パーシヴァル・ローエル 「極東の魂」より

 パーシヴァル・ローエル 「極東の魂」(1888年)より抜粋:

>>ローエルと言う人は1855年、ボストンの大金持ちの家に生まれた学者。トランプ大統領の原型を見るような気がする。

①日本(極東)人は自分で発明せず、盗む。元金がなくて金を借りて文明を作っているが、そんなずるいやり方はいずれ、高価な代償を支払わせられるであろう。>>日本は敗戦という高価な代償を支払わされた。今は全ての国に対する関税が代償だ。

大抵の人間は、個人的利得に促されて初めて、努力しようという意欲がわく。これを否定するのが共産主義であり、最後はニヒリズムに行きつく。>>個人的利得を追及する自由を最大限認めろ。民主党の社会福祉とか公平・多様性なんてのはこの自由の否定だ。

③火薬を発明した中国人は花火として使った。西洋人はこれを人殺しに使った>>それが帝国主義を支えている。

西洋人の抑えがたい願いである、あの物事の理由を知りたいという望み>>東洋人は何故自分は生まれ、死ぬのか?の答えを求める。

自然は人間の付属品だ>>自然は人間によって征服され、コントロールされるものだ。

日本人が自然に触れるのは、愛撫するためであって傷つけるためではない。自然も彼の愛を、当然のことのように受け入れ、妻としての服従をもって・・・>>夫は妻を愛し、妻は夫に服従するものだ。

以上、アメリカ人による日本人論でもあり、また、アメリカ人によるアメリカ人論でもある。不思議なことに、女にも非白人にもトランプを支持する人がいる・・・ウソ臭い民主党よりはまし、ということか。日本人は、自然を傷つけないで愛撫してコントロールする・・・そこはそれなりに評価されているように思われる。


以下抜粋:

日本人は、自分の行動の記録を残し始める以前から、商品ではなく思想を輸入する民族であった。彼らは、いつも、最も進んだ自由貿易精神を発揮し、自分で真新しい概念を作り出そうとするよりは、他人の出来合いの品を選んだ。そして今も同じ行きかたを続けている。他人の物を心から賞味するというのが、いぜんとして彼らの最も魅力的な特性の一つである。受け取ったものを、彼らは丸ごと先祖伝来の木に接ぎ木し、その結果、最も不自然な変種を生じさせた。他人から借りたいという願いは、いささか過度に熱心な彼らほどでないにせよ、どの国民にもあるが、彼らが特殊なゆえんは、取得したものを決して同化しなかった点にある。彼らはそれを、すでに存在している幹に接ぎ木したに過ぎない。それはそこにとどまり、かの日本土着の樹液である「好み(テイスト)」によって養われて、葉を茂らせ、花を咲かせた。しかし、一般に接ぎ木がそうであるように、外来の枝は、新しい生命の血によって改変されなかったし、木がその枝によって変化を蒙ることはなかった。切り離し可能な部品として繋がているだけで、たとえ接ぎ木をふたたび切り取ってしまったとしても、養父としての茎の有様が、目に見える影響を受けることはなかったであろう。接ぎ木はやがて大きな枝に成長したが、幹は相変わらず、若木の状態のままであった。換言すれば、成人しても、幼年時代の精神状態を保ち続けていたのである。

日本人に当てはまることは、朝鮮人、中国人についても同様である。まことにこれら3民族は、借入の長い鎖で互いに繋がっている。中国はインドから受け取り、朝鮮が中国をまね、最後に日本が朝鮮を模倣した。この単純なやり方で、彼らは順次、本来彼らの資産ではない文明を所有するに至った。他人の物を盗み取る熱心さ、盗み取ったものを味わい楽しむときの満足しきった様子は、生計のためにあくせく働くよりは、危ない借金をしてでも、のんびり暮らす方を選ぶ遊牧民族を思い出させずにはおかない。この連中同様、極東の国民が現在どれほどの利益を得ているにせよ、結局は、自然の法則により、元金がないために、高価な代償を支払わせられるであろう。

実際、極東の文明は、明確に異なる要素が混然と一体をなす化合物というよりは、種々の社会的要素の物理的混合物に似ている。その運命の大釜に投げ入れられた成分は種々雑多であるが、各成分のあいだに親和力がなかったために、結合が起こらなかった。融合する力が欠けていたのである。何かを発生させる能力は、極東の顕著な特性ではない。事実、「自然」の行う実験とも言える、人工によらずに変種を産み出そうとする逞しい力は、極東においては古くから枯渇してしまっていたらしい。明け方と共に起き出たために眠いには違いなかろうが、これら朝の国の住人たちは、真昼どきになる以前に、はや彼らの日は暮れ方に近づいたと感じたのである。若くして老け、その後にほぼ同じ年齢のまま今に至っている。今日の彼らは根底においては数世紀以前の彼らと同じである。最近20年間のヨーロッパの影響を取り去れば、各人はそれそれ自分の曽祖父とほとんど同一人物だと言えるかもしれない。過去において極東の国民を他と区別した特性が、徐々に彼らの存在の影を薄くしつつある。これらの特性、彼らの歴史に沈滞をもたらしたこれらの力の中で、おそらく最も重要なものが、非個人性という偉大な性格であろう。

さて、もし地球の温帯中に、温帯の幅の半分以下の間隔を持つ、二つの等温線に挟まれた地域を考ええると、この比較的小さな領域に、古今の、ほとんどすべての主要な国々が含まれるのを見出すであろう。そこでこの領域をさらにくわしく調べ、各部分を比較してみると、一つの著しい事実に驚かされる。この領域に住む人々は、西に向かうにつれて、一層個人的になる、ということである。この推移はまごうかたなきもので、人間的な原因よりは、宇宙的なものに由来すると考えたくなるほどである。人間の皮膚の色が、どの子午線上においても、赤道付近の黒から、極地に近づくにつれ、金髪色白に変化するのは、誰の目にも明らかだが、これもそれと同じくらい顕著な事実であるり、個人の意識は、沈みゆく太陽の跡を辿るにつれて、強烈になり、曙の光に向かって進むにつれて、薄れるのである。アメリカ、ヨーロッパ、レバント(東部地中海沿岸諸国)、インド、日本と、次第に個人性が薄れて来る。我々アメリカ人はこの物差しの一端に近いところに位し、極東人は他方の端に立っている。もし、われわれにあっては「わたし」が魂の本質を形成すると考えられるならば、極東の魂は「非個人性」であると言ってよいであろう。

この特徴は、それ自体面白いことではあるが、さらに興味深いのは、そこから派生するさまざまの事実との関連である。この性格が、これら特定の国民について物語ることは、そのまま人間一般について示唆する点が多いからである。現実においてはゆきづまりを示す性格であっても、理論においては進展を約束するものかもしれない。われわれ自身の理解に何らかの貢献をするかもしれない。面倒な形而上学の問題を解くのには役立ちそうにもないが、社会学上の研究としては、何らかの実りをもたらすかもしれないのである。

現在西欧世界が直面している二大懸念がある。その双方が、「個人」に解決を求めようとしている。すなわち、思案する者の不気味な沈黙である不可知論と、思索せざる者の短気な叫びである社会主義、共産主義とニヒリズムの双方が、同じようにその存在理由を、自我の意識が真実であるか虚偽であるかに依っているのである。

なぜなら、もし個性と言う現実、個性と名付ける我々一人一人の感情が、仏教徒が説くように、かりそめの幻影にすぎないとするならば、それを基盤にするいかなる信念も、万華鏡の絵のように消え去り、夢の中のつかのまの幻影よりも、はかないものになってしまう。もし自我が、頭脳と言う物質の過行く影にすぎないとすれば、脳髄の灰白質が分裂するときに、我々はどうなるであろうか。我々を取り巻く広大な宇宙のなかに没入し、何の見わけもつかなくなってしまうだけであろうか。そう思えば、我々が、知識の大海原の岸辺に立って、ひとみをこらすとき、目に入るのは、ただ、霧が立ち込め、哀願する手のように、海に向かって差し出された希望の岬をも、我々の視界から隠す光景だけである。

もし個性が精神の錯覚であるならば、ふつうの生身の人間の胸のなかに、向上心をかりたてるいかなる強い動機が、なお存在しうるであろうか。なるほど哲学者は、なお人類の進歩のために働くかもしれないが、人類自体は、公共の福祉にのみ役立つことのために、長く精力的に苦闘することはないであろう。個性と言う刺激力を取り去れば、行動はただちに麻痺する。なぜなら、大抵の人間は、個人的利得に促されて初めて、努力しようという意欲がわくものだからである。この力を破壊すれば、それに対するいかなる配慮も消え去り、社会主義が正当化されるだけでなく、たちまち、人生の公理の地位にまで高められる。その場合には社会が単位となり、これ以上分割不能な存在様式、すなわち原子となる。社会主義、つぎに共産主義、つぎにニヒリズムが必然の結果として続く。

古き中国が、幸運にも、運搬可能な火薬とヨーロッパでは夢想もできなかった羅針盤の持ち主となった、という事実にもかかわらず、これらを産んだものは、物理でも化学でも、工学でもなかった。発明は、科学としてではなく、芸術としてであったのである。火薬を火器のためではなく、花火のために点火したという事実は、中国文明について、実に多くの事を物語っている。この製品を、時間をつぶすためではなく、人を殺傷するために製造した、という名誉は西洋人だけが誇り得るものである。

極東人のものの見方は科学的ではない。西洋人の抑えがたい願いである、あの物事の理由を知りたいと言う望みは、中国人の精神を特徴づけるものでも、トルコ人の気質の一部でもない。形而上学は科学の資本を一切必要としないためだろうか、いつも人類にとり、とくに魅力的な思索の対象であるから、ここでこそ論理的思考が見られるはずだと思われるかもしれない。しかし、その点に関しては、極東人は、自らの想像力は一切使わず、今信奉しているのはインドから静かに有難く頂戴したものである。

事物の現状を、徐々に発展する過程の一場面としてではなく、一つの物質界の事実として受け入れる極東人は、人間をも、大きな自然界の一小部分と見なし、全体に君臨する栄光ある存在とは考えないのである。人間は宇宙の一断片・・・それも人間がいかに低くみられているかを考えれば、おそらく、卑小な一断片・・・に過ぎぬ、という認識であり、それに見合った関心しか払われないことになる。極東人の考えでは、自然は人間の付属品ではない。

日本人が自然に触れるのは、愛撫するためであって傷つけるためではない。自然も彼の愛を、当然のことのように受け入れ、妻としての服従をもってそれに答えるのである。日本の庭園は、日本の家よりも人間的である、ただすべてのものが、人間と微妙な調和の対象の関係にあると言うばかりでなく、自然の容姿自体が、その主人の精神の刻印を柔軟に受け止め、変貌しているのである。灌木の茂みも喬木も、自ら本来の意図に従うことを忘れ、主人の欲するままの成育する。ある時は奔放に伸び、茂り、あるときは、以前の姿の自分に小人のように収縮し、つねに主人の気ままな意志に従い、彼の目を楽しませようとする。頑固な岩でさえも、その荒々しさを失い、まわりの有情の生命の一部となるように見えるのである。

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