福田恒存 名言集

 Energy・1967年10月号  「世界の孤児・日本」

大阪へ行くには飛行機で行くか自動車で行くか、新幹線を利用するかその3つの方法論的対立のためにコンセンサスを求めるとすれば、その前に大阪行きを是とするコンセンサスが成立していなければならない。青森行きを主張する人と大阪行きを主張する人との間では「話し合い」も何もあったものではない。「多数の暴力」と言う妙な言葉を人々は無神経に使うが、もし民主主義を可とする以上、多数の意見に従うのが穏当であって、それが暴力でありうるはずがない。少数の意見が通ったら、それこそ暴力なのである。それにもかかわらず、「多数の暴力」と言う言葉が何となくもっともらしく聞こえるというのは、大阪行きと青森行きと全く別方向を主張する人たちが、それでは民主主義など成り立たぬのに無理してそのルールを奉じようとし、「話し合い」の原理などと甘ったれたことを言うからである。青森行きを考えている人にとっては、大阪行きを前提としての飛行機、自動車、新幹線という3つの方法の差など、たとえ民主主義的にもせよ話し合いの余地はないはずでるから、当然3つとも拒否して「歩いて行こう」ということになる。歩いているうちには皆を煙に巻いて青森の方へ誘導できる可能性があるからだ。そういう人達から見れば動き出したらレールの上を一途に大阪へ向かう新幹線採用の決議は「多数の暴力」とせざるを得ない。してみれば、多数決も民主主義も少なくとも大阪行きと言う大前提についてだけはコンセンサスが成り立っているところでなければ、全く意味のない原理と言わなければならない。

そういうコンセンサスの基盤が日本では全く存在しない。何故か。理由は簡単である。一つの共同体を形作るためには、合理主義的分析の手の届かない価値観の共有がなければならず、その価値観の共有は必ずしも天降り式の抽象的なものによって生ずるのではなく、日常の風俗、習慣、行事、しきたりの如きものまで含めての文化の連続性によって保たれるものなのであるが、明治以降の日本は、殊に戦後の日本はその連続性を切断することに狂奔してきたからである。更に端的に言えば、文化の連続性を切断し、「前向きに」前進することを唯一の生きがいとし、共有の価値観としてきたからである。

>>ここにも、日本では民主主義が成り立たない理由がある。国は守るべきか、他国に差し出すべきか?冷戦盛んなりし頃は、野党と呼ばれる政党は、アメリカではなくて中国やソ連に日本を占領してもらいたい、と思っていたとしか考えられないことを主張した。ここで基本的な価値観が違うのだから多数決もへったくれもない訳だ。

文藝春秋・1968年8月号「偽善と感傷の国」:

話し合いとはたとえ話し合いがつかなくとも所詮別れられぬと諦めた親子や夫婦の間で行われるものであって、これを複雑な人間関係を処理する都政や国政に利用するのは不可能である。親子や夫婦の間で、話し合ったところで解決はできないと知りながら、それで諦めていられるのは、解決不可能の責任は相互にあるという信頼感が根底にあるからである。信頼の鍋蓋で不満の臭気を押さえることが話し合いなら、話し合いこそ民主主義の敵である。元来、民主主義とは、話し合いによっては解決できない対立を処理する方法の一つなのである。が、それは唯一の物ではない。小は家長から大は一国の独裁者による専制的処理法と言うのもあるし、私刑や強い者勝ちに任せるピラト式処理法もある。民主主義は唯一の処理法ではないばかりか、最善の処理法でもない。それはただ単に最悪の事態や悔いを残すような間違いを避けるための消極的=防衛的方法に過ぎない。が、もしその程度のものを最善の社会をもたらすための最善の方法と勘違いしているなら、民主主義とは我々を滅ぼす最悪のものとなろう。

汚職もまた悪いと決まっていることだ。が、これだけはいくら悪口を言ってもどこからも文句が出ないと承知して居丈高になると言うのは、やはりタブーに卑屈な弱者の劣等感が裏返しに裏返しに出たものとしか思われなかった。もしそれを公憤や正義感の発露と自他ともに思い做す なら、偽善もここに極まれりと言うほかない。

どんな些細な利己心も、近頃は決して素肌を見せない。その裸心を一部の隙なく鎧おう動機付け用のレディーメイド、ハーフメイドの観念が山ほど用意されている。そういう空疎な言葉や観念の方が、利己心丸出しの戦争より遥かに恐ろしいことを、そしてライフルやダイナマイトどころか、原水爆より遥かに危険な破壊力を持っていることを、人々はそろそろ気づいてもよい。

私は初めに民主主義は温情主義的な話し合いを意味するものではないと言った。そういう馴れ合いを拒否する乾いた冷たい政治体制だと言った。が、ここまでくれば、もう少し深く掘り下げて見なければならない。と言うのは元来民主主義と言うものにはそういう風に勘違いされても仕方がないような、あるいは意識的にそういう風に利用されるような弱点が潜在しているということである。すでに述べたように、民主主義は最善の社会をもたらす最善の方法ではなく、ただ単に最悪の事態を避けるための消極的・防衛的方法に過ぎない。もしそれを最善の方法と考えたとしたら、民主主義ほど始末に負えぬ代物は他にないだろう。言うまでもなく、民主主義は君主、支配者、政府権力などの強者を、その利己心と横暴を抑止する手段として思いついたものである。その意味において消極的、防衛的なのである。機構の隅々に安全弁を設え(しつらえ)、強者の利己心、すなわち悪の跳梁を抑制し防御しようと言う訳である。つまり、敵を仮想した思想であり、敵意に備える思想である。が、悪を押さえると言う消極的行為はそのまま善を生む積極性には転じはしない。悪を行う能力の喪失は善を行う能力の育成を意味しない。人がもし個人の力をもって悪と闘い、これを抑えようとすれば、それは勇気と言う美徳に通じる、同時に、この美徳の花の根方には利己心と言う蛆虫も巣くっていようが、この闘いは敗ければそれきりの結果論で処理されてしまう。それでは救われないと思った人間の「知恵」が個人の力の代わりに機構の安全弁と言うものを発明した。そうなれば、強者の悪を抑えるのに勇気も要らなければその他の徳目も要らない、道徳の介入する余地はどこにもなくなった、万事は法と規則で片がつく。

こうして百年たち、二百年たち、民主主義は見事成功したのである。強者、実力者を雁字搦め(がんじがらめ)にする機構、なんなら機械と言ってもよいが、それに頼って生活しているうちに、人間は善を行う能力を失い、そしてまた自他の悪を抑えることをそのまま善行と勘違いするようになったのである。そこへ来たのが大衆の蜂起である。というよりそうなれば大衆の蜂起あるのみである。強者の自己主張と自己正当化を抑えることに長年専念してきたいるうちに、その方法がいつのまにか大衆の自己主張と自己正当化の武器に転化してしまったからだ。当然、民主主義は蜂起した大衆、すなわち新時代の強者に対しても、その悪を抑制すべき役割を引き受けなければならぬわけだが、実情はそうはいかない。何故なら民主主義は悪そのものを抑制する道徳的原理ではないからだ。民主主義は発生的にも、本質的にも、強者の悪を抑える政治的原理に過ぎない。弱者が如何に多数と集団を頼んでも、それがあくまで弱者である限り、これを抑えることは出来ない。少なくとも本質的にはその能力はない。すでに明白なことだが、大衆は民主主義の安全弁を常に逆用する。彼らは「・・・してはならない」という消極的理念を、あるいは「・・・すれば危険である」という防衛的理念を楯に、自己主張と自己正当化を謀る。全学連が如何に積極的で勇敢に見えても、彼らの拠り所とする理念は、たとえば「反戦」ということであり、それはいわば戦争の危険防止と言う消極的な行為に他ならず、平和を持ち来たらそうと言う積極的な行為ではない。が、民主主義はそいいう様々な理念に対して、宿命的に寛大な理解者でなければならないのである。

恐ろしいのは利己心と怠惰と破壊とそしてそれらを動機づけし、理由付けする観念の横行である。”考える”とは、今ではそういう観念を巧みに操ることを意味するようになってしまった。そういう世の中で本当にものを考え、物を育てて行くことがどんなに難しいことか。

>>民主主義とは、強者の悪を抑えることしかできない弱者に権利があることを建前とする政治。善をなす者は、そうしない者に抑えつけられる仕組み。真剣に善をなしたい者は、独裁者にならざるを得ない。

読売新聞・1965年9月1日「ごろつき」

この夏は晴れた暑い日が少なくて海岸業者は上がったりだったと言う。鎌倉では業者が警察に嘆願したのか、圧力をかけたのか、遊泳禁止の網を潜って、海中に縄を張り、その外に出てはいけないと言う珍妙な便法を講じたが、それでも溺死者が出て、行楽客は大いに怒ったと言う話を聞いた。警察に怒ったのか業者に怒ったのか詳しいことは分からないが、とにかく随分変わった世の中になったものだ。海中にコンクリートの防波堤でも作ったのならいざ知らず、荒波の寄せ来る中に縄の一本や二本を張り巡らしただけで、わが身はその外に洩れないものと信じ込む人はまさかいまい。波は寄せて来るだけで引かないものと、まさか学校で教えてはいまい。すべてを承知の上で入ったのなら、たとえ無事に帰れたとしても、私は彼らを馬鹿と呼ぶ。いや、馬鹿より始末が悪い。馬鹿なら溺死者が出たからと言ってどこに原因があるか発見し得ないであろう。が、彼らにはそれを発見する特殊な「能力」が備わっているらしい。なぜなら、業者だか警察だかの人命軽視に文句をつけたというからだ。ふざけてはいけない。人命を軽視しているのはご当人ではないか。全く変わった世の中になったものである。遊泳禁止や登山禁止に対しては、基本的人権や自由の抑圧だと絡み、縄を張って人権と自由を半分許せば、金儲けのために人命を軽視するのかと抗議する。この種の人間はごろつきと少しも変わりがない。だが、ごろつきはどんな時代にもいる。多少その数が多くなっても、それだけで世の中が変わったとは言えない。ただ、おかしいのは、昔のように彼らを馬鹿呼ばわり、ごろつき呼ばわりしなくなったことである。新聞やテレビでは始終、彼らの「不注意」を指摘し、懇切に訓戒を垂れている。それで思い出したが、私が家を出るとき、母は決まって玄関まで送ってきて、「ハンケチは忘れないだろうね、煙草はライターは」と注意を促す。あれと同じだ。余惟えらく「民主主義とは人民を子ども扱いすることと見つけたり」

>>母親に注意してもらうことを期待するのが「お上主義」だ。そして間違い、不都合が生じれば、母親が悪い、とするのが「お上主義」だ。あとでも出て来るが「ちょっと考えれば分かる」ことを分かろうとしない愚民は、自らリスクを取ったりリスクを避けることではなく、”母親”の注意の仕方のまずさを見つけ出すことに頭と才能を使う。

読売新聞・1965年9月8日「常識の鼻」

法治国家である以上、判決が下るまでは犯人は存在しないのである。取り調べで自白したところで、法廷で覆せばそれきりの話である。松川事件の例を想起すれば十分納得できるはずだ。容疑者になった途端に急に呼び捨てにして、白と決まったら「氏」や「さん」の称号をお返しすると言うだけで簡単に片付くことであろうか。

ヴェトナム問題などを政争の具にしていたのでは、日本はヴェトナム戦争に巻き込まれる前に、第二のヴェトナムになってしまう。それが目的だと言われれば何をかいわんやだが。

>>最近は「容疑者」という意味不明な呼び方を使う。いまだに沖縄の自衛隊を強化したら「戦争に巻き込まれる」と言う。「巻き込まれる」ってのは一体いつだれが発明した言葉なんだろうか。「巻き込まれない代わりに敵に好き放題やられればいい」ということらしい。この厭らしい偽善ぶりに比べると非武装中立なんてのは分かりやすく、可愛かった。

読売新聞・1966年4月20日「高校野球」

少々時節はずれの話になるが、高校野球のバカ騒ぎにはうんざりしている。私は総じてスポーツと称するものにあまり関心はない。しかし、スポーツに興味を持つ人の数は多く、その気持ちは理解できるし、結構なことだと思っているから、それにとやかく言う気はさらさらない。ただ高校野球だけは困りものだと思っている。第一に表芸の学業にしてもいくら優秀な成績を修めようが、高校生などをニュースの話題に上らせるべきではない。まして裏芸の野球など、どちらが勝とうが敗けようが、犯罪を行っても匿名の資格しかない高校生を新聞の話題にすることはあるまい。高校野球の優勝者を花形扱いしている陰で、どんなことが行われているか、世間は知っているだろうか。ちょっと考えてみれば、およそ察しのつくことだが、今の世の中はその「ちょっと考えてみる」暇がちょっともないほど次々に話題の波に押し流されているようだから、私自身の経験したことを話して参考に供しよう。

私は大学を出て間もなく地方の旧制中学校に赴任した。当時、その学校は甲子園の優勝候補であった。そうなると校長が野球に夢中になるばかりではない、町会議員初めその町の有力者が夢中を通り越して熱狂的になる。町の名を全国に鳴り響かせようと言う無邪気なのもあれば、その結果何らかの余得にあずかろうと言う邪気のあるのもある。当然、彼らは校長を通じて我々教師に圧力をかける。今から考えれば若気の至りと笑って過ごせるが、私はおかげでその学校をお払い箱になった。5年生の投手の白紙答案に零点を付けたのと、小学校から有力選手を引っ張るため、入試に落第点を取った子供に入学許可を与えようとする及落会議で反対意見を述べたのと、その二つの理由による。その頃の県立中学でさえそういう状態だったのだから、今日ではどういうことになっているかと怪しんだとしても、あながち猜疑心が強すぎるとは言えまい。高校野球の新聞記事は試合の経過や勝負ばかりでなく、そういう裏話も載せてもらいたいものだ。

>>犯罪を行っても匿名の資格しかない高校生とはけだし名言だ。人を殺しても責任を問われない気違いも同様だ。人を殺しても責任を問われない人間に「人権」はない。それにしても、”気違い”の変換の面倒なこと。

1969年2月17日・産経新聞「焼身自殺は大罪である」

チェスタトンいわく「殺人者は唯一人の人間を殺すに過ぎない。が、自殺者は自分の目の前から全人類を抹殺する。また戦争で敵を殺し、敵の都市を破壊する残虐な行為も、わが身一つを殺す自殺行為に比べればまだしも罪が軽い。なぜなら兵器をもって建物や人を殺してもそれは「ただそれだけ」の事に留まる。その憎悪心を肯定する訳には行かないが、彼、彼らの憎悪はお互い様のことであるばかりか、単に特殊な対象に向けられているに過ぎない。が自殺者は生命そのものの否定者である。鳥が鳴き、花が咲き、雲が流れる美しい自然を、そしてまた一方では戦争も行うが他方では勤勉に働き、家族や友人を愛し、努力し発明する人間の善意を、己一個の心情や正義感を以て一瞬に否定し去る、それが自殺である。そう考えればこれほどの許すべからざる大罪はない。チェスタトンの活躍した時代は第一次世界大戦後の絶望と虚無の時代である。人生の生きるに値しないことを見抜いた聡明な人間が自殺するのは当然で、将来、文明が発達すれば銅貨一つ放り込むとすぐ死ねる自動販売機も作られるだろうと書いた有名な評論家も出て来たくらいだ。我々は自殺者のあったことを知るたびに、「私は当然の理由によって死んだのに、お前たちはその当然をまだ悟らず、呑気に生きているのか」という批判を受けているのである。人々は無意識のうちにその脅迫的非難を感じているに違いない。焼身自殺者は正義の抗議と言う美名でその看板を塗り直し、相手に罪を着せる。その点、亭主の浮気を恨んで自殺する女と同様である。切腹も心中も抗議と言う正義感、もしくは怨恨、脅迫から出たものではない。戦争反対を叫びながら神から授かり、親から授かった自分の生命に、あるいは生命そのものに戦いを挑むのは矛盾である。

>>キリスト教は自殺と大量殺人はどちらが悪いとしているのか?知りたい。人命尊重という切り口から覗けば自殺の方が罪は軽そうな気もするが…。しかし、キリスト教も異教徒はもちろん、キリスト教徒同士でも大量殺人してきた。そう言えば、ヒトラーは自殺した、と伝えられているが、本当なのか?キリスト教徒ではなかったということかな?

1969年2月24日産経新聞「最悪の事態を示せ」

「希望的観測」に頼って「事実」を見逃すことはこの前の戦争以来、日本人はこりごりしているはずである。が、どうやらそうではないらしい。国際問題と国内問題を問わぬ、政治問題と教育問題を問わぬ、今日の新聞や多くの知識人は自分たちに好都合な傾向だけに目を付け、不都合なことについては自他に目隠しする習慣があり、その点では戦前戦中と少しも変わっていない。沖縄問題でもそうだが、こちらの希望や理想を述べることはよい。が、その実現の可能性如何の方がずっと考えるに値する問題である。可能性としての「最悪の事態」について本土、沖縄の住民に目隠ししながら甘い話ばかり論じ合うのは、沖縄住民を軽んずる愚民政策でしかない。沖縄問題ばかりではない。例えば安保条約でも同じことだが、その自動延長を考えている自民党も、その廃棄、非武装中立を考えている社会党も等しく自党案の「最善の事態」のみを国民の前に示している。殊に社会党の非武装中立についてその感が強い。しかし、公平に見ていかなる政策も所期通りに行く場合は滅多にないのだから、それが逆目に出たとしたら、その「最悪の事態」はどんなものか、私たちの知りたいのはその一事あるのみである。そもそも民主主義なる政治形態は「最善の事態」を持ち来たらすための制度ではなく、「最悪の事態」を防止するための防衛的制度なのである。今度の選挙では各党共に「最善の事態」としての綱領など、もう耳にタコができるほど聞かされてきたから、そんなことはやめにして自分たちの政策が実現された場合に起こる「最悪の事態」はこの線だという所を示してもらいたい。そうすれば、国民はそれぞれの最低線を見比べてその一番高い政党を選べるというものである。

>>原水爆禁止、あるいは北朝鮮拉致問題早期解決…希望を言うのは許そう。だが、その実現する可能性のない希望(妄想と呼んでもいいだろう)をメディアは懲りずに何十年間も取り上げ、政治家も「そんなの無理じゃん」とは言わない(言えない)。もはや偽善の域を超え、虚偽・お芝居だ。

敗けたらどうするとか、失敗したらどうする、ミスしたらどうする?と言ったことを口にするのは日本人は「縁起が悪い」と言って話したり考えたりすることに躊躇する。最悪に備える代わりに呪文を唱える。昔は「鬼畜米英」とか「撃ちてし止まん」「一億火の玉」などと言った。現代は「ご安全に」「ゼロ災」だ。

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