住友雅美;「売春」は「絶対にしてはいけないこと」なのか・・・

住友雅美さんは池田晶子さん亡き後、久しぶりに現れた美人(女の)哲人だ。現代ビジネス3月17日記載 記事より以下抜粋する。:

 (略)まず、「尊厳(dignity)」という言葉をどう捉えるかが問題になる。dignityを英和辞典で調べると、「尊厳」という訳語と共に、「品位」、「威厳」などの訳語も出てくる。beneath one’s dignityという慣用句には「品位に相応しくない」という訳がつけられていることからみると、「尊厳」というわかりにくい言葉よりむしろ「品位」という言葉に置き換えた方がよいかもしれない。

そうすると「人間の尊厳」とは、(単なる動物とは違う)人間特有の品位という意味になるだろう。つまり人間が(単なる犬猫や家畜などから区別された)人間として認められるための品位ということである。

では、人間特有の「品位」の内容は何であろうか?

おそらくさまざまな内容が列挙されるだろうが、明らかにすべての人々が了解することは、奴隷化されないこと、つまり自由を剝奪され、他人によって支配されたりモノ扱いされないこと、であろう。

そして続いては、この尊厳(品位)と人間との関係が問題になる。人間と尊厳とを繫ぐ「の」の意味をどう解釈するかである。解釈には少なくとも2通りある。

ひとつは人間の中に備わっている尊厳という意味、もうひとつは人間が尊厳を所有している状態、という意味である。

前者のように解釈すると、(1)尊厳という価値が独立的に存在しており、人間はそれの容れ物ということになる。後者であれば、(2)人間が尊厳をもって行動すること、となる。

「人間の尊厳」を(1)の意味で捉えるならば、人間は容れ物として、その内にある実質価値たる「尊厳(品位)」を守らなければならない義務をもつことになる。これは人間より価値の方を重視する見方であるということで「価値志向型尊厳観」と名付ける学者もいる。

(2)の意味で捉えるならば、人間が「尊厳(品位)」をもって、つまりつねに他人に介入されることなく自分の理性を自分で使い、自分の意思で思考し行動できなければならないということになる。これは人間が自分の主体性を行使することこそを最優先するため「主体性志向型尊厳観」と呼ばれもする。

この(1)と(2)の決定的な違いをわかりやすくするために、「自発的な売春は〈人間の尊厳〉に反することかどうか?」という問いにそれぞれの見方から答えてみよう。

(1)であれば、売春行為そのものが、自分の身体を相手の性的な充足のための手段に貶めることであり、それは人間の中にある「尊厳(品位)」という価値を損ねることだから、自発的であっても絶対にしてはいけないということになる。

ところが(2)であれば、人間が他人に干渉されずに自分の理性で考え、自分の意思で行為選択することこそが最優先される訳だから、他人に強制されてではなく自分自身の自律的思考と判断で売春行為をする選択をするなら、それは認められることになる。そのような選択を他人がむりやり禁止することこそが、「人間が尊厳をもって生きる」ことに反するということになる。

このように、「人間の尊厳」というそれ自体曖昧なタームには少なくとも2通りの理解が可能であり、そのいずれを用いるかによって1つの問いにまったく正反対の2つの答えが示されることになるのである。

(1)と(2)の解釈のいずれが正しいのかということは断言できない。しかし、それぞれを一般化すると導き出される帰結については想像できる。

(1)の、個人の主体性よりも守られるべき価値の方を優先する見方は、国家が特定の価値観を決定し、それと結びついた生き方を人々に強制する場合に利用される可能性がある。

それに対して(2)の主体性を優先する見方は、十分な判断能力をもつ個人の自律的な思考と選択を保障するだろう。ただし、その適用はあくまでも十分な知見と理性と判断能力をもつ成人に限定されるであろうが。

尊厳死という日本語の英語表記はdeath with dignityである。「尊厳を伴って」のwithの意味理解についても、やはり上記の2通りの可能性があるだろう。人間としての品位を保って死ぬことなのか、それとも人間が、他人に介入されず自分の思考と意志で自死を選ぶことなのか。

もし後者なら、2018年に亡くなった西部邁氏の「自裁死」(自立する精神に基づき、死ぬ意志と力があるうちに、社会に迷惑をかけぬよう、時と手段を決めて自ら死ぬこと)もまた尊厳死の1つの在り方ということになる。

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上述の(1)は伝統的、保守的な宗教だ。つまり、人間の外に「正義」とか「美」、「真実」とか「徳」があって、人間はそれに従わなくてはならないというもの。人間の知恵なんて神様の知恵に比べたらケチなものだから余計なことは考えずに神様の言う通りにしとけばいい…問題は神様の意志、考えであって、「ファクト」なんか二の次だ。

それに対して(2)は20世紀後半以降盛んになった実存主義、そして20世紀末に盛んになったWokismだろう。人間が持ってる理性が神の代わりとなる。理性が要求するのがファクトであり、エヴィデンスだ。

(1)はSDGsやジェンダーフリーやLGBTや堕胎なんて否定する。これが福音派がトランプを支持するゆえん。福音派だってトランプのウソや品のなさは許せないだろうが、民主党の無神論につながるWokismはもっと許せないということだろう。

自ら「姥捨て山」に入って行った西部さんの自死は確かに(2)なのだが、一方で西部さんは保守的で流行や浅知恵も嫌っていた。つまり、(1)が廃れて行く風潮が嫌で自殺したくなった、とも解釈できる。神は廃れる一方だが人間の浅知恵も当てにならない。流行に乗っかって行くしかない人類は、あまりいいところには辿り着けそうにない。それに対する悲観・絶望ゆえの自死とも・・・。俺も絶望してるけど、自死は考えられない。へそ曲がりの俺は「生きるだけ生きて人類がどうなるのか見届けてやろう」と思う。それが今の心境だ。

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