池田晶子の言葉「生きることの痛み」
生存することは「痛み」が伴う。「自分の」痛みではない。自分が生存するために他の生物に痛みを与える、その痛みを痛いと自分が感じるのである。他の動植物を殺して食べまで自分が生きること。では「何のために」生きているのか、そんな残虐なことをしてまで、生きる理由が自分にあるか、生きるほどの自分であるか。
私は、生きるほどの自分であろうとしている。
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殺される動植物の痛みを感じるなら戦争で人間を殺したり傷つけたりするのはどうなるのか?動植物どころか、他人の痛みすら感じないから喧嘩や戦争ができるのだ。池田流なら、原爆その他で散々残虐な方法で多くの人を殺したアメリカ(に限らないが)人だって、殺された人々の痛みを感じさえすれば、他人を殺してでも生きる価値があるということになる。動植物あるいは他人(特に有色人種)に対する差別だ。(ただし、俺は差別も是認する)
人の食糧として殺される動植物と国を守るとかいうお題目で殺される人間とどこに差があるのか?俺は差がないと思う。差がなければ池田流では動植物も人間も自分が生きるためには殺してよい、ただし、殺された側の「痛み」は感じなさい、となる。
俺流に痛みを感じないで殺せというのか、池田流に自分が生きるために殺してだけど痛みを感じなさい、というのか・・・殺すことを是認する点では同じだが・・・俺流が下品(げぼん)で池田流が上品(じょうぼん)か??
また、自分以外の痛みに不感症な俺は殺すこと自体が残虐で、殺し方に残虐もそうででないもありゃしない、と思うが、池田流ではどうなるか?やはり痛みを与えるんだから殺すという事自体が残虐なのか?
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