入れた。1953年のスターリンの死後、ソ連はスターリンへの批判・反動から平和路線に切り替わった。毛沢東はこれを批判し、中ソ対立が始まった。

新版 アメリカの鏡・日本 より

 「アメリカの鏡・日本」は、ヘレン・ミアーズという、ニューヨーク生まれの日本専門家の女性が1946年GHQ労働局諮問委員会に来日、その時の経験・情報をもとに1948年書き上げたもの。この本のことをマッカーサーがプロパガンダ、公共の安全を脅かすものと言ったので占領期間中は日本語版は出版できなかった。「東京裁判史観」に基づく「日本人が悪かった、間違っていた」という自虐的日本人論を覆す考えは保守系日本人からは聞かれるが、アメリカ人自身の中にも、「日本は欧米諸国の帝国主義の真似をして”先進国クラブ”の仲間に入れてもらおうとしたが、調子に乗り過ぎて叩かれた。その叩かれ方は人種差別に基づく残酷なものだった」とする意見があることを知ったのは新鮮であった。興味深い日本人論であり、またアメリカ人論である。 ①なぜ日本は韓国・ドイツのように分割占領されなかったのか?②なぜ1910年の韓国併合は許されたのに1931年の満州事変は許されなかったのか?について、筆者なりの見解が展開される。筆者によれば、これらは全て米英によって筋書き通りにコントロールされ、日ソは踊らされていた、というのが筆者の見解だ。 以下抜粋 1945年3月の東京爆撃以降、米軍は日本軍相手ではなく、主に一般市民を相手に戦争していた。ニューヨークタイムズの軍事専門記者、W.H.ローレンスは、1945年8月14日、グアム発の記事の中で3月9日の東京爆撃はわれわれの戦争の新局面であり、「大きな賭け」というべきものだ、と書いている。ローレンス記者は「ルメイ将軍は先例のない低空まで飛行機を送り込もうとしていた・・・これは危険な作戦であり、ドイツ相手なら自殺行為だ。アメリカ人の心情からしても、ギャンブルである。大都市を焼き払い、市民を殺戮するために全力を挙げるというのは、初めての事だからだ。」と作戦の危険性を指摘している。つまり、この一種の恐怖戦争に対してアメリカ世論が否定的反応を示すかもしれないところにギャンブル性がある、と見たのであった。軍指導部は、ドイツがチェコスロバキアのリディツェを破壊し、イタリアがスペインのゲルニカを破壊したときの私たちの強い反応を覚えているだろうから、それよりもっと恐ろしい政策を国民が支持するかどうか、確信がもてなかったのではないか。ところが、アメリカ国民は何の抗議もせずに、すんなり大爆撃を受け入...

本当に朝日新聞は日本で一番偉い!

3月21日付け朝日社説;   攻撃の一部停止で「歩み寄り」を演出してみせたが、侵攻終結への展望はまったく開けていない。 米国は欧州やウクライナとの協力を維持し、ロシアにより厳しい姿勢で停戦を迫るべきだ。  (略)  ウクライナの人々の犠牲が少しでも減るような実効性のある停戦を実現するには、これ以上ロシアのペースで交渉が進むことを阻止する必要がある。  指針となるのは、日米欧など主要7カ国の外相が14日に発表した共同声明だろう。  ロシアに停戦への合意と履行を求め、応じない場合にはさらなる制裁やウクライナへの追加支援が必要になるという共通認識が盛り込まれた。  日本も欧州と協力し、米国がこの指針から外れないよう働きかけを強めてほしい。 >>朝日の社説氏は偉い。 米国様に〇〇すべきだ、とご指示される。日本人の誰もトランプに指示なんてできないんだから、朝日社説氏は日本で一番偉い。石破さんがトランプに向かって指示なんかしたら、「無礼だ!」と言われるだろう。 日本も・・・働きかけを強めて欲しいとご希望を述べられる。 しかし、珍しく、社説氏は「ウクライナの味方、ロシアの敵」と、旗幟を鮮明にしている。その点素晴らしい。ただし、俺はロシアってそんなに悪いの?と思っていて旗幟鮮明でない。何がフェイクか全く分からない。トランプなら「ロシアは悪いというのはフェイクだ」と言うだろう。

Duke Ellington and his famous orchestra

 1940年前後の数年間、Duke Ellingtonは自分のバンドをfamous orchestraと呼んでいた。そして日本が必死こいて真珠湾を奇襲するのを尻目に、このfamous orchestraは数々の傑作を録音していた。日本が勝てる訳ゃあねえ。 しかし、ソロをとらせても一流のリード奏者たち・・・Harry Carney,Ben Webster,Johnny Hodges,Baney Bigard・・・をきら星のごとく並べ立て、これら達人たちを操って贅沢なハーモニーを醸し出させ、それをバックに華麗なソロが展開される・・・Ellingtonは確かにDukeと呼ばれるのにふさわしい偉大な男だった。

The best of Max Roach and Clifford Brown in concert を聞く

 1954年録音ライブ録音のこのアルバム、やはりClifford Brownが聞き物だ。トランぺットという楽器を、Miles Davisが苦しんで考え抜いて吹くのに対し、Brownは次々と頭に浮かんでくるメロディー、フレーズをそのまま吹く感じ。いわゆるモダンジャズの原メロディーを残さない激しいアドリブでなく、フェイク程度の演奏。その点、Louis Armstrongに近いものを感じる。天衣無縫とでも言うべきか。音楽は「音を楽しむと書く(それなのに日本人は・・・)」などと言われうが、Armstorng,Brownなんて本当に楽しくてたまらない、悦びに溢れてる感じ。 Brownは絶頂期の1956年、25歳で交通事故で死ぬ。絶頂期に夭折するというのも格好いい。芸のある人はいいネ。死んでも芸の記録は永遠に残り、70年後に改めて感心するヤツもいるんだから。

嗚呼、3年間

 昨日、未就職あるいは一回就職したが転職を希望する若者に就職先を斡旋・紹介する商売をしている人と話をする機会があった。「3年我慢できれば…」と言う。つまり、転職したって3年間はその会社の人間関係や仕事のやり方になじむのにかかる、3年以内で転職したって、する方もされる方も時間の無駄だと。 俺が就職した49年前、先輩から「石の上にも3年。3年間我慢しろ。その3年は会社から見てもお前を仕込む期間。3年の間に仕事を覚えて4年目から会社にお返しをしろ。」と言われたのと状況は全く変わっていない。 少なくとも過去50年間は日本の会社は新入社員の受け入れ体制を変えていない。つまり、何も知らない若者がいきなり入って来て仕事ができるようにはなっていない。だからと言って何も知らないまま就職させるのでなく、就職前の若者に会社員の仕事のやり方を仕込むわけでもない。だからコミュ力や忍耐力がない若者はどんどん落ちこぼれていくんだそうだ。(落ちこぼれの行き先は闇バイトか・・・) それでも会社が回る方が不思議だけれど、これが原因で潰れた会社というのも寡聞にして知らない。 俺は若者に3年以上勤め続けさせることを考えるよりは、3年以内で辞めることを前提とした若者教育・会社の体制を考えた方がいいように思う。 学校卒業後、会社に就職しようと言う若者には予備校に入れて1,2年間会社でのコミュニケーションや基本的な仕事のやり方を教える。この予備校の運営コスト(の一部)を会社で出し合ってもよい。会社側も人事の仕事なら人事の仕事、経理なら経理、塗装なら塗装、組み立てなら組み立て・・と専門技術別に各社共通のマニュアルを作り、講師も会社から出す。予備校の卒業生は基礎的な専門技術を身につけるとともに、いい技術とは何か、いい技術と評価される評価基準を知る。 予備校を卒業した若者が就職する。転職したければ人事の仕事、経理なら経理、塗装なら塗装、組み立てなら組み立てと、自分の専門の技術をもって転職する・・・ 会社は社員を「取り換え可能な部品」として扱い、社員が辞めたら予備校のルートもしくは他社から専門技術を有する部品の補充をすればよい。社員の方は①取り替えられないくらい高い評価を得ようと技術を磨く②いつ取り換えられてもいいように、1円でも高く売れるよう技術を磨く③もっと上の技術やハイ・キャリアを目指して自ら転職する・・...

90年前日本では鉄砲でテロをした。今はネットで炎上させることがテロだ。

 90年前日本では鉄砲でテロをした。今はネットで炎上させることがテロだ。90年前日本は鉄砲を使う人たちに乗っ取られた。戦後は(オールド)メディアを牛耳る者が日本を牛耳った。今度はネットを牛耳る人たち、インフルエンサーたちが日本を乗っ取るらしい。あんまりいい気はしない。 一番気になるのは日本人がネットで世界一になれるかどうかだ。鉄砲では世界一になれなかった。厳密に言えば、一年か二年なら世界で戦える鉄砲だったが、戦争が2年も3年も続くと鉄砲も弾も、そして撃つ人もいなくなった。ネット戦争で世界一になれるのなら、そしてアメリカから独立できるのなら、ネット民に日本を任せてもよい。

住友雅美;「売春」は「絶対にしてはいけないこと」なのか・・・

住友雅美さんは池田晶子さん亡き後、久しぶりに現れた美人(女の)哲人だ。現代ビジネス3月17日記載 記事より以下抜粋する。:  (略) まず、「尊厳(dignity)」という言葉をどう捉えるかが問題になる。dignityを英和辞典で調べると、「尊厳」という訳語と共に、「品位」、「威厳」などの訳語も出てくる。beneath one’s dignityという慣用句には「品位に相応しくない」という訳がつけられていることからみると、「尊厳」というわかりにくい言葉よりむしろ「品位」という言葉に置き換えた方がよいかもしれない。 そうすると「人間の尊厳」とは、(単なる動物とは違う)人間特有の品位という意味になるだろう。つまり人間が(単なる犬猫や家畜などから区別された)人間として認められるための品位ということである。 では、人間特有の「品位」の内容は何であろうか? おそらくさまざまな内容が列挙されるだろうが、明らかにすべての人々が了解することは、奴隷化されないこと、つまり自由を剝奪され、他人によって支配されたりモノ扱いされないこと、であろう。 そして続いては、この尊厳(品位)と人間との関係が問題になる。人間と尊厳とを繫ぐ「の」の意味をどう解釈するかである。解釈には少なくとも2通りある。 ひとつは人間の中に備わっている尊厳という意味、もうひとつは人間が尊厳を所有している状態、という意味である。 前者のように解釈すると、(1)尊厳という価値が独立的に存在しており、人間はそれの容れ物ということになる。後者であれば、(2)人間が尊厳をもって行動すること、となる。 「人間の尊厳」を(1)の意味で捉えるならば、人間は容れ物として、その内にある実質価値たる「尊厳(品位)」を守らなければならない義務をもつことになる。これは人間より価値の方を重視する見方であるということで「価値志向型尊厳観」と名付ける学者もいる。 (2)の意味で捉えるならば、人間が「尊厳(品位)」をもって、つまりつねに他人に介入されることなく自分の理性を自分で使い、自分の意思で思考し行動できなければならないということになる。これは人間が自分の主体性を行使することこそを最優先するため「主体性志向型尊厳観」と呼ばれもする。 この(1)と(2)の決定的な違いをわかりやすくするために、「自発的な売春は〈人間の尊厳〉に反することかどうか...

Steamin' with the Miles Davis Quintetを聞く

 今は亡き畏友から借りてダビングしたきり、一回も聞いていなかったアルバム。名作だという定評があるアルバムだから、へそ曲がりの俺としては素直に聞こうと言う気にならなかったのだ。また、「持っていれば聞かんでもいい」というコレクター心理というものもある。畏友その他から借りたレコードからのダビングやらラジオのジャズ番組の録音やら500本以上のカセットテープを、「死ぬまでに1回は聞こう」と順番に聞いていたら、50年以上ぶりにStemin'を聞くことに。 やはりいい。Miles Davisもさることながら、ピアノのRed Garlandがいい。もう1回聞く。さらにもう1回、となるとやはりYouTubeの方が便利だ。YouTubeで聞き直す。このGarlandのピアノをどう表現したらいいんだろう・・・ YouTubeで聞いてる間に加持顕さんという人の「ジャズに願いをのせて」というブログを読む。感心した。このアルバムを紹介したブログの冒頭部分、以下抜粋: マイルス・デイヴィス ( Miles Davis )率いる1950年代の黄金 クインテット は、プレステッジ(Prestige Records)との録音契約を履行するため、1956年の05月11日と10月26日の2回に分けたスタジオをライブ会場に見立てた長時間録音、通称「マ ラソン ・セッション」に挑みます。 2回の録音の間、「カフェ・ ボヘミア (Cafe Bohemia)」に長期出演して超満員の聴衆を沸かせ、またアルバム「'Round About Midnight (Columbia CL-949)」として発表される録音も平行して行われておりました。  つまり、この時期の マイルス・デイヴィス ( Miles Davis )は、ようやく商業的な成功を収め、自身が満足する収入を得て、心身ともに充実した生活を過ごせるようになった訳ですね。 >>Miles Davisの当時の様子が目に浮かぶような素晴らしい紹介。アルバムジャケットの写真ものせてあって至れり尽くせり。(ジャケットにはMilesがマッチを擦って煙草に火をつけてる写真が使われているが、こんな写真、今のご時世だったら絶対公衆の面前には出せない)そして何より感心したのは、Garlandのピアノを「玉を転がすよう」と表現し、また「幽玄」と表現したところ。確かに...

石破さんの10万円

 新入議員を呼んで話をさせてもらって、その礼(土産)に10万円の商品券を上げた石破さんが”炎上”している。 20年前に、親会社の社長が交代になり、新社長が子会社の人と話したい、と俺たちに召集をかけた。指定された場所で立食パーティーみたいのをやったが、会費を取られた。俺は頭にきた。別に土産をよこせとは言わないが、意見を聞くために集まってもらったのだから、集めた方が費用を負担するのが当たり前だ。それを会費を取るだと?・・・ と言った次第で、俺は石破さんがお礼だか土産を上げるくらいは礼儀だと思う。炎上は、ためにする炎上で、自民党内にも石破嫌いがいてリークしたということらしい、 でも、石破をやめさせて、誰に何をさせたいんだろう。石破おろしするまえに、石破に代わって誰に何させる?を考えるべきじゃアないか? 閑話休題: 財務省解体デモに対しても同じことを思う。財務省を解体する前に誰(どんな組織)に何をしてもらうのか考えるべきだろう。1960年の安保反対も、安保条約の中身より岸総理(のやり方)が気に喰わぬ、と言って熱が上がったと言う。財務省解体デモも財務省が何をやって来たのか、やっているのかなんて関係なさそうに見える。でも、そういった「お門違い」のデモが岸総理を退陣させたのも事実だ。

ラフカディオ・ハーン「神国日本」(1904年)

 ラフカディオ・ハーン「神国日本」(1904年)より抜粋: >>日本人のコミュニケーションに関する観察は面白い。言葉、会話の内容、挙措態度まで厳しく細かく規制する・・・日本人にとって人間関係が言論の自由なんかよりよっぽど大切なのだ。例えば自分の子供を何と言うか、相手によってさまざまに変える・・・英語を話す人にとってはなんと難しく、バカバカしいことだろうか・・・正しいかどうか、神様にどう思われるのかなんて日本人にとっては二の次。世間(今、目の前にいて直に話している人及び自分に影響力がありそうな人)にどう思われるのか?が大切なのだ。 礼儀作法に従うとは死者に支配されること・・・これは卓見。日本人は先祖(死者)を神とする。一方で日本人は先祖の親分である天皇を神と信じ「天皇陛下万歳」だったものが、ご利益なしとなれば「マッカーサー万歳」に変わる。憲法9条はまだ、ご利益ある神様なのだ。 以下抜粋: 人間の生活が、最も微細な点まで・・・履物から帽子の質、妻のヘアピンの値段、子供の人形の価格に至るまで・・・法的に規制されているところでは、言論の自由が認められていたとは到底考えられまい。それは存在しなかったのだ。そしてどの程度、言論が規制されていたかは、その話し言葉を研究した人のみが想像できよう。この社会の階級的構成は、言語の慣用的構造の中に・・・代名詞、名詞、動詞の配分の中に・・・接頭辞や接尾辞によって形容詞に加えられた序列の中に・・・忠実に反映された。衣服、食生活、生活の様式の規定が持ったと同じ仮借ない厳密さであらゆる言葉は禁止的にも強制的にも規制された。・・・ただし禁止的な場合よりも強制的な場合がはるかに多かった。何を言ってはならぬかの主張は少なかったが、無数の規制が言われるべきこと、すなわち選ぶべき単語、用いられるべき語句を厳しく規定していた。幼い時からの躾で、この点に関する注意が強要された。誰でも目上の人に話しかけるときは、特定の動詞、名詞、代名詞だけが認められており、同等もしくは目下の人間に話す場合には別の言葉が許されていることを、学ばなければならなかった。上流階級においては、この作法はほとんど想像できぬほどに複雑になった。語に文法的変化を加えて、それとなく話しかけられる相手を高めたり、また、話しかける側をつつましく卑下するやり方は、かなり古くから一般に行われてい...

パーシヴァル・ローエル 「極東の魂」より

 パーシヴァル・ローエル 「極東の魂」(1888年)より抜粋: >>ローエルと言う人は1855年、ボストンの大金持ちの家に生まれた学者。トランプ大統領の原型を見るような気がする。 ①日本(極東)人は自分で発明せず、盗む。元金がなくて金を借りて文明を作っているが、そんなずるいやり方はいずれ、 高価な代償を支払わせられるであろう。 >>日本は敗戦という高価な代償を支払わされた。今は全ての国に対する関税が代償だ。 ② 大抵の人間は、個人的利得に促されて初めて、努力しようという 意欲がわく。これを否定するのが共産主義であり、最後はニヒリズムに行きつく。>>個人的利得を追及する自由を最大限認めろ。民主党の社会福祉とか公平・多様性なんてのはこの自由の否定だ。 ③火薬を発明した中国人は花火として使った。西洋人はこれを人殺しに使った>>それが帝国主義を支えている。 ④ 西洋人の抑えがたい願いである、あの物事の理由を知りたいという望み >>東洋人は何故自分は生まれ、死ぬのか?の答えを求める。 ⑤ 自然は人間の付属品だ >>自然は人間によって征服され、コントロールされるものだ。 ⑥ 日本人が自然に触れるのは、 愛撫 するためであって傷つけるためではない。自然も彼の愛を、当然のことのように受け入れ、 妻としての服従をもって・・・ >>夫は妻を愛し、妻は夫に服従するものだ。 以上、アメリカ人による日本人論でもあり、また、アメリカ人によるアメリカ人論でもある。不思議なことに、女にも非白人にもトランプを支持する人がいる・・・ウソ臭い民主党よりはまし、ということか。日本人は、自然を傷つけないで愛撫してコントロールする・・・そこはそれなりに評価されているように思われる。 以下抜粋: 日本人は、自分の行動の記録を残し始める以前から、商品ではなく思想を輸入する民族であった。彼らは、いつも、最も進んだ自由貿易精神を発揮し、自分で真新しい概念を作り出そうとするよりは、他人の出来合いの品を選んだ。そして今も同じ行きかたを続けている。他人の物を心から賞味するというのが、いぜんとして彼らの最も魅力的な特性の一つである。受け取ったものを、彼らは丸ごと先祖伝来の木に接ぎ木し、その結果、最も不自然な変種を生じさせた。他人から借りたいという願いは、いささか過度に熱心な彼らほどでないにせよ、どの国民にもあるが、彼...

朝日新聞が万博を揶揄する記事を載せた。

以下、朝日の記事:  社会学者の大澤真幸(まさち)さん: 「気候変動問題に象徴されるように、我々が何もしなければ、人類はじりじりと破局へ向かっていきます。人工知能(AI)も大きな問題です。一つの国と同じくらいの力を持つ米国の巨大企業や権威主義国家の中国がAIを高度化させています。巨大な力をもつAIは国際的に民主的に管理することが必要です。万博はAIをコモンズ(共有財)にしていくための議論をする良い機会です」  「米国のトランプ大統領は『(資源を)掘って、掘って、掘りまくれ』といい、『性別は男女の二つのみとする』と言い放ちました。地球環境保護や性的少数者の権利の尊重は、人権や自由、平等、民主主義といった価値の延長線上にあります。これらは西欧が作ってきた近代的な価値観で、トランプ氏はそれを否定しようとしています。そしてトランプ氏のような指導者は他の国でも増えてきました」  「大げさに聞こえるかもしれませんが、世界は破局に向かっています。そんな世界的な危機の中で我々はのんきに万博をやろうとしている。この万博を『破局への抵抗』を訴える場にするべきです。世界で起きている破滅的な問題に対して、我々が立ち向かおうとしていることを示す場です」 >> トランプのような政治家が増えて世界は破局に向かっていると言うが、違う。元々人間は世界の事なんて真剣に考えはしない。まず自分の生活、子供の将来だろう。それが大丈夫となれば、次に世界の事を考える。それが子供の将来どころか、今の自分の生活も不安不満で一杯で絶望しているからトランプみたいのが出て来るのだ。どうすれば破局を回避できるか分からないから民衆は、ウソ臭くて無力な”リベラリズム”に見切りをつけて、トランプのようなウソ臭くても指導力がありそうに見える男に政治を託そうなどという、おかしな判断をするのだ。(大澤さんは、どうすれば世界を破局から救えるか分かっているんだろうか?抵抗だけしたって駄目だろう。) 哲学者で東京大准教授の斎藤幸平さん: 「2025年のいま、世界は気候変動や戦争、AI(人工知能)の急速な発達など、様々な問題や課題を抱えていますが、今回の万博がこうした大きな問題に向き合っているとは思えません。そういう大きなテーマへの言及はあっても、『お飾り』や『ウォッシュ(見せかけ)』になっているようにみえます」  「気候変動への対応...

半額より安い・・・

イメージ
 近所のスーパーで発見。 明治屋の栗の甘露煮。正月用に仕入れたのが売れ残って安売りしてるんだと思うが、定価1398円を半額以下の599円。 値引き率50%以上は人生初。別に必要じゃあないが、”記念に”買う。 スーパーって半額より安くしないと思ってきた。

朝日新聞社説を論難する

 3月12日朝日新聞社説に以下: (社説)核のない世界 逆行許さぬ対話つくせ (略) 核抑止論にはかねて数々の落とし穴が指摘されてきた。核保有国の指導者が理性的な判断から逸脱すれば成り立たない。ロシアは違法な侵略を止めさせない「道具」として核を利用した――などだ。(略) >>>核抑止論って、核兵器と言うすばらしく破壊力のある兵器を手に入れてしまった後からひねくり出した後付けの屁理屈ではないか? 単純に、核兵器を失いたくない、失ったら持ってる奴にやられる、というだけだろう。だから手放せない。一方で核廃絶なんて屁理屈をこねくり回すヤツがいる、「うるせえ、バカ野郎、それ以上騒ぐと核兵器お見舞いするぞ」と言いたかったが、それじゃあひどすぎると言うんでちょっと頭を使って、遠回しに、核抑止なんていう屁理屈を編み出して対抗したんだろう。 一旦世に出て、消え去ったものってあるのか? 山本夏彦さんは「一旦世に出たものはなくならない」と言った。 生れ出た瞬間は「すばらしい」と言われたものが、何年か経つとこんなものがなければ…と言われる。だが、なくならない。古くは金(カネ)、民主主義、ダイナマイト。プラスチック、インターネット、SNS、そのうちAI・・・「こんなもの要らねえ!だ」 それともう一つ、核兵器廃絶論の理解できないところは、それじゃあ、通常兵器はOKなの?という点だ。核に比べて時間はかかるが、通常兵器だって多くの人を残酷に殺す。通常兵器で殺されるのも、核で殺されるのも殺される方からすれば一緒ではないか?どうせ死ぬなら一瞬で死ねる核兵器の方が「人道的」ではないか? 更にもう一つ。核兵器廃絶に近い効果をもたらすのは、核兵器よりもっと効率よく徹底的に人を殺す新兵器の登場だ。兵器分野で何十年も核兵器に代わるものが発明されないなんて、兵器開発者の怠慢ではないか?新しい兵器が登場すれば、多分核廃絶運動は時代遅れになり、メディアは取り上げくなる。これまた夏彦さんの言葉で「マスコミが取り上げなければなかったのと一緒」