西郷南洲手抄言志録 より

 「言志録」:江戸時代の儒者、佐藤一斎の語録。西郷隆盛はそれを抜書きした。

      俺はそこから更に以下の通り抜書き。

以下に共通するのは形あるもの(字や身体)の軽視、形のないもの、目に見えない心・魂や性(持って生まれたその人の本質)の重視だ。こういった思想は個人の考えとしては有効だが、政府・官僚組織の運営には役に立たない。これが西郷が江戸幕府を降伏させるには役立ったが、その後下野し、明治維新の10年後、明治維新について行けない昔ながらの薩摩武士とともに明治政府に楯突いて殺されなければならなかった理由であろう。一方で文字(にした言葉)や身体の軽視は日本教の重要な教えであり、自分の役目は終わったと悟り、時代遅れの薩摩武士とともに明治政府に殺される(厳密には自刃したらしいが)という自己犠牲の精神が日本人の判官びいきの心を強く刺激した。

しかし、日本にはいまだに個人の道徳、身の処し方についての思想あるいはリーダー論はあれども日本人向きの組織運営の思想ってないんじゃないか?大東亜戦争では、特攻などという、身体軽視、魂重視の戦術まで現れた。


七:

学貴自得。      学ぶという事は自得が大切

人徒以目読有字之書。 人は徒に目で書に書かれている文字を追う

故局於字、       その結果、文字で何が書いてあるのか細かく分析(局)するだけで

不得通透。      何が書かれているのかの本質には至らない

当以心読無字之書   文字に現れないを書を心を以って読め

乃洞而有自得     このことによって本質に至り(洞)、自得できる


四十三:

生物皆畏死。        生き物は皆死を畏れる

人其霊也、         人は生き物の中でも神の心を持つ

当従畏死之中、       人は死を畏れ、死について考え、

揀(けん)出不畏死之理。  死を畏れない道理にたどり着く

吾思、我身天物也。     私の身体は天物だ。

死生之権在天、       私を殺すも生かすも天次第だ

当順受之。         このことを受け入れる

我之生也、         私は自然に生まれ

自然而生、         生れる時にはまだ喜びを知らない

生時未嘗知喜矣(い)。   (生まれて始めて喜びを知り)

即我之死也、        私はまた自然に死ぬ

応亦自然而死        死ぬときにはまだ悲しみを知らない

死時未嘗知悲也。      (死んで始めて悲しみを知る)

天生之而天死之、      天が私を生み、殺す

一聴于(う)天而巳(のみ)、天に聴かせよう           

吾何畏焉(えん)      私は死を畏れようか

吾性即天也。        私の生まれつき(の本質)は天そのものだ。

軀殻即藏天之室也。     身体は天を収める入れ物だ。

精気之為物也、       魂が働いている時

天寓於此室。        天はこの入れ物に身を寄せる

遊魂之為変也、       魂が身体から離れるような変化が起こると

天離於此室。        天もまたこの入れ物から離れる

死之後即生之前       死の後はすなわち生の前

生之前即死之後。      生の後はすなわち死の前

而吾性之所以為性者、    私の生まれつきの本質は

恒在於死生之外、      恒(つね)に死生の外にある

吾何畏焉          死を畏れる理由があろうか

夫昼夜一理、        昼と夜があるのは道理による

幽明一理。         暗い明るいも道理による

原始反終、         始まりに行くと終わりに帰るのも道理

知死生之理、        死生の道理も同じ

何其易簡而明白也      これは簡単明瞭な道理か?

吾人当以此理自省焉     私はこの道理を何回も問い直す


四十四:

畏死者生後之情也       死を畏れるのは生れた後の情だ

有軀殻而後有是情。      身体があって初めてこのような情が生ずる

不畏死者生前之性也、     死を畏れないのは生れる前の心だ

離軀殻而始見是性。      魂が身体を離れて始めてこの心が見えるようになる

人須自得不畏死之理於畏死之中、死を畏れるとは何かを徹底的に考えて何が何でも死を畏れ

               ぬ心にたどり着くべきだ

庶乎(ちかし)復性焉     そうするのが生まれつきの本質に帰るのに近い        

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