「最後は金目(かねめ)でしょ」

 東日本大震災の後、石原伸晃が原発事故の後始末を巡り「最後は金目(かねめ)でしょ」、と本当のことを言ったら大問題にされ、それ以降、彼の政治家としての運が衰えて行ったという印象がある。

人間、働いたら結局は「金目」でその働き具合を評価される。俺が今、仕事もせずに”悠々自適”な生活を安穏に送っているのは、現役時代の貯蓄と年金のおかげだ。貯蓄+年金は「自分の働きに対する評価・報酬・ご褒美」と考えることができるが、「働く」を「生きるために必要なモノ、コトに関わる」と定義すると、『はて、俺の”働き”ってこんな大きな金目に価するだろうか?』と素直に思う。俺は現役時代、生きるために必要なモノ、コトに関わったことなんてほとんどない。小学生時代”掃除するふり”が上手かったが、その延長で「働くふり」が上手かっただけだ。それで過分なご褒美をもらった感じ。

一方でエッセンシャルワーカーと呼ばれる人、介護従事者、工事作業者、農業漁業従事者などなどの働きに対する評価は低すぎる。そう思うならそういう人たちにお前が受け取った「過大な金目」を分配しろ、という事になるが、問題が。金目全部を他人に上げちゃうと、自分が生きることができない。今から働いて食い扶持を稼げ、という考えもあるが、あと何年で死ぬのか(あと何年生きなければならないのか)見当がつかないから、死ぬまでの収支バランスの取りようがない。特に働けなくなってから何年生きなければならないのか?が問題だ。働けなくなったら即死ぬ、という考え方もあると思うが、今のところ、これを合法的かつ他人に迷惑かけないで実行することは難しい。

根源的には、働きや、生きるのに必要なモノ、コトを金目で評価するからこんなおかしなことになるのだ。百歩譲って金目で評価するにしても、定量的・客観的な評価基準、評価ツールがないことが問題だ。ここで俺の考えは限界だ。

資本主義って、生きるのに必要なモノ、コトに関わってカネを得て、そのカネを自分が生きるのに必要なモノ、コトに使う、ということだ。そして資本主義の矛盾とは、この仕組みが段々上滑りになって、生きるのに必要かどうかが無視されて、いくらカネが得られるか、いくらカネが必要かということだけにフォーカスされるようになるということだ。最近の転職ブーム?は、それを通り越してカネではなく、「カネがたくさん得ることが出来そうな仕事、会社。ポジション」或いは「そうできる潜在能力」が格好良い・価値があるとされ、求められているということではないか?

コロナのおかげで少しは「生きるのに必要なモノ、コト」に関心が行って、それはよかった、と思う。

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