”人間”について

 日本人論でよく言われるが、「日本人は『空白』に意味や価値を見出す」と言う。歌やセリフの”間”であり、また、絵画の”余白”などがその例として取り上げられる。一方で、これまた日本人論でよく言われることに「日本人は個、自我が弱く、関係を重視する」という論がある。関係=その場の空気であり、俺がよく取り上げる例は「空気と既成事実に押し流されて日本人は負けると分かっている戦争を始めた」である。

ふと、”人間”という日本語が気になったので手元にある漢和辞典(三省堂)で

「人」を引く。

①ひと、人類

②他人 とある。(人の意見、人のもの・・・など)

「間」を引くと

①あいだ(中間)、間柄・仲、うち (山間、仲間・・・など)

②ま、すきま、少しの距離、拍子、その場のぐあい(間近、間が悪い・・・など) 

③けん(柱と柱の間)、隔てる、仲たがいさせる、区別する    だ。

そして「人間」を当たると「ひと、人類」とそっけない記述。要は「人間」という言葉と「人」という言葉は同義だ。

キリスト教徒は偉いのは神様だけで、人間はみな同等だ。まず、一人一人の個人と神様との関係・契約があって、家族や親がある。

日本教徒にとっては子供の時は生れた家、親、家族との関係が第一で、大人になれば「世間」との関係、他人(ひと)との関係が大切になる、ということか。

それにしても、ただ「人」と言えばよいものを何故、誰がどういうつもりでわざわざ「間」をつけて「人間」としたのか?

「間」という字は実に興味深い。音読み(中国)では「間をあける」という意味だと推測され、訓読み(日本)では「仲が良い」「微妙な距離」といった、ほぼ逆といってもよい意味になる。

「人」という字にも「”人”という、一括りのもの、同じ性質をもった種」(キリスト教的に言えば神様に似せて創られた、動物と違う、一段高いもの)という意味もあれば、「自分以外の人間=他人」という意味もある。

人間という言葉には「他の動物とは違う『ひと』という仲間・同類」という舶来の意味と「他人との関係の中に生きる動物」という古来からの和風の意味とがあるように思われる。


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