新版 アメリカの鏡・日本 より
「アメリカの鏡・日本」は、ヘレン・ミアーズという、ニューヨーク生まれの日本専門家の女性が1946年GHQ労働局諮問委員会に来日、その時の経験・情報をもとに1948年書き上げたもの。この本のことをマッカーサーがプロパガンダ、公共の安全を脅かすものと言ったので占領期間中は日本語版は出版できなかった。「東京裁判史観」に基づく「日本人が悪かった、間違っていた」という自虐的日本人論を覆す考えは保守系日本人からは聞かれるが、アメリカ人自身の中にも、「日本は欧米諸国の帝国主義の真似をして”先進国クラブ”の仲間に入れてもらおうとしたが、調子に乗り過ぎて叩かれた。その叩かれ方は人種差別に基づく残酷なものだった」とする意見があることを知ったのは新鮮であった。興味深い日本人論であり、またアメリカ人論である。
①なぜ日本は韓国・ドイツのように分割占領されなかったのか?②なぜ1910年の韓国併合は許されたのに1931年の満州事変は許されなかったのか?について、筆者なりの見解が展開される。筆者によれば、これらは全て米英によって筋書き通りにコントロールされ、日ソは踊らされていた、というのが筆者の見解だ。
以下抜粋
1945年3月の東京爆撃以降、米軍は日本軍相手ではなく、主に一般市民を相手に戦争していた。ニューヨークタイムズの軍事専門記者、W.H.ローレンスは、1945年8月14日、グアム発の記事の中で3月9日の東京爆撃はわれわれの戦争の新局面であり、「大きな賭け」というべきものだ、と書いている。ローレンス記者は「ルメイ将軍は先例のない低空まで飛行機を送り込もうとしていた・・・これは危険な作戦であり、ドイツ相手なら自殺行為だ。アメリカ人の心情からしても、ギャンブルである。大都市を焼き払い、市民を殺戮するために全力を挙げるというのは、初めての事だからだ。」と作戦の危険性を指摘している。つまり、この一種の恐怖戦争に対してアメリカ世論が否定的反応を示すかもしれないところにギャンブル性がある、と見たのであった。軍指導部は、ドイツがチェコスロバキアのリディツェを破壊し、イタリアがスペインのゲルニカを破壊したときの私たちの強い反応を覚えているだろうから、それよりもっと恐ろしい政策を国民が支持するかどうか、確信がもてなかったのではないか。ところが、アメリカ国民は何の抗議もせずに、すんなり大爆撃を受け入れた。
>>プロパガンダがうまかったのか、それとも人種差別か?
自ら溺死したり、圧倒的に優勢な敵に無益な攻撃をかけるという集団自決行為は、明らかにヒステリーと絶望の結果である。こうした集団自決の動機は、多くの場合、降伏したらどのような扱いを受けるかわからないという恐怖だった、と信じるに足る明白な証拠がある。日本のプロパガンダは、私たちと同じように敵である私たちの野蛮さを強調していた。アメリカ人を野蛮で残虐な人種として描くプロパガンダに対して、私たちが一人でも多くの日本人を殺すことで応えたことは極めて重要だ。一方、日本人は、自分たちを殺すことで応えたのだった。
1945年7月26日のポツダム宣言後、私たちはたった11日間待っただけでいきなり一発の原子爆弾を、戦艦の上でもない、軍隊の上でもない、軍事施設の上でもない、頑迷な軍指導者の上でもない、二つの都市の約20万人の上に投下した。
1945年2月7日のヤルタ会談における「最高秘密」合意で、ソ連は中国領内の一定領土及び財産を確保することを条件に、対日戦への参戦を約束した。ソ連としては、彼らが参戦して「合法的」に戦利品を要求できるまでは、日本に降伏して欲しくなかったのだろう。一方、私たちは、もし日本が即時無条件で降伏してしまったら、ソ連は参戦しようがしまいが、日本に侵入してくるとみていたから、日本がソ連に和平条約を提示することを望んでいなかった。そして、日本が無条件降伏をしない場合は、満州と朝鮮に駐留する関東軍をソ連に抑えさせようとし、同時に、ソ連が来る前に日本本土を占領しようとしていたのだ。もし、この分析が正しく、これ以外に事実を説明できる分析がなければ、私たちは日本の一般市民十数万を大量殺戮してでも、早急に結論を出そうとしていたということができる。もしこれに失敗したら、数十万の米兵を犠牲にしてでも、計画通り日本上陸作戦を敢行しようとしていた。私たちが日本人に対して使った原子爆弾は、日本に大して使ったのではない。なぜなら、日本はすでに完全に敗北していたからだ。原爆はソ連との政治戦争に使用されたと言える。
>>広島長崎に原爆が投下されたのが8月6日と9日。ソ連が満州・北方4島に侵入したのが8月9日。原爆投下があと1週間も遅かったらソ連は北海道に侵入し、北海道はソ連領になっていただろう。これを阻止すべく、アメリカは原爆をギリギリのタイミングで使った。筆者の言う通り、これはアメリカの「満州・北方4島はソ連に上げる。北海道を含む日本本土は上げない」という意図だった。俺は「朝鮮みたいに南北に分断されなくて幸運だった」と考えてきたが、すべてアメリカの企んだとおりだったのだ。その代わり日本は沖縄をアメリカに取られ、分断された。この沖縄分断は、これもアメリカのプロパガンダだろうが、日本人に”分断”と思わせない情報操作が行われたように思う。つまり、俺を含む多くの日本人は「日本政府が沖縄を捨ててアメリカに差し出した」と思い込まされているように感じる。
アメリカも戦争の後ろ盾に国民を統合するため、伝統を利用したが、とかくそれが忘られがちだ。私たちは、民主主義とキリスト教の名のもとに戦った。「天皇制」と神道が本来、戦争を内包しているのに対して、民主主義とキリスト教は本来、平和であると私たちは主張する。日本の学童が天皇の肖像に最敬礼をするのは、アメリカの学童が「国旗に忠誠を誓う」のと同じ国民的儀礼だが、私たちはそれを見ようとしない。(略)日本人が天皇を尊敬するのは、天皇が超自然的、超人間的存在であるからではない。長い歴史と伝統文化の表象としての制度を崇拝しているからである。日本の天皇は、アメリカの星条旗、あるいはアンクルサムのようなシンボルである。国家神道とは組織化された民族主義であり、教会と国家が民族文化、理想、「国益」の栄光のために、たがいに補完し合う体制であると言い換えることができる。この体制を、社会的病根であるとか、日本特有のものであるとかいって否定する前に、民主主義国家イギリスが数多くの国家的行事を荘厳に執り行う体制的教会を持っていることを考えてみる必要がある。国民の90%がカトリック信者であるイタリアが、ムッソリーニ主義を受け入れ、アビシニア爆撃を許したのは、いったいどういうことなのか、思い起こすのもいいだろう。アメリカでさえ、戦争中は多くの教会が祭壇の後ろに星条旗を掲げ、礼拝の中で国家を歌っていたのである。
>>日本人が特殊な宗教的伝統を持っていて神懸りの戦争好き、という考えをアメリカ人によって、キリスト教徒だって同じだぜ、と言ってもらうと嬉しくなる。ただし、明治政府が天皇を神に仕立て上げ、それを国家運営に利用したのは間違いない。
私たちは「満州事変」日本の汎アジア政策、共栄圏構想を非難してきた。しかし、日本は彼らの行動を、私たちのテキサスとパナマ運河地域の領有、モンロー主義、汎アメリカ連合と同じ言葉で説明した。私たちは「白人の帝国主義的支配から有色植民地住民を解放する」という日本人の「神聖なる使命」を偽善だときめつけた。しかし、西洋文明と西洋の政治をアジア、太平洋、南太平洋諸島、アフリカの原住民に及ぼすのが「白人の責務」ならば、日本の行動理念はそれに対する論理的かつ当然の答えである、と日本は主張していた。
もともと日本は食料分配の少ない国だった。しかも、稲を植えてから刈り取るまでには時間がかかる。広大な耕作地を持つアメリカと違って、秀吉には兵を解役して農民に戻すだけの土地がなかった。かといって抱え込んだ兵を養うだけの食料もない。そこで軍人政治家の常として、軍隊を海外に送り出そうと考えた。
日本人がキリスト教徒を迫害していたころ、西洋ではキリスト教徒がキリスト教徒を迫害している。
>>16世紀、フランシスコ・ザビエルのイエズス会はプロテスタントに対抗して作られた。つまり、西洋ではカトリックとプロテスタントの争い(カトリックによるプロテスタントの迫害)が起こり、危機感をもったイエズス会は海外布教を始めたが、日本で迫害された。
日本人は文明を発展させるにあたって、土地も富も少ない現実を受け入れて、集団化に慣れ、物がなくても耐え、もてるものを最大限に利用することによって現実に適応してきた。この耐乏経済は集約的農業と相互保全策を生み、それによって土地は肥沃に保たれ、島は手入れの行き届いた美しい庭園になった。そして収穫を左右する雨、太陽、嵐などの自然の力を和らげるために考えだされた農業呪術が、日常生活の重要かつ華やかな部分として定着したのだった。日本人は密集して生きることを受け入れ、小さな家に住み、物質欲を捨て、しきたりに順応し、家族、村、集団に従属することによって居住空間の狭さを乗り越えた。そして個人による自己主張の欠落を、親への孝心、先祖崇拝、儀礼の徹底した形式化によって、品位あるものに高めていった。豊かなアメリカでさえ、物不足のときには、配給制にしなければならないこと、製造業者を優遇しなければならない事、物は均等に配られなければならない事を覚悟していたのだ。そうしなければ強欲な人間が正当な分け前以上のものを握りしめて、社会は動かなくなるのだ。日本人は早くからこの教訓を身につけていた。彼らは一種の「管理社会」を発達させてきた。前近代の支配階層は、戦争機関をつくって海外に土地を取りに行くために、国民を抑圧したのではない。単に国内経済を順調に機能させるためだった。
>>土地が狭い→食糧生産に制限がある→自由より平等を優先させないと飢え死にする者が出て来る→どうしても土地が欲しければ海外に求めるしかない。狭い土地でたくさんの人を食わせようとすれば自然から与えられたものを争わないで分け合い、労働集約的な農業をやるようになる。農作業に手間暇かけ、かつ自然災害がなければ豊かな実りが期待できるから、自然災害が起きずに豊作となることを祈る事が重要な仕事=政治となり、祈る人のトップが天皇になった。
私たちは急いでいた。装飾や美的効果を考える余裕は、時間的にも精神的にもなかった。私たちが求めていたのは、物質的な快適さと便利さだった。日本人は急いでいなかった。彼らは物質的に貧しかったから、持っているものを飾ることを考えた。美は彼らの文明の大事な要素となった。私たちは自然を征服することを考えた。日本人は自然を敬い、たいせつにした。私たちは森林と土地に恵まれていたから、自然は挑戦相手だった。木とは土地を拓くために取り除くべきものだった。あるいは木材として紙として、やがては新繊維として活用すべきものだった。日本人は土地に恵まれていなかったから、もっているものを崇め保存し、自然崇拝を彼らの宗教、社会、政治の主要な柱とした。伝統神道の多くの神事は、肉体的満足の対象である食べ物と、精神的満足の対象である美をもたらしてくれる自然に感謝する儀式だった。私たちは土地があり過ぎたから、広大な地域を砂漠にしてしまうまで、保存の必要性を感じなかった。日本人はもっているものが少なかったから大切にした。2千年にわたって耕してきた今でも、彼らの土地は肥沃であり、森や田畑はさながら手入れの行き届いた菜園である。
>>日本人は自然に与えられたもので満足し、それ以上を求めない。そのためには自由より共生・平等だ。アメリカ人は自然に与えられたものでは不満で、それ以上を求め、自然に挑む。そのためには共生・平等より自由だ。俺のいた会社も、白砂青松、きれいな自然を破壊して無粋な工場をオッ立てた。重厚長大と呼ばれる産業は日本で行われるべきだったのか?日本ではなく、少々自然が荒らされても構わないくらい大きな土地を持つ大陸で行われれればいいのではないか?それでは貿易立国日本が成り立たない・・・俺は「日本はもっと人口を減らして鎖国して農業主体経済にすればいい」と思う。ただし、国防は丸裸に近いから、どこかに攻められたらやられるしかない。平和憲法に殉ずるのだ。
私たちが戦中戦後を通じて日本を非難する理由は、この中央集権的経済体制が「全体主義」的であり、「戦争願望」を作り出してきたと言うものであった。しかし、当時の欧米列強は、この発展を歓迎していたのだ。文明の後れた韓国と中国に西洋文明の恩恵をもたらす国、近代的秩序と規律を持つ国家が必要だった。だから日本の近代化が求められていたのだった。私たちは、日本が西洋文明の理想に反したことを非難している。しかし、日本が欧米社会に仲間入りさせられた歴史の事実を見るなら、日本が西洋の理想を学ばなかったなどとはとても言えない。欧米列強こそ、国際社会において自分たちの原則を守らなかったし、自分の国の中でさえ、原則を実践していなかったのだから、そういう非難がどこから出て来るのか、理解に苦しむ。いかなる国をもって西洋文明の正しい規範とするか、列強の間に何の合意もないことに日本はすぐ気づいた。欧米人はみんなキリスト教徒だと言っている。しかし、キリスト教徒には無数の宗派があり、しばしば他の宗派を許さず、それぞれがキリスト教の価値観を体現していると言い争っている。各国が違う政治体制をもっていて、自分こそ西洋文明の代表であると信じている。19世紀後半の日本がこの事実を理解できなかったのも無理はない。列強は自分たちが唱える原則と価値を、実際の行動でしばしば無視していたのだ。宗教上の、あるいは人権上の差別と、個人の尊厳や人間愛の教義が手を取り合って進んでいるのが西洋だ。
>>後れた国を進歩させてあげる・・・傲慢な進歩主義だ。俺はこれを憎む。一方で進歩主義の反動で、トランプはこれをフェイクと言い、「後れた国がアメリカを食い物にしている」と言う。
アメリカの歴史は正しく差別と愛が繰り返し現れる歴史だ。インディアンの虐殺、奴隷制・・・これらが正しくてアメリカ人(白人)の夢を実現するものとされ、その後、否定された。日本に対する占領方針も空想に近い理想論から冷戦の現実を踏まえた再軍備論まで振れた。
アメリカのモンロードクトリンは、ヨーロッパに対して南アメリカを植民地に組み入れてはならないという警告だった。私たちは北米大陸に十分開発できる領土を持っているにもかかわらず、南アメリカと私たちの間には、歴史的、文化的つながりは何もなく、私たちの領土から遠く離れているにも関わらず、ヨーロッパ諸国が南アメリカに植民地を持つこと、あるいは勢力圏をもつことさえ、アメリカの主権を脅かすものであると宣言したのだ。さらに私たちは1900年の「門戸開放」政策で、中国に対しても同じ姿勢を打ち出した。このような政策がアメリカにとって重要なら、日本にとってはもっと重要だった。イギリスは自分たちの合法的領分と見なす地域に、拡張主義のロシアが入ってくるのを防ぐために、同盟相手を変えながら、さまざまな手段を駆使して戦っていた。1854年、アメリカが他に先がけて日本を国際潮流に引き入れることができたのは、イギリスとフランスがロシアの地中海進出を阻止するために、クリミア戦争でトルコを支援するのに忙殺されていたからだ。(地中海に出るのを阻止されたロシアは中国に出た。これに対してイギリスは極東で日本をロシアに対抗させるべく、日英同盟を結んだ。)1921年にアメリカの圧力で解消されるまで、日英同盟がイギリスの極東政策の基礎となった。また日本を小「大国」として台頭させた大きな力はこの同盟だった。
(韓国に対して)日本はペリーのように辛抱強く、丁重で、執拗だった。鹿児島や長州のような事件が起きた。日本は国際法を順守させるために砲艦を派遣した。1876年、日本は韓国を「説得」して数か所の港を開かせた。そして、日本人は治外法権に守られて定住し、交易できるようになった。欧米諸国は反対するどころか、むしろこれに乗じ、若い生徒に続いて自分たちも特権を得た。1882年までにアメリカ、イギリス、イタリア、ロシア、フランスが韓国に代表部を開いた。欧米の進出が日本に革命的状況をもたらしたように、韓国にも革命的状況が作り出された。欧米列強が日本の親欧米派を支援したように、日本も韓国の親日派を支援した。イギリスは日本の韓国での行動を、注意深くかつ好意的に見守っていた。ロシアはすでにウラジオストックに根を下ろし、中国から満州横断鉄道の建設権を得ていた。1884年、韓国国王はロシアに軍隊の養成を依頼し、その見返りにポート・ラザレフ(永興湾)を海軍基地、石炭補給基地として提供しようとした。これは日本、中国、イギリスを怒らせた。日本と中国の抗議で韓国の申し出は実現しなかったが、イギリスは念を入れて、朝鮮半島の先端に近いポートハミルトン(巨文島)を占領し2年間そこにとどまった。韓国は中国の「属国」だから、中国に圧力をかけて譲歩を引き出すことができた国が、韓国での特別待遇を得られる。この状況では日英の利害は完全に一致していた。日英両国はイギリスが5年後に治外法権を放棄することを取り決めた青木・キンバリー条約に調印し、日本はその直後に韓国の「独立」を勝ち取るためと称して中国に宣戦布告した。西洋列強は喝采し、日本における彼らの「特権」を相次いで放棄した。そして日本を対等の主権国家として承認した。日本は韓国に自由を贈り、韓国国王は中国皇帝、日本国天皇と肩を並べる皇帝の地位を得た。日本は台湾を手に入れ、西洋の合弁会社が高利で中国に貸した倍書金で金本位制についた。日本は遼東半島で大きな租借地を得ることになったが、ロシアが強く反発した。数年後、フランスとドイツに後押しされたロシアは中国との条約によってこの地域を領有した。
外国勢力の進出で、中国は混乱状態に陥った。義和団事件が起き、欧米列強と日本の連合軍に徹底的に鎮圧された。いまや独立国になった日本はイギリスの完全なるパートナーとして、西洋文明のために非文明の中国と戦って立派な仕事をしていた。英露二つの超大国はいたるところに権益を持っていたから、中国における彼らの行動はケーキ用のあわだてクリーム程度のものだったが、日本にとっては中国は生きるためのパンでありバターだった。日本にとって幸運だったのは、ロシアを押し返すという点で、イギリスt利害が一致していたことである。日清戦争後に締結された日英同盟は、やがて日本とロシアが戦うことを想定して、日本強化のために結ばれたものである。1904年、日本はロシアに宣戦布告し、再び「韓国の独立」のために戦うことになる。日露戦争は日本を「世界国家」に変えた。この戦争では日本は旅順港を含む遼東半島のロシア領有内、ロシアの南満州鉄道、樺太の南半分を獲得し、アジア大陸に橋頭保を築いた。ロシアが大陸に持っていた諸権利の譲渡に関しては、もちろん条約に基づいて中国の同意を得ていた。若い同盟国にこういう問題は「法的に」処理しなければならないと教えたのはイギリスである。中国との間で締結された諸条約がその後日本が満州に対して出す諸要求の法的根拠になっていった。セオドア・ルーズベルト大統領はロシアを説き、ニューハンプシャー州ポーツマスで日本と交渉する労を取った。ルーズベルト大統領は、日本が勝っている段階で、しかも日本の不充分な戦備が底をつく前に戦争を終わらせようとしたのだ。日露戦争後、アメリカは「事実の論理(Logic of events)」を認め、韓国から代表を引き上げた。韓国皇帝はセオドアルーズベルト大統領に訴えたが、大統領は韓国は「自主統治にも自衛にも全く無能力であることがはっきりした」として介入を拒否した。
>>筆者によれば、日本の日露戦争勝利~韓国併合は米英の演出だった。しかし、「無能な国は植民地になって教育してもらえ」って傲慢としか言いようがない。敗戦後、日本は一転無能なばかりか危険とされてアメリカに占領していただき、教育していただいた。しかし、それもベトナム戦争以降、ロシア、中国、中東・・・と失敗続きだ。それでトランプが「もうよその国を教育するなんてやめようぜ」と言いだした。トランプより前の大統領は「俺は賢いだろう。俺の言うことを聞け」と傲慢だった。トランプは「俺は強い。俺の言うことを聞け」と傲慢だ。
公式記録を見る限り、なぜ日本が「韓国国民を奴隷にした」として非難されるのか理解できない。もし、奴隷にしたのなら、イギリスは共犯であり、アメリカは少なくとも従犯である。日本の韓国での行動は全て、イギリスの同盟国として「合法的に」行われたことだ。その法は日本が作ったものではない。欧米列強、主にイギリスが作った法なのだ。日本は韓国の「独立」という実にもっともな動機から、中国そしてロシアと戦った。第二次世界大戦後の日本は自分たちは何のために戦ったか忘れてしまったかもしれないが、日本はとにかく当時の国際慣行を律儀に守り、それに促されて行動したのだ。日本外務省が韓国の「対外関係と対外関係」を「管理統括」し、日本人の総督が韓国の首都で行政権限を与えられていたのはすべて、韓国政府と締結した条約にもとづくものである。1907年、韓国皇帝はハーグの第2回万国平和会議に抗議しようとしたが、皇帝の特使は発言の機会を与えられなかった。そして皇帝は退位に追い込まれた。1910年日本が韓国を併合したのは、新皇帝が「請願」したからだった。パールハーバー以前は、日韓関係について語る歴史家は日本は欧米列強から教わった国際関係の規則を実に細かいところまで几帳面に守っていたと言って褒めるのだ。日韓相互防衛のため、自国を併合して欲しいと要請した韓国皇帝の「請願」は侵略を糊塗するための法的擬制(リーガル・フィクション)であることは明らかだ。しかしその当時のイギリスとアメリカは「奴隷化」も擬制も認めていた。なぜなら、その頃の日本は力の均衡地域で極東の「安定」を維持する「安全な」同盟国だったからだ。軍事同盟によってイギリスに縛り付けられた小国日本は、イギリスの安全保障体制の「番犬」の役割を演じていた。韓国は戦力的に重要だが軍事的に脆弱だから、力のある国が管理する。それが大国の論理だった。ただイギリスもロシアも相手に管理させたくなかったのだ。イギリスにとっては、中国の方が大事だった。そうでなくても、多くの国に「コミット」を持っていた。アメリカも抱えられる限りのコミットメントをもっていた。だから、イギリスにもアメリカにも、韓国の「指導」をひきうける考えはなかったのだ。こうした情勢のもとでは日本の存在はありがたかった。イギリスは、もし韓国が「安定化」も「近代化」もされず、他国の「保護」もなく放置されていたら、必ずロシアが入って来て華北のイギリスの権益をじかに脅かすだろう、と考えた。当時日本は投入できる資本をほとんど持っていなかったから中国における経済闘争の手ごわい相手になるとは考えられなかった。日本は天然資源をもたない島国だから経済封鎖にもろい。資源的に脆弱な日本はイギリスとの軍事同盟に意のままにされる操り人形だった。1921年ワシントン会議で日英同盟が解消されたのちも、海外の物資供給源と市場に大幅依存しなければならない日本は国家と言うより単なるチェスの駒だった。1931年の満州事変で初めて日本は西洋の先生であるイギリスの事前同意を得ないで打って出た。満州事変ではアメリカと国際連盟から非難された。第一次世界大戦後、列強は主権国家間の紛争解決の手段としての戦争を原則として否定することを宣言していた。また、中国に権益を持つ9か国(アメリカと日本が含まれているが、ロシアは含まれていない)は「中華民国」の「領土保全」を尊重する条約をかわしていた。日本に対する非難は、こうした事実を「法的」根拠にしていたが、「中華民国」は名前だけの主権国家に過ぎなかった。9か国条約の締結国自身が中国の「領土保全」を尊重していなかった。すなわち、条約当事国ほとんどが中国の大都市に大租界をもち、軍隊を駐留させ、中国の河川に自国の砲艦を遊弋(ゆうよく)させていた。彼らは治外法権と特権を主張し、中国の「領土保全」は全く無視していたのだ。9か国条約は状況変化の「論理」に従って変更し調整できる法的擬制(韓国皇帝の請願と同じ)であると、日本は考えていた。しかも、国際連盟は満州事変を非難したけれども、植民地体制そのものは何ら非難していない。国際連盟の加盟大国は依然、アジアに覇権をもち、中国での勢力圏を支配している。日本から見れば、欧米諸国は中国の「領土保全」を真剣に考えようとしているのでなく、それまで日本の勢力圏として認めていた地域に西洋の支配権を広げようとしているから、日本を非難しているに過ぎない。今日、私たちが日本を非難しているのは、日本が「国際的誓約(コミットメント)」を破ったからである。しかし、最初の教育で日本が学んだときは、列強が極東で実践している国際ルールは、力のあるものにはフレキシブルだったはずだった。ルールは大国の利益に役立つ限り「合法」とされた。大国は自分たちの利権に必要であると思えば必ず「事実の論理的帰結として」ルールを変えた。日本が学んだのは、大国として認められたいならルールを適用される側ではなくてルールを作る側にまわれ、ということだった。日本はまた、「後れた」国でも運よく本物の大国と同盟できれば、名誉ある大国の地位を得ることができる、ことを学んだ。欧米列強は「平等」を口にする。しかし実際には人種差別を行い、人権と力と「条約上の権利」を盾に特権を要求している。彼らは「自由競争」と「自由経済」を口にする。しかし、彼らは後進地域で独占を強め、経済的圧力あるいは武力で高価な権益を獲得し、特権として関税(自国だけでなく支配地域の関税も)管理している。彼らは「主権上の平等」という言葉を使う。しかし彼らは現地政府を経済的圧力と武力で動かし、自国の法律に守られて居住している。国際関係のルールとは、実は、暴力と貪欲を合法化したようなものだ。基本原則の中で大国がきちんと守っているのは唯一、各国の政策立案グループが設定した「国益」だけではないのか。日本人が学んだのは、そういうことだった。以後、日本はそれをしっかり実践していく。
欧米列強は韓国問題では日本を無罪とし、満州事変では有罪とした。しかし、侵略行為で有罪としたのではない。国際連盟もアメリカも日本が満州を侵略したという非難はしていないのだ。日本は国際条約を破り、条約当事国の満州における権利を侵したから有罪なのである。それだけでなく、中国も日本と並んで有罪とされた。しかし、中国に言わせると日本と中国を非難している欧米列強も日本と同じくらい罪が重いのだ。
日露戦争まではロシアがイギリスと並ぶ勢力だった。1904年から5年にかけて日本はロシアと戦ってその勢力拡大を食い止めてくれた。そして、日本は活動の場を朝鮮半島と満州に限定していたからイギリスをはじめとする西洋列強は中国本土でほしいままに振舞うことができた。しかし第一次世界大戦で力の均衡が崩れた。敗戦国ドイツがもっていた山東省を獲得しようとする日本の試みはアメリカに妨げられたが日本は大戦を利用して強引に中国での権益を求めていった。それ以上に極東の「安定」を揺さぶったのは、共産主義革命という形を取って再び出現したロシアである。中国に権益を持ち、アジアとその周辺地域に植民地をもつ大国にとって、共産主義ソ連は帝政ロシアよりずっと危険な対抗勢力だった。ツアーのロシアは「合法的に」ゲームをしていたが、ソ連は「帝国主義」を否定し、帝政ロシア時代の「不平等条約」を認めず、西洋列強が特権を享受しているシステムの基礎そのものを直撃してきたのである。加えて、ソ連の既存体制否定と革命的スローガンが、中国の革命的大衆に火をつけた。彼らにとっては共産主義は、地方の軍閥権力の圧政と西洋列強の支配から自らを解放する理想の象徴だった。ソ連は欧米諸国が帝国主義の直接手段で獲得した以上の影響力を革命的スローガンによって獲得するのではないか、と警戒された。
日本の説明では満州の独立運動は長い時間をかけてはぐくまれ、現地住民が自発的に張の悪政からの独立を宣言できるところまで熟成していたのだ。事件はそのきっかけを作ったに過ぎない。満州国民は若い張と彼の軍隊がもどってくるのを望んでいない。満州国における日本の役割は「共産主義の脅威」と軍閥の悪政から国民を守り、近代国家への発展を助けることなのだ・・・。日本がリットン報国にびっくりしたのは当然である。報告は日本の誇りを傷つけただけでなく、アジアの大国としての地位を根底から脅かすものであった。日本は五大国の高い席から、アジアの後進民族と同じ地位に引きずりおろされたのである。日本人はこうした非難は日本の行動に対してではなく人種に向けられたものだという結論に行きつく。中国人もリットン報国を子細に読めば同じ結論に達しただろう。
今日の私たちがパールハーバー以前の満州国と何ら変わらないフィリピンの状態を民主主義国による素晴らしい「解放」として歓迎していることも事実だ。(1947年3月19日、フィリピンのマヌエル・ロハス大統領は上院に対して「世界のこの地域における米比両国の相互防衛と平和維持のための必要措置」としてアメリカに基地を提供する条約の批准を要請し、条約は批准された。また米国市民に通商特権を保障するためにフィリピン憲法が修正された。1947年のフィリピンの予算案ではフィリピン陸軍に1億ドルがあてられた。
日本が連盟を脱退した理由と米国議会が最初の段階で連盟加盟を否認した理由は同じである。つまりいかなる主権国家も自国の「存亡にかかわる利益」が危険にさらされていると判断し、それを防ぐために武力を行使するときを自ら決める権利をもたねばならない、というものである。
満州は未開発地域だった。満州が開発されなかったのは、日本とロシアが他の諸国の満州経営を難しくしていたからだが、それだけはない。満州の状況があまりにも不安定だったために、すでに他の地域で十分事足りている各国には魅力がなかったのだ。アメリカは自国から遠く離れたところで物を売ったり、資源を開発する権利を主張している。そして、自分たちの権益擁護のために必要とあれば武力まで行使しているのに、日本が混迷の未開発隣接地で同じことをしようとすれば何で邪魔立てするのか、日本には理解できなかった。
日本から見れば、アメリカが持っている基礎資源と原料物資の豊かさこそが、不公正競争をもたらしているものだが、アメリカ人はそんな見方がああることさえ知らない。アメリカは大きな利点を持っていながら、場合によっては輸送コストを補助したり、農家を保護している。アメリカは日本より多くの対外投資資本をもっていたし、資本力があったから、日本がつかめない投資機会をつかむこともできた。それでけでなく、アメリカは日本の競争力を「脅威」とすることによって、日本を差別している。アメリカが恐れているのは、どうやら日本の競争力らしい。日本に対する見方が誇張されているのは、そのためだ。
私たちは日本の工場労働者に向かって、あなた方は会社に搾取されているといい、労働組合を作ってもっといい給料を勝ち取りなさい、と教えてきた。私たちはそれが民主主義の姿であるという。日本人労働者は経営者に勝てるだろうが生活はさらに悪くなっていくことは確かである。労働者は価値が亡くなったお札を食べるわけにはいかない。今日の3千円の月給では戦前の30円のものを買うこともできないのだ。現在私たちは日本で民主主義と懲罰の二つの言葉を同じ意味で使っている。私たちは日本人に第五の自由、すなわち飢える自由を与えた。私たちがそれを民主主義と呼べば民主主義なのだ。しかし現実にはインフレ、失業、アメリカの施しを受けながらの半飢餓を意味しているような民主主義には日本人が感激しているとは思えないのである。
国際連盟とアメリカが満州国を承認しなかったのは事実だが、抗議はほんの形式に過ぎなかった。日本との外交関係あるいは通商関係を断絶した国はない。どこの国も満州から自国民を引き上げなかったし、投資も貿易もそのまま続けさせていた。むしろ、事変後数年間は対満州貿易が増えている。満州事変が日華事変へと進展し、やがてパールハーバーとシンガポールで火が吹くのを助けたのは、民主主義諸国からの物資だった。1931年から1932年にかけて、日本の立場はきわめてもろかった。近代軍事力に必要な資源を持たない島国の日本は、アメリカ、イギリス、オランダ、フランスが支配している市場と物資に、軍需物資だけでなく、生活必需品も依存していた。1941年にようやくイギリス、オランダ、アメリカは対日貿易の断絶に踏み切ったが、もし1931年か1932年の時点でそうしていたら、日本は立ち往生していたはずだ。
>>21世紀のウクライナ戦争における各国の対ロシア制裁も全く同じ。日本はロシアから相変わらずガスを買っているし、大使も引揚げない。対日制裁もなぜ、10年も実行されなかったのか?逆に言えば1931年に実行されなかった対日貿易断絶が、なぜ、何をトリガーに1941年に行われたのか?
琉球はわれわれの当然の境界線である、とマッカーサー最高司令官は語った。さらに、沖縄人は日本人ではなく、日本は戦争放棄を誓ったのだから、合衆国が沖縄を領有することに反対する日本人はいないだろう、と述べた。
一連の「事変・事件」で日本を裁く民主主義諸国の「法的」立場は、国家間の紛争と不平等問題は平和的手段で解決すべきであり、解決できるということを前提にしている。しかし、事実は、この前提を確認してくれない。たとえば、アメリカもイギリスも対中国関係では自分たちの特権的地位を話し合いで放棄しようとはしなかった。彼らの将来構想はともかくとして米英両国とも日本が武力で獲得した租借地と外国資産を中国政府に引き渡すまで、治外法権、租借地を返上しなかったのである。私たちの現在の韓国政策は実は日本軍国主義を免罪しているのだ。アメリカの「安全保障」のために秩序を維持し、ソ連を抑え込み、「共産主義の脅威と戦う」ために韓国に軍隊を駐留させる必要があるなら、日本が韓国だけでなく、中国と満州に軍隊を駐留させることの方が重要だった。私たちは自分たちの行為なら犯罪と思わないことで日本を有罪にしている。これは正義ではない。明らかにリンチだ。
日本にとって朝鮮の「独立」という言葉が持つ意味、満州事変で「解放」という言葉が持つ意味、そして今日その言葉が全ての大国に対して持つと思われる意味は、いずれも現実には同じである。すなわち、「独立」とは「解放」勢力としての大国、あるいは時の連合国以外のからの独立なのである。「解放された」朝鮮は二つに引き裂かれた。そしてアメリカとソ連が若い国を「指導」し、「発展」させる主導権を巡って争っている。「解放された」台湾は台湾人民の意思を測る何らの試みもなされないまま、内戦で二つに割れた一方の勢力に引き渡された。この「解放」方式の結果はかんばしくない。「解放された」台湾人民が日本の「奴隷化」時代にノスタルジアを覚えるかもしれないのだ。アメリカとソ連が「解放した」インドシナとインドネシアの人々は「平和愛好」民主主義国のフランスとオランダによって、再び奴隷状態に置かれようとしている。そして、現地住民に対する残酷な扱いは、私たちが日本人だけの特徴と言ってきたものだ。
アメリカの国務省あるいは陸・海両軍に日本から「解放した」どの島においても、現地住民の意思を問う住民投票の計画がなかったことは注目に値する。国民の間にも住民投票をすべきだと言う意見はなかった。アメリカは国連を通して「合法的」に太平洋諸島の支配権を得た。それも、「どっちみち、いただく」方式で取得したのだ。とにかく、「平和愛好」諸国の機関には「原住民」代表がいないのである。米国政府は「平和愛好的」民主主義国のフランスとオランダの「暴力と貪欲」を批判していない。「解放された」植民地住民を保護し、再開放するために軍隊を送っていない。これも注目しべきことだ。「平和愛好」民主主義の国イギリスも、彼らの同盟国、あるいは彼ら自身の「暴力と貪欲」を見ようとしない。イギリスはどこであれ自分たちの植民地にしがみつき、放棄を迫られれば、時間を稼いでいる。ソ連は樺太、千島列島、満州を平然と占領し、すべての大国と同じように国家利益を主張している。極東における「暴力と貪欲」は日本の罪を問う時だけあからさまになる。民主主義諸国が「凶暴で貪欲な」ときは「後れた地域に秩序と文明」をもたらそうとしているか、「共産主義の脅威」を排除しようとしいるときなのである。
米英両国は「独立」国家としての満州国の実現を正式に認めなかった。そして満州は中国の「合法的」一部であると言ってきた。イギリスとアメリカが満州の鉄道をソ連に引き渡した事実は、中国に関する限り状況をこれまで以上に「違法」なものにしてしまうのだ。この問題では米英両国の外交政策担当者は自らのルール通りに行動しようとさえしていない。中国からみる在満鉄道移譲の「合法性」とは弱い同盟国(中国)が強い同盟国(米英)の圧力でもう一つの強い同盟国(ソ連)のために要求を下ろす正式手続きのことである。
ヤルタ会談の時点では、ソ連は日本と戦争していなかった。そればかりでなく、日本との間で不可侵条約を結んでいたのだ。イギリスとアメリカは具体的条件を出してソ連が特定の期日をもって不可侵条約を破棄するお膳立てをしたのだが、両国代表はそれを「違法」とは考えていないのだ。その結果として、アメリカは8月6日原爆を投下し、ソ連は8月8日宣戦を布告、翌9日参戦した。ソ連はこれによって英米両国政府から日本の領土と財産、満州つまり中国の財産を贈られた。イタリアがフランスに対して全く同じことをしたときは、両国から「裏切り行為」として激しく非難された。ソ連はたまたまいいとき(強大国が敵との戦いで味方を探している時)に、いい国(強大国)として友邦(つまり、いい国の側に立って戦うこと)になっただけのことなのだ。ヤルタ会談は、パワーポリティックスの実習としては画期的なものである。歴史はそれ自体では繰り返さないかもしれない。しかしいかにも繰り返しているように見せる。そして満州の歴史は何度でも繰り返すシナリオを提供してくれる。
第一次世界大戦が終わったとき、アメリカは中国本土の外国資産を同盟国である日本に移譲することに反対した。しかし、ヤルタではソ連のために権利移譲に同意しただけでなく中国に圧力をかける労まで取った。日本は、アメリかの対中国政策は中国の権利を考えたものでなく、日本には西洋と肩を並ばせまいとする考えに立つものだ、と言ってきた。ヤルタ協定で日本の見方は、はっきりとその重みを増した。
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