【太平洋戦争】「2000万特攻」を叫んだ「特攻の父」が遺書に記した「世界平和」という言葉の真意
神立尚紀氏が現代ビジネスに以下: 飛行機に爆弾を抱いて敵艦に体当りする、日本海軍の「神風特別攻撃隊」は、戦況が日本に決定的に不利となった昭和19(1944)年10月20日、日米両軍の決戦場となったフィリピンで、第一航空艦隊司令長官としてマニラに着任したばかりの大西瀧治郎中将の命により編成され、10月21日に初めて出撃し、10月25日、最初に敵艦隊に突入した。 自らを犠牲にしての「体当り攻撃」すなわち「特攻」の発想自体はそれ以前からあって、大西のオリジナルというわけではない。昭和19年2月以降、人間魚雷「回天」、特攻艇(爆薬つきモーターボート)「震洋」などの開発がはじまり、8月には人間爆弾「桜花」の開発も始まった。9月13日には海軍省に「海軍特攻部」が新設されている。そのための部隊もすでに編成され、「特攻」という戦法を採用すること自体は海軍としての規定方針だった。あとは、誰が最初に命令をくだすか、という段階にまでことは進んでいた。 レイテ湾に大挙押し寄せた米艦隊との「決戦」を前に、第一航空艦隊司令長官として大西が着任したとき、すでにフィリピンには日本海軍の飛行機は35機から40機程度しかなかった。この残された数少ない航空兵力をもって、味方主力艦隊のレイテ湾突入を支援するため、圧倒的な戦力を誇る米空母の飛行甲板を一時的にせよ破壊するには、もはや「体当り」しか方法はない、というところにまで日本軍は追いつめられていたのだ。 そもそも、米英を相手とする戦争に勝算がないことは海軍上層部の共通認識であり、大西自身も開戦前から見通していたことであった。それなのになぜ、大西は、搭乗員の生還を期さない非情な命令をくだし、のべ数千人もの若い命を爆弾に代えて突入させたのか。 大西は昭和20年5月、軍令部次長として内地に呼び戻されたが、7月26日、連合国によるポツダム宣言が発せられたのちも最後の最後まで講和に反対し、徹底抗戦を叫び、 「あと2千万人の特攻隊を出せば必ず勝てる」 などと非情、いや非常識きわまりない主張をしたと伝えられている。 そして、天皇がポツダム宣言の聖断をくだし、国民に終戦を伝える玉音放送が流れた翌8月16日未明、大西は渋谷南平台の軍令部次長官舎で自刃して果てた。その行動の表層的な部分だけを見れば、まさに正気の沙汰ではない。 ――ところが、大西が遺した遺書には、つ...