中国人の無神論・リアリズム
1961年筑摩「世界文学大系」「中国古典特集1」解説 初出の吉川幸次郎「詩経と楚辞」より引く:
BC221,秦の始皇の大帝国が出現するまでの時期は、先秦の時代と呼ばれて、中国史のはじめに位する。それは様々の意味で、以後の時代とはことなった、特別な時代である。
まず前世紀末、あるいは今世紀初めまでの旧中国の認識、またそれを受け継いだ日本儒学の認識によれば、それは完全な理想社会が存在し得た時代である、すなわち完全な道徳政治の社会であり、その中心となり指導者となるのは「聖人」と呼ばれる完全な万能の道徳者である。その指導によって、すべての人々が善意に満ち溢れる社会、それが実現し得た時代だとする。
まずあったのは尭舜その他の「五帝」の時代であり、彼らは「聖王」すなわち聖人の王者であったとされ、ここに訳出された「楚辞」にも、「彼の尭舜なる耿介(こうかい)なる」と歌われている。尭舜の時代に次いであるのが「三王」もしくは「三代」と呼ばれる三つの世襲王朝であって、やはり聖人である禹によって創始された夏王朝の数百年、聖人成湯(せいとう)によって創始された殷王朝の数百年、そののちに、文王、武王、周公の三聖人によって創始された周王朝が、この時期さいごの王朝としてあるとする。三つの王朝とも末期はいずれも頽廃に陥るけれども、創業の王たちは、聖人であるゆえに、それぞれ理想社会を実現したとするのであって、「楚辞」にはそれを「昔は三后の純粋なる」と歌う。そうして周王朝の中頃、BC500年ごろ、さいごの聖人として孔子(BC551-479)が現れる。孔子は生卒年を確定しうるさいしょの中国人であるが、このたびは孔子の努力にもかかわらず、理想社会は実現されず、戦国の紛争へとおもむく。しかし理想社会への可能性は、なお全くとざされたわけではなかったのに、その可能性を全く遮断し去ったのが、秦の始皇の暴政だったとする。そのためそれ以後は、聖人をもたない時代となる。次の漢の時代以後、聖人と呼ばれる人物はもはやいない。
つまり、先秦の時代は、人類史のはじめに位する栄光の時代、またその末期においても栄光の余光をとどめた時代として、以後の人類の常に回顧すべき時代であると、されて来たのである。こうした旧中国の認識が、日本の儒学でも祖述継承されたことは、中江兆民の言葉に、ルソー、モンテスキューの政治学説を採用するのは、手段であり、目的は「尭舜三代の治」に復帰することにあるというのがあることによっても、示される。
以上のような認識は、この時代の文献として遺存する書物に対し、特別の尊敬、あるいは少なくとも尊重を、払わせることになった。ことに尊敬を受けたのは、この時代の末にでた聖人孔子が、彼以前の文献を選択編集した「五経」であって、人類永遠の教科書であると意識され続けた。ここに訳出された「詩経」はその一つである。「経」とは、永遠の根本の書を意味し、すなわち、厳密な意味での古典の意である。(略)
古典という言葉は西洋の言葉の訳であり、本来の中国語ではない。しかし古典と西洋でいうのと似た観念があり、先秦はそうした特別な書物を生み得た時代と、意識されつづけたのである。(略)
この時期の歴史をしるした文献としてはこの時期自体に発生した「書経」「春秋左氏伝」「国語」「戦国策」などがあり、ついですぐ次の時代の人である漢の司馬遷が、それらの資料を厳密に再検討して書いた大著「史記」の、先秦の部分が、あるのであるが、記載は、最初の尭舜の部分をはじめとして、常に伝説的な.あるいは小説的な、ふくらみを見せ続ける。このことは最後の時代である戦国時代の部分についてもそうである、厳密な歴史叙述であることを志す「史記」のその部分も例外ではない。
といって、それはわが「古事記」に見るような神話と歴史の混在が、その原因となるのではない。尭舜の事蹟をはじめとして、事柄は地上の人間の事実というかたちで記されている。人間を超えた超自然の世界の事柄としては、記されていない。このことは神話が本来なかったことを必ずしも意味しないのであって、神話が相当量存在した時期のあることは、「楚辞」の「天問」の篇が神話についての質問を、つぎつぎに提出することによって、示唆される。しかし「楚辞」以下の書物が、神話的な記載に冷淡だったからである。神話を拒否する態度は、司馬遷の「史記」において最も顕著であり、彼は、神話的な伝承の切り捨て、また神話的でない資料についても、不合理な部分の切り捨てを、あちこちで宣言している。にもかかわらず、「史記」の叙述も、先秦の部分に関する限り、やはり何かふくらんでおり、秦始皇以後のについての彼の叙述が、確実無比であるのと、似ない。(略)
人間の救済は、神によってはなされず、人間自身によってのみ、可能である。それが中国的な精神の基幹であり、中国の文明は当初から、そうした方向を主流として発生したように見える。少なくとも現存の文献による限りそう見える。神話の早い消滅、「聖人」の概念の成立は、それを示す。万能の道徳者である「聖人」、それは神を地上の人間の間に求めたものであり、この概念は、早く「論語」「孟子」に見えている。
人間の人間による救済、その方法としてはよき政治が考えられなければならない。政治への強い関心はそこから生まれる。また人間の救済者は人間であるとするならば、人間の善意の能力へのあくなき期待が生まれねばならない。
救済者として期待される人間、その大多数は凡人である。凡人の一挙一動への注視がそこから生まれ、文学の感動もそこに題材を求める。
そうした精神を、文明の原初において、原初であるだけに強烈に示すのが、「詩経」の文学であり、「楚辞」の文学である。なるほど屈原の魂は、神々の世界をさまよっている。しかし救済はけっきょくそこでは求めあてられない。
閑話休題:
「経」とは、永遠の根本の書を意味し・・・中国人は神話は奥にしまい込んで、永遠の根本の言葉=ロゴスを残した。この点はギリシア人やユダヤ・キリスト教と同じだ。日本人はロゴスなど無縁で神様と仲良く遊び、自然と折り合おうとした。
中国人は救済を神にではなく、徳のある人間=聖人に求め、聖人による理想社会の実現のよって救済されると考えた。日本人は自然によって救済され、キリスト教徒は神によって救済される。自然は中国においては日本ほど人間に優しく恵みをもたらすものではなく、またキリスト教の生まれた砂漠ほど人間に厳しいものではなかった。
中国人にとって神は絶対的な力を持たず、人(聖人)が神の代りだった。神同様、人が人を地獄にも落とし、救いもした。しかし、初代は聖人で理想社会を作るが代が重なると廃頽していく、と考えるのは何故だろうか?これは頽廃して必ず革命が起こるという弁証法的歴史観だ。(今の中国共産党も、この、自分たちは革命によって葬り去られるという歴史観は持っているだろう。そして革命が起こるのを一日でも遅くしようと努力している)
永遠の救済とか天国などは中国人にはない。永遠の救済といえば魂が思い浮かぶが、魂などというものからも目をそらす。孔子も「いまだ生を知らず。いずくんぞ死を知らん。」と言って知らんぷりをする。「魂だ、永遠だなどと御託を並べる前に、周りをよく見て救ってくれそうな人を探せ、さもなければ自分が救済者になる算段をしろ」という事だろう。
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