この歳にして尊敬できる人を見つけた(串田孫一)② <子育てのヒント>
「考える遊び」 より子育てに関するものを引く: 俺のコメント 「羞愧(しゅうき)の笑い」より抜粋 幼児は走り回っていて転ぶと泣き叫ぶ。突然に起こったこの出来事のための驚きと、打った膝や掌に徐々に感じられてきた疼痛と、それから他に何が考えられるだろう。近くに親がいるかいないかはほとんど関係がない。起こしてくれて泥を払い、慰めてくれる言葉を要求しているのだ、と言うのは考え過ぎである。 子供が成長してくると、転んだくらいでは泣かなくなる。それは幾度かの転倒の経験によって、泣くほどのことではないと分かり、転んだくらいでいちいち泣くものではないという大人の意見がなるほど無理な注文ではない、と理解されたからだ。だが、もうひとつは他人を意識し始めたことである。特に同年輩の子供が自分の転倒という明らかな失敗を見ている時、その目が、泣くだろう、痛がって顔をゆがめるだろうと、意地の悪い期待をしているのが感じられると、この期待を裏切ってやることが先決問題になる。 それはこともなげに装う事が出来れば、それに越したことはない。子供の中にはこうした理想主義のひな形がいろいろある。たとえひな形であろうとも、理想主義は常に可能か 不可能かの区別の向こう側にあるから、万事がそれに似た仕組みの中にいる子供にとっては有効である。 自分の身に振りかかった大小の出来事、事件にこともなげに当たるというのは、大人の理想でもある。その内容も大して変わってはいない。子供も理想を手に入れ難いことが分かると模倣する。模倣を理想への入り口だとするのは心得違いである。子供は転んで痛くとも我慢する。少しくらい血を流しても平静を装う。もちろん、それは沢山の他人の目のためである。 「美しい身の熟し(こなし)」より抜粋 モンテーニュの「随想録」の中には「子供の教育について」という題の章がある。ギュルソン伯夫人ディアーヌ・ドゥ・フォアに献げたものであるが、人間の学問のうちで一番難しくまた大事なのは、子供の教育であると強調している。ここでnouritureとinstitutionという二つの言葉が書かれいる。古い意味でinstitutionは(子供の)教育であり、nouritureはやはり古い時代には「躾」の意味で使われていた。そして興味があるのは、モンテーニュがそのことを説明するのに農作物を例に挙げていて、農作...