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11月, 2023の投稿を表示しています

遺言その1

 従兄弟(俺より2か月遅く生まれた)が死に、その葬式に出て来た。 感じることがあったので死に方、葬式について遺言の形で書き残す。遺言はこれから何回も加筆修正するだろう。 1.PPK(ピンピンコロリ)が理想だ まず、PPKについての俺の定義: 原因のいかん(事故か、他人から受けた暴力か、病気、怪我なのか・・・)を問わず、自分で自分の生命を維持できなくなってから48時間以内に死ぬことをPPKと言う。 この死に方が俺の理想だ。自殺する気はないが、かといって積極的にこれ以上長生きしたいとも思わないから延命は拒否する。俺がどういう状態になったら「もう殺してくれ」というか、上さんは大体わかっているはずだ。そうなったら法律の許す範囲内で俺を早く死ぬようにしむけて(=殺して)もらいたい。 俺に言わせれば、PPKとは「俺は死ぬとき、あんまり人を煩わさなかったぞ」という見栄だ。最後の見栄を張らして欲しい。 2.葬式について 葬式など無用な儀式だ。生きている人を煩わしたくないからできれば葬式などはして欲しくない。世間体だかおつきあいだかでどうしても葬式をやらざるを得ないなら、なるべく簡易で安価なものにして欲しい。 俺は魂も死後の世界も信じないから死体がどう扱われようと構わない。つまり、死んだら「ハイ、おしまい」だ。骨もそこらに撒き散らかそうが骨壺に入れたままどこかに放置してもよい。もちろん、墓も無用だ。この点もみなさんがそう考えず、墓に収めたいならそれも結構・・・要は俺には死んだ後の自分に興味がない。どうでもよい。 3.仮に/多分 葬式を行う場合 ①遺影 そのうち、「これを遺影にしてくれ」と写真を指定するかも知れない。それをする前に死んだら、明るく笑っている写真を遺影にするのはやめて欲しい。棺桶に納まった俺の死に顔は土気色で痩せこけている可能性が高い。そんな死に顔とやけに明るい遺影ではマッチしない。死に顔に合わせて暗い顔つきが良い。(今日の従兄弟の遺影は”破顔一笑”だったが、俺は棺桶の死に顔と引き比べて大きな違和感を覚えた) ②弔辞、喪主の挨拶 できれば、省略して欲しい。もしやるなら、けなして欲しい。あんまり褒めたたえたり、持ち上げるのはやめてくれ。嘘は駄目。俺なんてほめるところなんてない。お手本は今日の従兄弟の嫁さんの挨拶だ。以下に趣旨を: 「若い時は父親としても夫としてもダメ...

映画「いちご白書」

 「いちご白書をもう一度」で歌われていたから、こういうタイトルの映画があることは知っていた。まず、興味深かったのはMGM製作ということ。MGMと言ったら、ミュージカル映画しか思い浮かばない(ミュージカル映画好きの俺にはそれだけで十分存在意義はあるが・・・)つまり、MGMって古き良きハリウッド、保守的、体制派で、学生運動を描いた映画なんて絶対作らないと・・・Wikiってみると、MGMらしい映画はもう、1960年代には作っていなかったみたいだ・・・ただし、1970年代に昔のミュージカル映画の名作をつぎはぎして紹介するThat's entertainmentという映画は作った・・・今はAmazonに買われて俺の知っているMGMとは別物の存在になった。 この映画が公開されたのが1970年で、内容は1960年代後半のアメリカの学生運動(の挫折)を描いたもの。「サークル・ゲーム」という歌が独特の声で歌われる。俺もこの歌を高校時代に聞いた。当時は歌詞の意味も分からず聞いていたが、今改めて歌詞の意味を噛みしめてみると、ボブディランの「風に吹かれて」同様の歌詞。輪廻とか無常観とか、そういう非アメリカ、非キリスト教的な歌詞・・・これも当時アメリカで流行っていたし、そのアメリカの流行が日本にも伝わって来ていた。 そしてジョンレノンのGive peace a chance(平和を我らに)。 俺は1972年に大学に入ったが、すでに学生運動は挫折して峠を越していた。1972年の2月、つまり、大学受験の真っ最中に「あさま山荘事件」という事件があった。これは、学生運動が行き詰って警察に追われ、山の中を逃げ回るうち、仲間同士で殺し合い、最後は山荘に人質を取って立てこもって、包囲した警察と撃ち合いをするという凄惨な事件だった。学生運動は、俺にとってはオワコン、人様に迷惑をかける空騒ぎだった。だから本当の所・内実は良く知らない。日本を含む世界中のの学生が1960年代後半に荒れた、というか学生運動が盛り上がったことだけは知っている。この映画で描かれるアメリカの学生運動は日本のそれとそっくりだ。(ただし、アメリカの場合は黒人の公民権運動の支持も含まれていた) 俺の知ってる1970年代前半の「反体制」て、大人しい反体制、あるいは、人に迷惑をかけない反体制だった。人畜無害、ファッションだった。 主人公は...

日下公人「人間はなぜ戦争をするのか」 <1996年クレスト刊>を読んで

 最近、本棚を覗くこともめったにないのだが、たまたま覗いたら、なぜか日下公人さんの「人間はなぜ戦争をするのか」という本(のタイトル)が目に付く。無性に読みたくなって読み出したら面白い。ブックオフの値札がつていて¥100だ。ということは刊行直後ではなく多分2000年以降に買ったものだろう。その時一回は読んだはずだが、内容は全く忘れていた。ただし、今の俺の考えと同じことが書かれていることが数か所。以前に読んだ後、潜在意識にしっかりインプットされ、俺の思考に大きな影響を与えたようだ。(このように、全く覚えがないのだが、大きな影響を受けた本が時々ある) 一読すれば、「人間はなぜ・・・」ではなく、「国家はなぜ・・・」が書かれている。そもそも戦争とは国と国が行うものなのだから当たり前だが・・・。(本書の冒頭に簡単に「人間はなぜ国家を作るのか?」にも触れているから、つづければ、「人間はなぜ(国家を作り、その国家はなぜ)戦争をするか」ではある・・・様々面白いことが書かれているのだが、そのことについては機会を改めるとして、日下さんが1回は読めと言っているポツダム宣言を当時の昭和天皇になったつもりで読む。(末尾に英語の原文と和訳) 冒頭、 Terms for Japanese Surrenderとある。日下さんがこの本で再々強調するように、日本国は無条件降伏していない。ポツダム宣言は日本国降伏の条件なんだから。(日本軍は無条件降伏した) 1.のgiven an oppotunity・・・日本は随分下に見られたものだ。これに文句つけられないのが敗戦国の辛さ。 6.のauthority and influence は外務省の和訳資料では「 権力及勢力」となっているが、天皇は含まれるのか?俺には軍部が日本を支配するのに天皇の authority and influence(権威と影響力)を利用した、つまり、 authority and influenceって真っ先に天皇のことを指すようにも思えるが・・・ 9.は軍隊の解体について書かれている。天皇が自分ではできなかった軍隊の解体を戦勝国がしてくれる、とある意味ほっとしたのでないか? 10.には天皇が唯一望んだ日本国民の存続が明記されている。天皇自身は抹殺あるいは退位の憂き目にあうかもしれないが、日本国民が生き残れればよし、と思ったので...

日本語と日本文化 壺齋閑話 より <二つの戦後・ドイツと日本>

冷戦下、分割され、戦勝国に囲まれて苦労の多い外交を強いられ、戦後を乗り越えざるを得なかったドイツ。片やアメリカに占領され、アメリカだけを相手にし、経済成長だけを考えていればよかった日本。何十年か経つと、苦労した甲斐があって再軍備も果たしながら周囲の国に認められるようになったドイツ。片や経済成長が止まった途端、国際的プレゼンスがなくなった日本。 俺は国際的プレゼンスがなくなっても構わないと思うが、アメリカの力も弱まった今、経済や成長ではなく、何のために日本国はあるの?を一から考え直し、外交や防衛を自分で考える日本になって欲しい。(国家の再設計)そうしないと有為の人、頭の良い人、気の利いた人は日本という国を見捨てるのではないか? 観光で来るにはよいところ、日本人にはhospitalityがある、和食はおいしい、日本はきれいだ、細部までこだわる・・・こういった”日本のよさ”は”日本という国”のよさではない。単に”日本人の良さ”だ。日本という国の存在意義はここにあるから、政治や経済や防衛を含む安全保障・税制・福祉はこうする、そのためには憲法はどうする・・・それが国家だ。明治維新後、数十年間は日本にも”国家”があったように思う。この”国家”が軍に占領されて戦争を始めて負け、アメリカに国家を全否定されてから、日本人には国家を考えたり、語ったりすることがタブーになった(国家なんてもうこりごり、戦争して負けるだけだ、と嫌になった)。日本人はもともと”国家”なんて堅苦しいものを考えるようにはできてないかも知れない。 だったら、国家であることをやめる、という手はないか?そして世界中に「国家なんてオワコンだから、やめましょう」と訴え、仲間を募る。日本人みたいに堅苦しく「国家とは?」なんて考えたくない民族は他にもいそうだ・・・国家なんて捨てて産業革命より前に戻る。そうすれば戦争でたくさんの人が死ぬのも、格差もなくなる・・・などと妄想するが、無理かな~ 以下、 二つの戦後・ドイツと日本 より引いた: ドイツと日本は、ともに第二次世界大戦の敗戦国として壊滅的な打撃を蒙りながら奇跡と言われるような復興を成し遂げてきた。その復興の過程には共通する面も多いが、相違する点も多い。ともあれその結果としての、両国の今日の世界における立ち位置を比べてみると、かなりな違いが認められる。その違いとはどんなもので...

老夫婦ジョーク

” ハチペイ”という渋谷区の決済アプリを使うと11月末までなら渋谷区民か否かを問わず、30%のポイントが付くということを最近知った。夫婦で早速アプリをインストールし、渋谷区を歩き回って買い物をしている。(ただし、30%ポイントの上限は5000ポイントだ) ファッション、身に着けるものなんて目もくれない。スーパーやドラッグストアを回って食品、薬、サプリといった日用品・必需品を無茶買いする。サンドラッグに行ってザバスのまがいもの(プロテイン補給ドリンク粉末)やら肝油ドロップやらプラズマ乳酸菌のサプリやらをかごに入れる…新ビオフェルミン540錠入りが目に付いたので買おうと思ったが、家に飲み始めたばかりの540錠入りの新ビオフェルミンが1瓶ある。(俺は、腹の調子が悪い時だけしか飲まないから540錠を飲むのに1年以上かかる)上さんに「賞味期限」(薬の場合なんと言うのか?有効期限?)を見てもらったら2026年と。今、家にあるのを飲み終えるのが来年末として、あと1瓶買っても2025年から飲み始めて、期限までには飲み終わるだろう、3割引きだから買おうか、と思った。 そこで我ながら面白いのだが、「待てよ。2026年まで生きるかな?」という考えが、ふと頭に浮かぶ。そこで「買うのはやめよう。2026年まで生きてるかどうか分かんない」と上さんに言う。上さん笑いながら「そうだね、無駄になるかも知れないからやめとこうか・・・」これを受けて俺も笑う。この瞬間、「こんなジョークで笑い合う夫婦はそういねえだろう。」と、何とも言えない幸せを感じる。 そう言えば上さん、「最近70過ぎで急に死ぬ芸能人多いよね」って言ってたなあ・・・

夏より断然冬が好きだ

 ボブディランのフリーホイーリングというアルバムのジャケットは、冬のニューヨークと思しき街を女の子と腕を組んで寒そうに肩をすぼめて歩くボブディランの写真だ。どちらかというと、女の子の方からくっ付いて行っている感じ。格好いい。 俺も冬の町を肩をすぼめて歩くのは好きだ。女の子が腕を絡めてくればもっといいけど、女の子はどうでもいい。それより、時間帯だ。つい何時間か前までは煌々とついていた灯りが消え果た真夜中の繁華街をポケットに手を突っ込みながら歩くのがいい。(手袋をしていては駄目だ。ボブディランも女の子も手袋はしていない)真冬にそういった街を歩くのは大好きだ。雪景色などは好まない。山の中もダメ。真冬の真夜中の街中がいい。 ボブディランだけでなく、12インチ(30センチ)のレコードのジャケットは楽しめた。(芸術的なのもあったが、俺はたかがレコードジャケットなんだから、そんなにお上品だったりシリアスだったりする必要はない、シャレやお遊びでいい、と考えていた) いずれにしてもCDジャケットでは駄目だ。もちろん、PCやスマホのディスプレーに映ったのも駄目だ。30センチ角のボール紙で作られたアルバムジャケットに印刷された写真や絵。このサイズだから楽しめる。手に感じられる重さ、質感。匂い・・・それらが一体となって・・・ 先日、剣道の試合をTVで見ていて、どっちが勝ったのか、どっちの攻撃が先に決まったのか、まったく分らなかった。そのことを知り合いの剣道七段に聞くと、彼も分からないのだそうだ。ところが、現場に行って「音」を聞くと、あら不思議どっちの技が決まったのか分かるんだそうだ。TVでは本当の音は聞くことができない、と。なんとなく納得した。 閑話休題: 師走、という感じもスキだ。「もういくつ寝るとお正月」の歌の通り、楽しいお正月を心待ちにしてあわただしく正月を迎える準備をする・・・といった風情もいい。お飾りを買ったり、おせちを作ったり、大掃除したり・・・こう考えると、リタイアして毎日が日曜であり毎日が正月みたいになると、師走の楽しみ、ありがたみも大分薄れる。 寒ければたくさん着込めばいいけど、暑いのはどうしようもない、なんていう言い方もある。

中国人の無神論・リアリズム

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1961年筑摩「世界文学大系」「中国古典特集1」解説 初出の吉川幸次郎「詩経と楚辞」より引く: BC221,秦の始皇の大帝国が出現するまでの時期は、先秦の時代と呼ばれて、中国史のはじめに位する。それは様々の意味で、以後の時代とはことなった、特別な時代である。 まず前世紀末、あるいは今世紀初めまでの旧中国の認識、またそれを受け継いだ日本儒学の認識によれば、それは完全な理想社会が存在し得た時代である、すなわち完全な道徳政治の社会であり、その中心となり指導者となるのは「聖人」と呼ばれる完全な万能の道徳者である。その指導によって、すべての人々が善意に満ち溢れる社会、それが実現し得た時代だとする。 まずあったのは尭舜その他の「五帝」の時代であり、彼らは「聖王」すなわち聖人の王者であったとされ、ここに訳出された「楚辞」にも、「彼の尭舜なる耿介(こうかい)なる」と歌われている。尭舜の時代に次いであるのが「三王」もしくは「三代」と呼ばれる三つの世襲王朝であって、やはり聖人である禹によって創始された夏王朝の数百年、聖人成湯(せいとう)によって創始された殷王朝の数百年、そののちに、文王、武王、周公の三聖人によって創始された周王朝が、この時期さいごの王朝としてあるとする。三つの王朝とも末期はいずれも頽廃に陥るけれども、創業の王たちは、聖人であるゆえに、それぞれ理想社会を実現したとするのであって、「楚辞」にはそれを「昔は三后の純粋なる」と歌う。そうして周王朝の中頃、BC500年ごろ、さいごの聖人として孔子(BC551-479)が現れる。孔子は生卒年を確定しうるさいしょの中国人であるが、このたびは孔子の努力にもかかわらず、理想社会は実現されず、戦国の紛争へとおもむく。しかし理想社会への可能性は、なお全くとざされたわけではなかったのに、その可能性を全く遮断し去ったのが、秦の始皇の暴政だったとする。そのためそれ以後は、聖人をもたない時代となる。次の漢の時代以後、聖人と呼ばれる人物はもはやいない。 つまり、先秦の時代は、人類史のはじめに位する栄光の時代、またその末期においても栄光の余光をとどめた時代として、以後の人類の常に回顧すべき時代であると、されて来たのである。こうした旧中国の認識が、日本の儒学でも祖述継承されたことは、中江兆民の言葉に、ルソー、モンテスキューの政治学説を採用するのは、手段であ...

007は2度死ぬ

 Wikipediaによると、007原作者のイアンフレミングは日本に来た時、 You only live once.(人生一回きり=生き返ることはできない)という慣用句をもじって、You only live twice. Once when you are born, and once when you look death in the face.という俳句を作った由。(Haiku in English) フレミングは日本を舞台にした”You only live twice”という小説を書き、それを原作にして007シリーズ映画第5弾「007は2度死ぬ」が日本で撮影され、浜美枝や丹波哲郎が出演した。映画そのものはあまりいい出来とは思わない(日本の描き方としておかしな部分が気になる)が、興味深いのは、英語で「2度生きる=生き返る」という表現なのに、これを日本語映画タイトルでは「2度死ぬ」と表現することだ。 たしかに「007は生まれ変わる」よりは「2度死ぬ」の方がタイトルとしては”キャッチー”でいい。しかし、liveを「死ぬ」と訳したセンスは素晴らしい。井上一夫さんとういう人が原作を訳しているからそのとき「2度死ぬ」としたのだろうと推測する。

成長の呪縛:サイボウズの青野社長の副業の勧め

 青野社長が副業を勧める理由は個人の成長だと。俺には理解できない。 何故成長しなければならないのか?これが分からない。 2021年1月16日 キャリア ,  キャリア論 によると: 難易度の高い仕事ができるから 会社や世の中に貢献できるから お金の面でもメリットがあるから 達成感を感じて自分が嬉しいから だそうだ。話は逆だろう。 難易度の高い仕事ができるようになったから成長した、と言われ、自分でも言うのだ。 貢献したから成長した、と思え、言われる。 成長などと言わず難易度の高い仕事に挑戦してできるようになること、貢献する仕事をすることでいいんじゃないのか??? その道一筋で道を究めるのは成長ではないのか? 要は、「その道一筋」では行き詰るから、その道一筋をやめさせようという事か?日本人にはその道一筋が向いていると思う。なぜそれを捨てなければいけないのか? 成長という気持ちの悪い言葉は、副業や転職など、お上がやらせたいことを若者にやらせるために編み出された言葉ではないか?と思うに至った。 気持ちが悪いという意味で似たような言葉に「課題」がある。「課題を解決して成長する???」馬鹿か!リクルート商法を見習って次から次へと課題を見つけて解決しました、と課題解決ゴッコをしろ、というのか? 俺のいた会社で「改善提案制度」ってのがあって、1年間に〇〇件提案というの目標が設定された。「今まで右においていた工具を左にする」で改善手案を1件やり、次に「左にした工具を右に戻す」で更に1件の改善提案を稼いだ、という笑い話があった。(多分これに近いことが本当に行われたと思う)

森田実「独立国日本のために」より

 2011年12月にKKベストセラーズより出された「独立国日本のためにー「脱アメリカ」だけが日本を救うー」より引く: 再び「義を見てせざるな勇なきなり(孔子)ー私が東京の地上波テレビから「干された」訳 「月刊日本」編集部の尾崎秀英氏から9月号の<特集>「新聞・テレビの大罪」についてのインタビューを受けて、答えた。質問は電通の問題に関してだった。私が郵政民営化の裏で日米の巨大広告企業が動いたことについて警告したところ、いくつかのテレビ局の知人から忠告された。ほとんど同趣旨の”忠告”だった。 「電通を批判するという事はマスコミでの仕事を自ら失うという事です。今後は、森田さんを出演者としてテレビに出ていただくことはできなくなりました。森田さんはマスコミで生きる者が決してしてはならないことをしてしまいました。残念です。さようなら」 実際に、2005年8月9日以後、東京の地上波テレビからの出演依頼はゼロになった。はっきりした証拠はないが、電通の力は巨大であると感じた。 以下は、インタビューでの記録である。 < ー 森田氏はかつてテレビのコメンテーターとして引っ張りだこだったが、2005年9月の郵政選挙を境に、画面に登場しなくなり、いわゆる「干された」状態になった。> 森田:その年、2005年の5月頃から、複数ルートを通して、アメリカの巨大広告企業から電通に巨額の宣伝費が流れ、郵政民営化が絶対善であるかのような情報操作宣伝工作を行うようにメディア操作が行われているとの情報が入った。その金額は5000億円とも言われ、アメリカ保険業界が日本市場拡大を狙って拠出したものだという話だった。 アメリカ保険業界にとって最大の魅力的な市場であり、同時に最大の非関税障壁となっていたのが郵便局の簡易保険(かんぽ)だった。郵便貯金(ゆうちょ)とかんぽを合わせれば、郵政が抱えていた金額は360兆円だった。郵政民営化によりこの市場を自由化し、米保険業界が参入できるようにすることによって運用されるとすると、その1%を宣伝工作費にまわしたとしても、3.6兆円だ。いきなり1%を回すのは現実的でないとしても。0.25%でも9000億円であり、将来の回収を考えれば5000億円の宣伝工作費というのも少なすぎるくらいの、説得力のある数字だ。 私は更に様々な情報源を当たって決めてとなる直接証拠を探したが、当事...

畑岡奈紗絶賛の記事に・・・

 俺の好きな畑岡。e!Golfの記事は、最終戦24アンダーまで伸ばしたが優勝を逃した、しかし生涯獲得賞金が宮里藍を抜いて日本女史プロゴルフ史上最高に達したとか、24アンダーは今季日本女子がマークしたベストスコアだ、とか随分好意的だ。 この記事に写真が2枚使われている。記事の頭に使われてる写真は畑岡自身の写真。2枚目の写真はTOTOジャパンクラシックで優勝した時の稲見萌寧のニッコリ写真だ。稲見の写真の下に「このとき稲見がマークした22アンダーが畑岡に抜かれるまで日本女子の今期最高スコアだった」だと。 写真の選定をした人は記事を書いた人とは別人なのだろうが、こういうのって畑岡ファンとしては腹立たしい。 頑張れ奈紗!来期は賞金女王になってこんな馬鹿な扱いを受けないように!!!!

映画 スペース・カウボーイ

2000年公開のクリント・イーストウッド映画”スペース・カウボーイ”を見る。ストーリーの鍵は人類だかアメリカを救うため宇宙で自分を犠牲にする、というところで1998年公開のブルース・ウイルス主演の”アルマゲドン”と共通している。世紀末のアメリカには、全体のために自己犠牲するということを求める何かがあったのだろうか。それほど、利己主義がはびこっていたのだろうか?加えて、ロケットが壊れてそれを”時代遅れのアナログ親父”が何とか運転して無事地球に帰って来るところも共通だ。デジタル疲れ・アナログへの郷愁もあったのか? そのように煮詰まっていたアメリカに9.11が起こって雰囲気はひっくり返ってしまった。大統領は、9.11を利用してアメリカを一つにできる、と思ったんではないか? 1957年、ソ連の人工衛星スプートニクの打上げが成功、アメリカは直後にロケットを打ち上げたが失敗。この様子が生中継されてアメリカは大恥をかき、翌1958年アメリカはNASAを設立し、新しいメンバー、新しい技術で宇宙開発に乗り出した・・・ここまではWikipedia記載の事実。 映画スペース・カウボーイの主人公たちは、NASA設立前に計画されていた有人人工衛星計画のために訓練を受けていたが、1958年に有人人工衛星計画は白紙撤回され、NASAが新しいメンバーで新しい計画を始めた。(人工衛星には人間でなくチンパンジーを載せることに) それから40年後。イーストウッド演じるフランクはNASAから40年前に彼が設計した古いシステムと似たシステムを積んだ旧ソ連の通信衛星が故障したのでロシアと共同で修理をして欲しいと頼まれる。システムが古くて関係者がいなってしまったのでフランクに白羽の矢が立ったと。フランクは40年前の仲間と一緒なら、と引き受ける。 ”修理”に飛び立った主人公たちは旧ソ連製人工衛星は通信衛星なんかではなく核ミサイルを搭載していてアメリカを狙っていたものだったことを知る。旧ソ連はフランクのシステムの設計を盗んで使っていたのだ。 それから人工衛星が壊れたりなんかして結局、この核を積んだ人工衛星を地球から引き離すためには誰かがこの人工衛星に乗ったままロケットを噴射させて地球以外の方向に飛ばすしかない、となった。 そこでフランクの仲間、親友でもあるトミーリージョーンズ演じるホークが「俺は昔から月に行きたかっ...

スペインにFresh Soundというレコード会社があった

1990年代、 スペインのFresh Soundというレコード会社がアメリカの1950年代のモダンジャズのアナログレコードを盛んに復刻していた・・・無節操で網羅的と言うか、作品の出来の良し悪しの判断はせずに片っ端から順番に・・・という感じでそれはそれで潔いと感じたし、俺のようなジャズレコードコレクターには有難かった。 元々アメリカではジャズレコードなんて大事にされておらず昔のレコードを復刻するなんてことは考えられなかった。それに代わって1960年代から1980年代にかけて日本のレコード会社がジャズのレコードのいいものを選んで復刻をしていた。1990年以降日本ではレコードが廃れ、バブルが崩壊してレコード会社も元気がなくなって日本ではジャズレコードなんて誰も出そうとしなくなった。 俺の記憶では、当時は著作権は25年とか言われていて、1990年代に入るとFresh Soundはその著作権が切れたレコードをガンガン復刻・再発していたのではないか? 日本の復刻盤では出されなかった(あるいは巡り合えなかった/巡り合えても金がなくって買えなかった)レコードがFresh Soundで復刻されたのでありがたく、俺も何十枚か買ったように思う。 このFresh Soundのレコードを六本木にあったWAVEというレコード屋で買ったものだ。WAVEをWikiってみると、” 1983年 に 六本木 に「 六本木WAVE 」が開店した際は、ビル1棟がまるごと様々な文化を発信する拠点となり、 文化人 や 音楽家 などから高い支持を得た。”とある。俺が六本木Waveに出入りしたのは1990年以降だ。 WAVEがどう生まれ、今どうなったかと言うと 1977年 3月  -  株式会社ディスクポート西武 設立。 1989年 3月 - 株式会社ウェィヴに商号変更。 1990年 3月 - 株式会社ピサが、株式会社ウェイヴを 吸収合併 。 1993年 1月  -  株式会社ウェィヴ (2代目)設立。 1995年 9月  - 株式会社ピサが、ウェィヴ事業を株式会社ウェィヴに営業譲渡。 2006年 2月  - 株式会社ノジマに買収され、その傘下に入る。 5月  -  株式会社WAVE に商号変更。 2008年 10月  - メデ...

高市早苗よ、頑張り方ちがうぞ。

 社民党福島瑞穂党首が十何年か前、大臣になったことがあったが、非常に醜くなった。大臣になった責任感のせいなのか、おかしなことが出来なくなったプレッシャーのせいなのか、嫌らしい役人と毎日顔を合わせたストレスのせいなのか? 同様に何年か前から高市早苗さんが醜くなった。安倍さんを応援・支持し何年か前から次期首相候補などと言われ、実際自民党総裁選に出馬したりしてから醜くなったように思う。顔が凸凹したり眉毛が抜けたり(抜いたわけじゃあなさそうだ)ウイッグ疑惑が出てきたり・・・病気かな? 加えて、かつては靖国神社に参拝するなどこわもて硬派イメージだったが、それでは首相になれないと思ったせいか、最近は変な作り笑いまでするようになった。外観の変化の原因は病気という可能性がある。病気だとなると足を引っ張られるのが政治家の世界だから、隠すのもやむを得ないが、下手で不自然な作り笑いはやめるべきだ。醜さ倍増だ。 閑話休題: 2017年に離婚したが、2021年同じ人と再婚した。離婚の理由について夫も自民党の衆院議員なのに政治的スタンスが違うこと、と言っていたらしいが、その元夫が落選したら再婚した。いつのまにか、夫の籍が高石の方に移っていたというのも面白い。この夫の存在が外見の変化や無理な作り笑いに影響を与えている可能性がある。 「高石早苗ウィッグ疑惑」とか「高石早苗 経歴/学歴詐称疑惑」などという記事を見ようとクリックしてもERROR!とかForbidden!という表示が出て閲覧不可能になるものがある。これって他ではあまりお目にかからない。誰かがこわもての元総務大臣に忖度して?

タカラジェンヌ・ハラスメント自殺事件に思う

 人間には弱い者がいる。ハラスメントなどというのは弱い側の言い分を聞きましょう、弱い者の権利を認めましょう、という考えだ。 弱い側に合わせてしつけや訓練をすると全体が弱くなる。レベルが下がる。俺の好きな徒弟制度の否定だ。馬鹿じゃあないかと思う。一番バカバカしいのはハラスメントを「馬鹿だ、弱くなる」と言うと叩かれるからみんなそう思っても黙ってしまうことだ。弱い者は生き残れないというのは自然の摂理だ。そして弱い者が弱い者なりの工夫をしてなんとか生き残ろうとするのも自然の摂理だ。 昔(今でもロシアや中国)は国が検閲し、言論の自由を制限する・・・これは分かりやすい言論統制だ。今の日本(多分アメリカその他西側諸国も)のようにハラスメントやコンプライアンスについてバカバカしいとか弱くなるなどと言うと叩かれる、あるいは叩かれるのが厭だから黙ってしまうというのは合法的な言論統制ではないか?俺は昔の分かりやすい言論統制の方が好きだ。 自殺したタカラジェンヌさんも売れなかったし、それを擁護する元タカラジェンヌも大して売れた人ではない・・・ハラスメントを受けてもハラスメントと思わずあるいはハラスメントと思っても絶える鈍さ、強さがないと売れるタカラジェンヌにはなれないのではないか? ハラスメントなんて言葉が出て来るから「これはハラスメントだ。」と思って、逃げようとか死のうとか訴えようとかチクろうとか思う。 このことは宝塚に限った話ではなく、スポーツでもお笑いその他の芸能、多くの会社員を含む職人でも同様だ。強くなりたければ我慢しろ或いは鈍くあれ、だ。我慢が出来なければ強くなれない。 弱い奴が自殺して「いじめられました」と遺言すれば「強い者いじめ」が始まる。こうして強い者がいなくなる・・・そろそろやめられないか?強いいじめっ子がいれば、弱い者は逃げる、避ける、あるいは思い切って反撃する・・・そっちの方がいい。「いじめられた」なんて遺言して自殺するのはよろしくない。

AI?を使ってコーヒーを客の好みに寄せていくポストコーヒー

「 がっちりマンデー」というTBSのTV番組でポストコーヒ―なる会社の、コーヒーの定期配送ビジネス(サブスク?)を紹介していた。 この商売の面白いところは ①コーヒー配送量を225グラム、450グラム、900グラムの3つから選ぶ(コースによって価格が違う) ②配送されるコーヒーはどのコースも3種類 ③契約の時、ネットで自分の好みをアンケートで答える→飲んだ後もアンケートに答える・・・回を重ねるごとに好みに合ったコーヒーが選ばれて送られてくる・・・コーヒー種類が変わっても価格は変わらない うまいとこ突いたなあ、と感心したのは ①1杯単価が200円弱でコンビニとスタバの中間 ②豆の種類、焙煎の仕方によって味わいや香りが変わるというコーヒーの特徴を踏まえ、IT技術(客の反応を集め、瞬時に客の好みを掴む)で顧客のニーズにだんだん近づいて行く・・・最初から満点を狙わず、段々・・・というところが憎いし、コーヒーならこれができる 閑話休題: 社長は、アンケートを処理するのは「アルゴリズム」と言っていたが、AI? この商法を社長はサブスクと言い、サブスクの賞ももらったようだが、俺に言わせれば何グラム頼んでも価格が同じことがサブスクではないのか?

東大吉本対話 vol.2 教育と笑い NONSTYLE石田明×東大名誉教授中邑賢龍

 BSよしもとで石田vs中邑 対談を見る。石田が東大に乗り込んだ。 面白い。中邑名誉教授は現場に行くこと、能動的にやること、誰からも教えてもらわないでやるという教育を実践している。逆に言えば今の教育は親切に教えすぎ、(だから、自分の頭で考えない)と考えている。与えないことが教育だ、と。 石田は「言葉は感情を注ぎ込む器だ」という。同じ言葉でもどんな感情を注ぐかで違ってくると。中邑さんはこれを受けて「馬鹿とかアホを言葉として禁じるのは間違い。馬鹿アホでもどういう感情を注げば使ってよい、ということを教えないと」 石田は昔ながらの「見て盗め」式の板前修業も経験し、それをよしとする。 中邑:100点満点はない、どうやっても100点は取れない。どうやろうと自由だ。目的も時間的制約もなしで何かやれ、と言うのが教育。 石田:舞台は現場に行って見てくれ、と。You-Tubeでは本当の面白さは掴めないと。今の子は笑いを取る手法は知っているが、本質は分かろうとしない。YouーTuberに憧れるのではなく、生の舞台を見て「俺も漫才やろう」という人を作りたいとも。 閑話休題: 何故、自分お頭で考えないような子が出来上がってしまうのか? 何故、「これが生きる手法だ、これが100点満点の生き方だ」と信じてしまうのか? 中邑さんの言う通り、教育のせいなのか??? なんでもネットで経験した気になる、というのも問題だが、では何が問題か?と聞かれると説明が難しい。石田の言う通り、本質が掴めないという事かも知れないが、みんながみんな、本質をつままないまま、ああだこうだ、とやって回っていればそれはそれでいいじゃあねえか、とも思う。

池田大作さん死亡

 池田大作死亡のニュース。実質上死んでいた、と思う。もう何年も何の情報も出て来ない。本当に生きていたどうかも不明だ。もう死んだところで創価学会や公明党に影響はないのでは、と思う。とっくに死んでいたものを、何らかの理由・判断で「今なら」と発表したのかも。(逆に言うと、昨日までは、死んだと発表すると差支えがあった???) 俺の中で池田大作同様にすでに死んでいるのが渡辺恒雄さん。池田大作95歳に対し、渡辺恒雄はもう97歳。ここ数年メディアでも一切扱われない。 二人に共通するのは実質死んでいると思われるのに、池田さんは創価学会の名誉会長で渡辺さんは読売新聞の代表取締役主筆であること。不思議と言うかバカバカしいと言うか腹立たしいと言うか・・・いかにも日本人らしい扱い。年寄を年寄なるが故に尊ぶ。(骨董品じゃあるまいし)彼らは創価学会や読売新聞においては神なのだ。こんなの、日本人以外には全く理解不能だろう。

リクルート商法

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  「日本流「リスキリング」浸透しないわけ 新たな能力求めた先の議論を」 という見出しで朝日新聞デジタルに勅使河原麻衣という人が記事を書いている。この人のプロフィールなるものが: 勅使川原 真衣(てしがわら・まい) おのみず株式会社 代表取締役社長 てしがわら・まい 1982年、横浜市生まれ。慶応大学環境情報学部卒業、東京大学大学院教育学研究科修士課程修了。BCG(ボストン コンサルティング グループ)などの外資コンサルティングファーム勤務を経て独立。2017年、おのみず株式会社( https://hitomiru.jp/ )を設立し、代表に就任。企業や病院、学校などを対象に、組織開発を支援する。2児の母。2020年から乳がん闘病中。22年12月、「能力」とは何か、商業化する能力主義、自己責任社会を教育社会学と組織開発の視点でとらえた『「能力」の生きづらさをほぐす』(どく社)を出版 まず、この手のコンサルが信じられない。だって現場経験がないんだもの。コンサルになる前にコンサルの客になるような会社に勤めていた経験がないと。。。 この記事では日本では「リスキリング」が社員の行う能力開発なのか、会社が生き残るために社員にやらせるものなのか?定義が不明確・・・などと論を進める・・・1990年代、日本の会社ではSAPに代表されるコンピュータを使った基幹システムERP(Enterprise Resource Planning)を導入するのが大流行した。驚きかつ感心したのは、2000年代に入ると「ERP導入に失敗するのは、他社がやるからという理由でERPを導入したからだ。もう一回『何故ERPを導入するの?』という目的を明確にして再導入すべき」という宣伝をするコンサルがいたことだ。マッチポンプ商法。これぞリクルート商法。 勅使河原お姉さんの言うことも全く同じ。「流行っているからってリスキリングをやったって失敗しますよ」だ。これが永遠に続くからコンサルはくいっぱぐれがない。 新たな課題を見つけ、それに対応しないとまずいよ、と脅し、それに対応してもそれじゃあ失敗だ、こういう風にやり直さなければ・・・とアドバイスし・・・だ。それが一巡すればまた新しい課題を流行らせて・・・永年に続くループ。 勅使河原姉さんはリスキリングについて、「成果」、その「評価」が語られないのが問題、とも言っ...

PoliPoliについて

PoliPoliという、 政治・行政と一般人が政策を共創するための プラットフォームを運営する会社をがある。その会社を率いる伊藤さんという若者がZ世代を代表して朝日新聞デジタルのRe:Ronで行われたトークイベントに登場。プロフィールは: 伊藤和真(いとう・かずま) 1998年生まれ。愛知県出身。慶応大学在学中、2017年の衆院選で感じた政治・行政と人々の距離が遠いという課題からPoliPoliを設立。同代表取締役/CEO。 このPoliPoliが素晴らしく面白い。以下、ホームページに記されたミッションを引く; 現代の政策立案という社会の仕組みをつくるプロセスは、国民の声を取り入れるというシステムが整っておらず、アナログな手法で政策の共創に取り組んでいます。 このことにより、政治家や行政職員は、多くの国民の声に耳を傾けることができないばかりか、実行している政策すらも必要な人のところへ行き届かせ、認知してもらうことも困難になっています。 国民の声を取り入れるというシステムが整っていないために、日本では国民の7割近くが自身の声が反映されていないと感じています。 多様な人々が「幸せ」に暮らしていくためには、政治・行政の政策づくりのプロセスへ誰もが参加できることが必要だと信じています。政治・行政の政策づくりのプロセスに誰もが参加できる政策共創のプラットフォームをまずは日本に、そして世界各国に展開していきます。 実際、PoliPoliGovというサイトを見ると政治家、県、各省庁などからアイデアを募集する投稿が。これなら選挙などというまどろっこしい手段によらないで、若者を含む一般人が政治に興味を持ち、政治に直接参加する機会になる。 こんなにできる伊藤さんだから欲を言えば: ① 一般人と既存の政治家の距離を縮めるべくネットを使って双方向コミュニケーションしようという狙いは素晴らしいが、俺は既存の政治や役所の仕組みはオワコンだと思っている。ついでに言えば「国」というものもオワコンじゃあないか、と思ったりもする。つまり、改善ではなく、革命が必要ではないか?と思う。日本流の革命とは、徳川慶喜や昭和天皇の様な政治家トップが自己否定することだと思うのだが、革命を起こすような仕掛けはできないものか。 ②革命とは別次元の話だが、 政治家や役人を若者の憧れの職業にし、 有為で優秀な若者が...

ガザで壊された倫理、人類は賢くなったのか 作家・宮内悠介さん寄稿

 11月17日の朝日新聞デジタルに 「ガザで壊された倫理、人類は賢くなったのか 作家・宮内悠介さん寄稿」 と題した記事が。内容はごく普通の平凡ものだ。ただ、記事の末尾に「 人類は賢くなったのか」とある。宮内さんは「人類は賢くなる」と信じていてがっかりしているような印象だ。 俺は人類は賢くならないし、進歩もしない、と信じている。人類の進歩を信じるのは根強い信仰だ。確かに18世紀の産業革命以降、19世紀から20世紀初頭の様々な新しい産業・技術の誕生発達を見て多くの人は「人類の進歩」を信じるようになった。 しかし、20世紀に入って続いた世界大戦、地域紛争、公害、気候変動、共産革命の破綻、格差拡大などは「人類は進歩などしていない(賢くなってない)」と信じさせるに十分だった。それでも、まだ、進歩主義者がメディアや政治その他において主流だ。(彼らの商売、そう信じないと成り立たないからか?) 山本夏彦さんが核兵器廃絶を語って「一度生まれたものはなくならない」とかなんとか言っていた。「一度生まれたもの」の多くが不便だとか悪いとか言われてもなくならない。つまり、人間は進歩もしないし賢くもならないと。 夏彦さんの言葉を再確認すべくネット検索したら「ikuttamの日記」というブログに「山本夏彦名言集 抜粋①」という記載があってそこから俺が更に抜粋: あれ、老衰の兆なんですよ。年をとってから一番避けなくちゃならないのは、人生の師匠になりたがることと説教すること。年とったからって自動的にひとの師匠になれるなんて、とんでもない誤解ですよ。(意地悪は死なず) 私は衣食に窮したら、何を売っても許されると思うものである。女なら淫売しても許される。ただ、 正義と良心 だけは売物にしてはいけないと思うものである。(二流の愉しみ) 本当にしみじみ、いい言葉だね。 別のブログから: 我々は大ぜいが言うことを、共に言う存在である。この世の中は、自分で考える力のある ひと握りの人 と、自分では考える力がなくて、すべて他人に考えてもらう大ぜいの人から 成っている。 人は金ほど好きなものはないというが、正義はもっと好きだ。 金銭というものは清く正しいものではない。邪悪な暗いものだから株屋はあっていい。 ただそれには 相応の差別 があるべきだ。 先方からおしかけてくるもの にロクなものはない。 正義と良心を...

ボローニャについてどちらが正しい?

2000年前後、仕事で何回かイタリア・ボローニャに行った。結構面白い機械メーカーがあった。印象深かったのはある日の夕方、数人(数十人?)が窓を開け放った部屋で話し合いをしていたのを目撃したことだ。雰囲気からして政治向きの話をしていたように思った。「日本じゃあ酒飲んで政府の悪口を言うのが関の山だが、イタリアは違うなあ」と妙に感心したことを覚えている。 さて、そんなボローニャのことを井上ひさしさんが「あてになる国のつくり方」という本で絶賛している。井上さんによれば: イタリアでは戦後、保守派の首相が、社会主義になっていたボローニャには政府から復興資金を出さない、と発言、売り言葉に買い言葉でボローニャ市民が政府の金に頼らず復興した、その中で利益目的の不動産売買を禁じ、街の中心にある歴史的建造物の外観も禁じ、機械工業その他の会社は社員200人を超えたら分社する(分社された会社は親会社の技術を流用できるが、同じ機械は作れない・・・違う用途の機械なら作れる)、市会議員や市長は無給のボランティアで昼間は仕事して夜6時から市議会が始まる・・・などを実行し1970年代前半にはイタリアで3本の指に入る収入の良い町になった・・・ これを読んで俺が夕方印象深く見た市民の話し合いは市の運営に関わる話し合いだったのか?などとも思う。 念のためボローニャをWikiってみると以下の通り、かなりニュアンスが違う。 第二次世界大戦 後は東西 冷戦 の中、 1960年代 から 1980年代 にかけて エンリコ・ベルリンゲル 書記長の元で高い人気を誇った イタリア共産党 を中心とした左派 革新政党 が市政を握る事となる。 その結果ボローニャは「革新派のショーウィンドウ」と化し、左派革新政党がボローニャの財政状況を無視し、バスの時間限定無料化や高齢者のバカンスの無料化などの様々な「革新的」な施策を行う舞台となり、財政状況が悪化し中央政府から多額の資金援助を受けることになった。 一体どっちが正しいの?1970年代までは井上さんが正しくて1980年以降はWikiが正しいの?だとすれば20001年に書かれた井上さんの記述は嘘ではないけれど、ボローニャを日本の市民のお手本として賛美したい井上さんにとって都合の悪い1980年以降については書かなかった、ということかな? 閑話休題: ボローニャの隣?にモデナという町があ...

株って面白い?

 10月上旬にベネッセ株を100株、単価1800円で買った。この株価が11月16日現在なんと約2600円に急騰。(13日にストップ高となり、その後2590円台で推移) 俺は何も知らなかったがベネッセのホームページにちゃんとその理由が出ていた。11月10日付けで「ブルーム1」という、資本金25000円の、日本人とは思えない名前の人が社長をやってる得体の知れない会社にベネッセ株を単価2600円で公開買い付けさせる、と発表をしたのだ。(買い付け開始は来年2月の予定) 上さんに言わせれば1月ちょっとで株価が上がって8万円儲けた、のだが、俺は配当期待でベネッセ株を買ったのであまり嬉しくはない。仮に年10000円の配当+優待があるとして、8年分の配当+優待を数ケ月間で獲得するという事になる。まあ、いいか。来年ベネッセ株を売って別の配当のよさそうな株を探すとしよう。 株価が上がるか下がるかなんて関係なく、配当狙いで株を買っていると、たまにはこんなこともある。(気の迷いで値上がり期待で株を買うと、儲からないか損することが多い。売り時を誤るようで、売った後値上がりすることも。)

佐高信@東京ホンマもん教室(岸田文雄について)

 佐高信が東京ホンマもん教室に出て岸田首相を揶揄(もうすでに、批判の対象ではなく、揶揄し、笑うしかないと言った風情で) ①自分の頭で考えていない 1月にバイデンと会って軍備を増強するよう命令されたあと、日米首脳共同声明に「 ロシアによるウクライナでのいかなる核兵器の使用も人類に対する敵対行為であり、決して正当化され得ない」と盛り込んだ。さて、岸田の選挙区である広島に対してアメリカは核を使った。このアメリカの核攻撃に対しては許すのか?それともウクライナ人は人間で広島や長崎で殺された人は人間でない(日本人でない)とでも言うのか???せめて、バイデンに向かって「アメリカはその『人類に対する敵対行為』をしやがった、謝れ」ぐらいのことは言え。 ②日本はアメリカ(連合国の)敵だ 国連の敵国条項では日本はまだアメリカを含む連合国の敵国だ。「敵国攻撃能力」ってアメリカを攻撃する能力のことか???? 閑話休題: 番組ではMC,藤井聡がこれは岸田個人の問題ではなく、こんなんを総裁にする自民党、首相にする国民の問題だ、と発言。その通り。もともと日本人は自分の頭で考えることが嫌いで苦手だ。戦後アメリカ様の属国、傀儡になってますますそれに磨きがかかった。戦後のそういう日本人の代表・集大成が岸田文雄だ・・・やれやれ、次の首相は自分の頭で考えられるか?そういう人間は首相まで登れないと思うが。 核使用についてはアメリカに文句言わないならロシアも許すべきだ、という屁理屈も成り立つ。

政治評論家 森田実 の言葉「小選挙区が与党の政治家をダメにした」

 中選挙区では一つの選挙区で3~5人の当選者が出る。小選挙区では1選挙区1名だ。つまり、中選挙区で与党の候補者は同じ党のライバルとも争う。個人の力も問われることになる。小選挙区では個人より、党に投票される。つまり、小選挙区では党(の偉いさん)に取り入り、好まれてその選挙区における党の代表になればよい。中選挙区では派閥の偉いさんに好まれれば立候補は出来るだろうが、同じ党のライバル候補者に勝つにはそれだけでは足りず、投票者にも認められ、好まれる努力が必要だ。 党の偉いさんから言わせれば、候補者選び=当選の可能性が高い人選びだ。何を考え、何を主張しているのかなどは二の次三の次だろう。(これを素直に率直に認める発言をしていたのは自民党前幹事長の二階さんだ・・・誰でもよいから当選できれば公認する…)そうなると①世襲②政治とは無関係に人気がある・・・てな具合で選ぶ。

インド

 十数年前、インドについて聞いていたこと: ①インドには戸籍がない・・・道端に不可触民が、生きているのか死んでいるのかわからないまま、ころがっているのを実際に見たが、彼等など戸籍の対象にならない・・・だから人口もはっきりとは分からない ②中国人には商売という考えがある・・・自分も儲けたいのと同様、商売相手の儲けも認める・・・インド人には商売とか利益などという考えはない。 ③ヒンズー教の輪廻思想の影響で、”無常観”がある・・・どうせ生まれ変わるのだから、命・身体を大切にしないし、努力して這い上がろうともしない・・・道端に寝ている不可触民は寝たままで立ち上がったり働いたりすることはない。 今、インドでは戸籍の代りに個人の生体情報をデジタル登録している(デジタル個人ID)。紙の戸籍とちがってこのデジタル個人IDは使い勝手がよい。徴税の管理にも使えるし、銀行口座の開設、電子決裁などのIDとして使える。中国奥地その他で固定電話がない地域ではいきなり携帯電話が普及した。インドにおいて戸籍がないのも逆にデジタル個人IDというツールになった。インドは、このデジタル個人IDシステムをいわゆるグローバルサウスに輸出しようとしている。これは単にグローバルサウスのリーダーになろうという試みなのか?それともアメリカがGAFAMを通じて他国の情報を抜取り支配しているのと同様のことを企んでいるのか? デジタル個人IDの管理は国による究極の個人情報管理であり、個人の自由を侵害する危険がある。このことに関しては俺はあきらめるべきだと考えている。監視カメラ、AIなどの発達から個人情報はいくら隠そうとしても隠せない。それよりは、個人情報をパスワードとして利用して様々なシステムを使えるようにするメリットに目を向ける。核にせよ、プラスティック、農薬にせよ便利な部分だけ使おうなんて虫の良いことはできなかった。そういうもんだ、とあきらめるしかない。強いて言えば、便利だ、何も問題はない、などと言ううたい文句を信じないで「どうせ禄でもないものだけど、使ってみるか」と言う姿勢でなるべく遅く使い始める、といったところか。

西郷南洲手抄言志録 より

 「言志録」:江戸時代の儒者、佐藤一斎の語録。西郷隆盛はそれを抜書きした。       俺はそこから更に以下の通り抜書き。 以下に共通するのは形あるもの(字や身体)の軽視、形のないもの、目に見えない心・魂や性(持って生まれたその人の本質)の重視だ。こういった思想は個人の考えとしては有効だが、政府・官僚組織の運営には役に立たない。これが西郷が江戸幕府を降伏させるには役立ったが、その後下野し、明治維新の10年後、明治維新について行けない昔ながらの薩摩武士とともに明治政府に楯突いて殺されなければならなかった理由であろう。一方で文字(にした言葉)や身体の軽視は日本教の重要な教えであり、自分の役目は終わったと悟り、時代遅れの薩摩武士とともに明治政府に殺される(厳密には自刃したらしいが)という自己犠牲の精神が日本人の判官びいきの心を強く刺激した。 しかし、日本にはいまだに個人の道徳、身の処し方についての思想あるいはリーダー論はあれども日本人向きの組織運営の思想ってないんじゃないか?大東亜戦争では、特攻などという、身体軽視、魂重視の戦術まで現れた。 七: 学貴自得。      学ぶという事は自得が大切 人徒以目読有字之書。 人は徒に目で書に書かれている文字を追う 故局於字、       その結果、文字で何が書いてあるのか細かく分析(局)するだけで 不得通透。      何が書かれているのかの本質には至らない 当以心読無字之書   文字に現れないを書を心を以って読め 乃洞而有自得     このことによって本質に至り(洞)、自得できる 四十三: 生物皆畏死。        生き物は皆死を畏れる 人其霊也、         人は生き物の中でも神の心を持つ 当従畏死之中、       人は死を畏れ、死について考え、 揀(けん)出不畏死之理。  死を畏れない道理にたどり着く 吾思、我身天物也。     私の身体は天物だ。 死生之権在天、       私を殺すも生かすも天次第だ 当順受之。         このことを受け入れる 我之生也、         私は自然に生まれ 自然而生、         生れる時にはまだ喜びを知らない 生時未嘗知喜矣(い)。   (生まれて始めて喜びを知り) 即我之死也、        私はまた自然に死ぬ 応亦自然而死        死ぬときにはまだ悲し...

少数意見を尊重するのは難しい?

 Yahoo知恵袋で「少数意見を尊重する」とは?という質問に対するベストアンサーを末尾に引用: その中に 民主主義の原則は「議論」です。 議論を重ねて、悪い意見を淘汰し、良い意見をより良くして行きます。 とある。 俺は、ユダヤ教徒やキリスト教徒には議論が出来るが、日本人には議論は出来ないと思っている。国会の”議論”を見よ。単に野党が野党らしく、無責任で訳の分からない言いがかり(反社の皆さんの言いがかりの方がまだ気が利いている)をつけ、与党はいい加減に答えにもならない言葉を並べ立てているだけだ。だから、日本の民主主義とは「一票でも多く取った方が勝ち」とする方がいいのだ。日本の国会では「議論は重ならない」し、「悪い意見もよい意見」もない、ただ、自分に投票してくれそうな人に対するパフォーマンスをしてるだけだ。 俺は、かつて自民党が民主党が政権を取られたように、飽きられれば、馬鹿だと思われれば与党が選挙で負けることが民主主義だと思う。選挙で勝った党が有期限で独裁政治をすればよい。そして、どうせ議論は成り立たないのだから少数意見などに気を使わず、多数決で押し切ればよい。それが厭なら次の選挙が必ずあるのだから次の選挙で勝つように努力すれば良い・・・選挙しなくなるのは民主主義ではなく独裁。 俺は、このベストアンサーのような、他所の国、宗教、民族で成り立っているものを日本人にできるかどうかを無視してありがたく押し戴くのはやめよ、と強く思う。 民主主義という代物も本当に日本人に向いているのか?も常に考えるべきだ。独裁だって悪くないかも。皆が言うから独裁は×、民主主義は〇ではなく、自分の頭で考えるべきだ。 ベストアンサー 黒やめるべきだ、男の希望 黒男の希望 さん 2013/7/9 16:02 「少数意見を尊重する」って、本当に難しいですね。 直接に説明する能力がないので、例えを並べて説明します。 ”盗人にも三分の理”という言葉があります。 盗人が、”俺は腹を減らしているのに、あいつは十分に食べて金を持っている、俺が盗んで何が悪い!”と言っても三分の理でしかありません。 十人がじゅうにん、”もっともだ!”と思っても、三分の理である以上、この屁理屈は通りません。 昔、テレビで”ジェスチャー”という番組がありました。 男女のチームに分かれて、身振り・手振り(ジェスチャー...

インフルエンザワクチンを打つ

 インフルエンザワクチンを打った。例によって看護婦が「チクッとしますよ~」と言う。「いつ、チクッと来るのかな」と持っているうちに終わってしまった。 おととし、コロナのワクチンの副反応が全くなく、結構知人が「痛かった」とか「熱が出た」などと自慢?するのを羨ましいと思っていた。恥ずかしいほど副反応がない。そこでファイザーより副反応が強いと言われるデルナに変えてみたら、ワクチンを注射する時の「チク」が結構痛かった。注射した看護婦に「モデルナって注射する時に痛いの?」と聞いたら立ち会っていた医者がすかさず「注射の仕方が下手だからですよ」と答えた。(モデルナはその後も痛みが残ったので少しは副反応があったので俺も少しは「自慢」できた) コロナワクチンの経験から考えてインフルエンザワクチンを打った看護婦の注射技術は素晴らしい、と思ったので素直に「いつ刺したか分かんなかった。注射がうまいね」と言ったら、謙遜なのか「それほど」みたいな顔をしたので俺が「それとも俺が鈍いのかな?」と言ったら笑いながら「そうです。鈍いんじゃないですか?」と来た。このクリニックの受付、看護婦は(医者も)性格はいいのだが、こういうユーモアというか、受け答えが下手だ。 しかし、このような場合、看護婦はどう返せばいいんだろうか?注射の腕について謙遜したいがために患者が鈍感だとしてしまうのはいかがなものか?やっぱり「ワタシって上手でしょ」と返すのが一番のような気がする。

国民総動員法

1938年国家総動員法が施行され、戦争に向けた国民的イベントのひとつとしてラジオ体操が取り上げられたが、その時の鳩山一郎 文部大臣の言葉:(NHK映像の世紀バタフライエフェクト より) 全国津々浦々に亘り数百万人の国民が同じ時刻を以って同じ号令の下に 一糸乱れず同一 の運動を行うことを考えますると実に壮快極まりないものがあります 協力 の精神これこそ大和民族特有の美徳であらねばならぬ 強壮なる身体 これ亦その特徴であらねばならぬのであります・・・ 「一糸乱れない同一」を「協力」と呼ぶのが日本教だ。”日本教の教え”の中で俺の最も忌み嫌うものだ。一糸乱れないことを目的とするのは愚の骨頂、ゲス・野暮の極みだ。てんで勝手にやって息が合うのがよいのだ。それが大和民族の美徳だ。 北朝鮮のマスゲームも同じ理由で大嫌い。「一糸乱れない同一」は戦後は朝鮮民族の美徳になった。