最近の若者論
1930年代に515事件や226事件を起こした若者(青年将校)たちは、自分たちの故郷の農民が苦しんでいるのに、政争や金儲けに血道を上げる政治家、財閥を憎んで、つまり国を憂いてテロを行った。1960年代の学生運動も労働者やプロレタリアートを苦しめる資本主義を打倒するのが目的だった。これも自分自身のためというより公共のためであった。俺たちの世代、1970年代の若者は、学生運動の挫折・失敗を目の当たりにして「シラケて」いた。無気力だった。しかしまだ、世話好きな親や先輩や上司などとのしがらみ、つながりは残っていた。クラブ活動その他で長時間拘束されていると、あまり余分なことは考えないでいられたし、友人や先輩後輩がいて孤独を感じることもなかったように思う。しかし、長時間集中したり拘束されたりするものがない連中の中には統一教会などの宗教に入った者もいた。これはある意味当然で、時間があれば余計なことを考える。考えれば大体マイナスの方向、悪い方向に陥るからそこから這い出すのに宗教を頼るということはあり得る。(実際、俺の結構仲の良かった友人が浪人している間に統一教会に入って「勝共」などという文字が躍っている本を渡されたりした。)統一教会やオウム真理教などの宗教も入信するきっかけは自分自身の個人的悩みであり、それが入信後、様々な社会的・政治的な活動に引き込まれて行ったということだろう。つまり、1970年代~1980年代の若者は徒党を組んで国や体制を変えようということはしなかった。一方でまだ個人がバラバラに分解されてもおらず、ある程度の他人とのかかわりも残っていた。 2000年以降、個人がどんどんバラバラになっている。「自己責任」という考え・言葉と一緒になって。自己責任って非正規雇用の拡大と軌を一にしている印象だ。そして自由とセットになっている。(非正規雇用労働者でいるのもその人の自由?)これが小泉売国奴政権の残した最大の汚点かも知れない。自由とセットになるべきは、自由競争に負けた人を救うためのセーフティーネットや敗者復活のチャンスだ。自由に不慣れな日本人はここが弱い。ここに統一教会その他の新興宗教がつけ入るスキが。 また2010年以降、SNSが「飯のタネ」になって、有名YouTuberその他のインフルエンサーと呼ばれる人が憧れの対象となった。インフルエンサーになれば、金銭欲も承...