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1月, 2023の投稿を表示しています

焼売を食らう

 なぜ、シウマイ(シューマイでなくシウマイと言ったのは崎陽軒が初めてとか)を焼売と書くのかについては様々な説があるようだが、野田焼売店で食べた焼売が忘れられず、かと言って野田焼売店は近くにはないので作ってみることにした。スマホで最初にでたレシピ(多分クックパッド)を見てその通り作る。玉ねぎをミジンにして片栗粉をまぶし、豚ひき、ショウガ、しょうゆ、砂糖、ごま油を加えてこねて焼売の皮で包む。(親指と人差し指を輪っかにして) スマホで見たレシピではフライパンで焼き蒸するのだが、そうせずに蒸し器でキャベツ、ニンジンの薄切りを敷いた上に焼売を置いて10分間蒸した。 シューマイは、からししょうゆで食い、野菜はポン酢で食す。絶品だった。食いたかったせいもあるかもしれないがうまかった。材料コストは焼売30個で400円程度。崎陽軒のシウマイもうまいが、15個で700円?味は全く違うが、おいしさは同程度。こうなると飽きるまで食い続けることになるだろう。

尾上菊五郎、菊之助、丑之助と連綿と続く

 七代目尾上菊五郎は幼少期、五代目丑之助を名のり、長じて四代目菊之助、親父の六代目菊五郎が死ぬと七代目菊五郎を襲名。 七代目菊五郎の息子が六代目丑之助を名のり、現在五代目菊之助で、将来親父の七代目菊五郎が死ねば八代目菊五郎となるだろう。 七代目菊五郎の孫、五代目菊之助の息子は現在七代目丑之助を名のり、将来おじいさんの七代目菊五郎が死んで親父が八代目菊五郎となれば六代目菊之助に…そして親父が死ねば九代目菊五郎になるだろう 天皇家と全く同じ。尾上菊五郎の名跡・家の継承。菊之助が天皇とすれば菊五郎は上皇か?そして丑之助は皇太子。息子が生まれて、出来が良ければ永遠に継承され、繰り返される。そして菊五郎襲名後30年無事勤めれ上げれば人間国宝となる…あまりこれに異を唱える人はいない…こんなことを代々続けるのは日本人だけだろう。歌舞伎って相撲同様、女性を締め出しているがあまり差別を訴える声も聞かない。女役さえ男がやるんだけど…ダイバーシティ論者たち、何をしている 「藤戸」という演目に菊之助、丑之助親子が出ているが丑之助(9歳)の舞踊は素晴らしかった。体幹、筋力の強さ、センスを感じる。これなら将来菊五郎を襲名できそうだ。

会社とは何か?再び  日本を変える、会社を変える

 俺の日本人論では「日本人は古いもの、長く続いたものを神様のように大事にし、既成事実に弱く一旦生まれたものを長く保持しようとする。」つまり、保守的で変化しようとしないのである。これは“日本教”と呼んでもいいくらい根強く長年日本人を支配してきた。 会社も古ければ古いほど有難いし、長い間延命すべきもの。言わば「家」。会社に入るのは家族の一員になるようなもの。 日本の家で一番古くて由緒あるのは天皇家。明治維新において200年以上続いた徳川幕府を倒すには1000年以上続いた天皇家を持ち出す必要があった。天皇だって元をたどれば豪族の一人で、たまたま大和方面で他の豪族を支配した後、古事記や日本書紀といった、科学的には根拠のない神話で正統性を主張しただけ。とても万世一系とは思えないし、おかしなことをする天皇も大勢いた。しかし一方で、日本人はそんな天皇を認め、あるときは絶賛して天皇家を守ってきたという歴史的事実は厳然としてある。 興味深いのは「平安時代の藤原氏や鎌倉以降の武士がなぜ天皇家廃絶、天皇に代わって王になることをしなかったのか?占領軍(アメリカ)もなぜ天皇制というシステムをやめようとしなかったのか?」である。(俺はこれが日本史最大の謎だと思う) 例えば承久の乱。まず、後鳥羽上皇は明らかに掟破りをしている。天皇家一族はおとなしく平和や豊作を祈っておればいいものを、お祈りは天皇にやらせ、自分は上皇になって政治を主導しようとし邪魔になる北条義時をやっつけろ、と言った。これはあるべき天皇論から見れば大いにおかしい。それでも鎌倉幕府の皆さんは日本人らしく天皇家に逆らうのをためらった。ここで有名な政子の演説が行われ「源頼朝から受けた恩(土地と地位)の方が大切だ」となって天皇家と戦うことになった。天皇家は負けたが天皇制は維持された。皇位継承の人事権は鎌倉幕府に取られたが。後鳥羽も廃位され、流されたが殺されはしなかった。不思議と言えば不思議な話。承久の乱とは「いざとなれば日本人も天皇より金をくれる人を優先する」とも言える出来事だが「おかしなことをする天皇が現れて他人の地位・命を狙って戦争を始め、負けても殺されないし天皇家は維持される」とも受け取れる。 さて、天皇家よりずっと歴史の浅い「会社」という家を日本人はどう変えるのか?あるいは廃絶してしまうのか?現役の皆さ...

会社とは何か?再び  俺も“燃え尽きた”・日米の相関と歴史

俺は現役時代、リストラだ、成果主義だ、 M & A だとくだらないこと、馬鹿なことばかりする会社から部下を守ろう、と必死で一杯いっぱいだった。部下に対して、こんな会社だから、幸せにするとは約束できないけれど、俺が原因で不幸にすることは避けよう、なるべく部下の身に降りかかる不幸や面倒やストレスを少なくしよう、と思っていた。今考えると、それで燃え尽きたのだった。時々「俺の仕事の価値は何だ?」「なぜ俺はこの給料をもらっている?」と疑問に思った。答えはない。だって俺が仕事と思ってやっていたことは新しい価値を生んでいるわけでも、価値を増やしているわけでもなく単に部下の価値を守って傷つけないようにしているだけだった。そんな仕事の対価は計算しようがない。 前述のドキュメンタリー番組によれば、『燃え尽きる』のは①会社や環境が悪いと考えるのでなく、満足に職務遂行できないのは自分が悪い、自分が至らないからと思い込んで“頑張る”②任務を果たしたところで世の中に貢献した・役に立った と感じることのできない仕事、また「君のおかげで助かった」と言ってもらえない仕事をやる 場合だそうだ。 俺は、逃げ出すことや投げ出すのは嫌だと、会社にとどまり“頑張って”しまっていたが、 かと言ってできることは、せいぜい部下を不幸にしないことで、部下を幸せにするなんてことまでは望むべくもなかった…だから他人の役に立った、価値があったとは思えず、燃え尽きたのだろう。   この番組に触発され、また、憎むべき株主資本主義(M&A)について勉強して以下。   まず、俺の仮説を述べる。それは「日本は 1960 年代~ 1970 年代のアメリカを追いかけトレースし、 20 年後の 1980 年代~ 1990 年代に再現していた」というもの。  アメリカは日本を占領して以降、日本を中ソに対する防御壁と位置づけ、自分の成功体験を日本に真似させることによって民主主義や資本主義を教え込んだ。その結果1960年~1970年のアメリカが20年遅れで1980年~1990年の日本に再現された。ところが、1980年代、日本の製造業がアメリカを抜いた。日本人は「もうアメリカに学ぶものは無い」と思い、1980年代アメリカに起こったことを学ばなかったので2000年代の日本で再現されなかった。1980...

会社とは何か?再び  なぜ仕事がツライのか 燃え尽き症候群生むシステム

  俺は 2019 年に退職したが、 M & A を繰り返していた社長がその種が尽きたのか今度は外部から役員を呼んできたりしていた時期だった。俺の退職する前年くらいに人事担当役員を外部から取り、ダイバーシティーとやらをやらせていた。俺は退職の時「悪いことではないし、違法でもないけどこんなに部下を信じられない社長には俺にはついていけねえ」と思った。俺の退職した後、とうとう外人社長がスカウトされるに及び、「面白くないことも多かったし、燃え尽きた感もあるけどギリギリのタイミングで会社をやめられたなあ。」と感じ、胸をなでおろした。そして昨年末から今年の正月にかけて会社の後輩(現役)たちの「もうついていけない」といった声が聞こえるようになった。どうも人事担当役員と外人社長が原因らしい。 俺は現役時代、部下に対して俺の行う評価や人事異動でその人の一生が決まってしまうかもしれない、下手をするとその人が鬱になったり、自殺することになるかもしれない、と恐れた。(「無限責任」を感じた。)だから評価や異動には全身全霊、頭の毛が白くなるくらい悩み苦しんだ。ここで言う“評価”とは、人事部に言われて行う定期的な人事考課のことではない。俺の会社の人事考課は成果主義のしっぽを引きずっており「決められた給与枠を一人一人にどう振り分けるか?」という目的のために行われていただけだったから俺は馬鹿にしていた。また、ここで言う“評価”とは、昇給や昇格といった薄っぺらなものではない。その人に、いつ、どこで何をさせるか?(残念ながら全員の定年までのキャリアを描くことは出来なかったが、せめて次は何をさせるか?)を検討するためにその人の性格・得意不得意・実績・家庭の事情などの情報を仕入れ、整理し、頭に叩き込むことであった。こんなことを何年もやって疲れ果ててもいた。もう勘弁してくれ…後輩にこの仕事を引き継げたのでやめることができた。 苦しんでいる現役の皆さんを励まし慰めるべく、悩みの種の社長や人事担当役員に対する揶揄を述べ立て、打たれ弱い最近の若者は相手にせず、打たれ強い奴だけ相手にして…などと書き散らしてみたが、何かすっきりしない。そんな思いを抱えたまま、 1 月 19 日、 NHK   BS 世界のドキュメンタリー 選▽ なぜ仕事がツライのか 燃え尽き症候群生むシステム  という番組を、タイトルに...

「金沢まいもん寿司」は偉い!

 本日「金沢まいもん寿司」に行ってきた。メニューを見て感心した。白エビの前に「富山」と書いてある。「富山白エビ」…これなら文句のつけようがない。富山市民の大事にしている白エビを金沢名物、金沢特産と偽るようなことはしていない。ついでにこれまた富山市民の数少ない自慢であるホタルイカも「富山ホタルイカ」と明記。 嬉しくなって上さんの勧めに従って白エビを食べようかとも思ったが夏が旬のものを真冬に食うもんじゃねえだろう、と思ってやめた。(なおホタルイカは富山の人も認めるように、珍味ではあるが、あんまりうまいものではないから食指は動かない。ホタルイカは春先が旬だったように記憶) 「金沢まいもん寿司」を見直した。(勝手に白エビを金沢名物のように偽っているかと誤解していただけだが…) 実は以前、娘が金沢に旅行に行った際、本場の「金沢まいもん寿司」に長時間並んで食べており、その評価を昨日聞いていたのだが、娘によれば「長時間待って食べるほどのもんじゃない」であった。俺の評価も全く同じ。「わぁおいしい!また来よう」ではない。俺たちは待たされなかったので「まあ、値段見合いのそこそこの味」としておく。そこらの回転ずしよりうまいけど値段は高い。 閑話休題: 金沢には海産物では特産、名物と威張れるものがないのかなあ。あれば富山名物をわざわざメニューに載せるないか…。「金沢まいもん寿司」のメニューにあったのどぐろ、カニ、エビ、ブリ…金沢でなけりゃあ食えないものじゃあない。もちろん、どこにでもあるネタがうまければそれで結構ですが…。富山市民は素晴らしい名物・特産物を有している。

白エビは富山の特産だ!

 故あって「加賀藩富山支店」「北陸新幹線が出来たってどうせ、富山は素通りでみんな金沢に行く」と自虐する富山市民の味方である。(実は富山には何回も言ったが金沢には1回も行ったことがない) たまたま「金沢まいもん寿司」のホームページを見た上さんが「白エビもあるよ」と言ったので富山県民の数少ない自慢である白エビを盗むな、と怒りを感じた次第。そう思ってネットを当たるとあたかも白エビは金沢の名物であるような記載も多い。金沢市民は「白エビが取れるのは確かに富山湾だけど、富山湾は富山県だけのものではなく石川県のものでもある」とでも言うのか?多分水揚げは富山県側だけでしているのではないか? まあ、事実はどうでもよい。自虐的な富山市民が数少ない名物から「おらが名物」と言ってこちらが恥ずかしくなるくらい、こよなく愛している白エビを、名物・うまいもの・見るべきものがたくさんある金沢市が奪うなど大人げない、ということだ。加えて富山湾は確かに石川県のものでもあるが、金沢市は富山湾から遠く離れていて富山湾で取れたものを我が名物と言うには無理がある。 金沢市民よ、富山市民の数少ない自慢を奪わないでくれ。富山市民よ、自虐ばかりしてないで金沢に抗議しろ!

モーリーさん怪演

 NHK「新・幕末史」におけるモーリーロバートソン演じるイギリス公使パークスは非常に印象深かった。イギリス(人)は、時流を読み、それを最小限のCOSTで実現しようとした。それを可能にするために諜報活動、インテリジェンス、圧倒的な武力・経済力、相手国にもメリットがある(正しい選択だ)と説得する屁理屈、相手国にもメリットがあったと信じさせるプロパガンダが備わっていた。モーリーさんはそれを上手に厭らしく体現し、演じていた。 トッドさんは「○○人は▽▽だ」「○○教徒は▽▽だ」という差別がフランスには充満していると言うが俺は「アングロサクソンは時流を読んでそれを早く、最小限のCOSTで実現しようとする」という差別・偏見を持っている。 *ここで言うCOSTとは経済的なコストだけではなく、「犠牲、つまり戦争による被害、死者」も含む 幕末~明治維新のイギリスは、時流を読んで「徳川幕府はオワコンである」と考え、幕府に早く倒れてもらい新政府と商売するのが得策と、まず幕府・維新勢力双方に武器を供給して明治維新~戊辰戦争に至る内戦を仕掛け、明治政府優勢と見るや一転、明治政府に肩入れして明治政府を勝たせた、と言うのが「新・幕末史」の筋書。 終戦もしかり。アメリカは厭戦気分を察知し、戦争を早くCOSTミニマムで終わらせようとした。そのための選択が原爆投下であり、その後の日本占領をソ連抜きかつCOSTミニマムで乗り切る方策が天皇制温存であった。ここに正義などと言うものはない。冷徹なリアリズム・損得勘定だけ。 少なくとも日本人はこのアングロサクソンの術にはまって明治維新もアメリカによる占領も肯定的に受け止める人の方が多いようだ。逆に中東ではアングロサクソン流は反発を喰って大きな混乱を招いている。 一方でロシアや中国のように権威的とか言われる国では正義(中国流に言えば「徳」)を示すためにはいくらCOSTをかけても、という国、民族もある(ウクライナ、チベット、ウイグル、台湾を我が物と主張続けるのは決して得があるようには思えないが、彼らにとっては歴史的経緯や国防や面子から譲れない)…かつての日本もそうであったし、日本人には今でもそういう資質は残っていると思う…もしかするとアングロサクソン流のリアリズム・損得勘定に追い詰められ、それに対する反発から、かつての日独、今の中露は理想や正義や歴史などを持...

身長が1cm伸びた?

 最盛期?176cmあった身長が昨年の健康診断で173cmに縮んでいた。これが大ショックで今年の健康診断に備え、上さんと身長測定の練習をした。「縮んだ原因」は、猫背になって、お尻と後頭部が一直線にならないから。そのため身長を図る装置にお尻をつければ後頭部が離れ、後頭部をつければお尻が離れる。お尻と後頭部を装置にくっつけられれば縮まないはずだ、という理屈。壁を背にして直立し、胸を張ってお尻と後頭部両方とも壁にくっつける練習をした。それかあらぬか、今日の健康診断では身長が174cmだった。(お尻はくっついて後頭部は若干離れていたが…)思わず身長を測った看護婦に「胸を張る練習をしたら背が1cm伸びた」と伝えたが反応が「そうですか。猫背だと背が縮みますからね」といたって冷静だったのが不満だ。努力を褒めてもらいたかったのだが。そう言えば、この看護婦、昨年も同じ人だと思うが、「176あった身長が3cmも縮んだ」と告げても「そうですか、年取れば皆さんそうなりますよ」と慰めなのか事務的なのか分からない反応だった。筋トレのおかげで胸を張れるようになったのかも… 一方、10年前はいつ測っても110前後で看護婦から「いい血圧ですね」とほめてもらっていた血圧が150に。やや不満だが、血圧が少々高くたって不安ではない。血尿に比べれば大したことはない、と思う。 身長も血圧も「伸びた」が、嬉しさの方が上回った。

時のたつのを忘れる

 面白い芸を楽しんであっという間に時間がたつ、好きな人と過ごして時間が止まればいいと思う、本を読み出したら止められなくなる…これ、タイパ悪くないか?タイパを良くしたいので録画した動画を倍速再生して見るのに…いいものを捜すためにたくさん見たいから倍速で見るのか?もっといいもの、もっといいもの、と切りがないのに。 無駄が嫌なのか?話にしても文章にしても無駄のないものがいいいとされる。無駄を取り去るためには膨大な時間を使う…この膨大な時間は無駄なのか?無駄じゃあないだろう。無駄を省くために使われた膨大な時間が話芸を磨き、文章を書く技術を磨く。 自動販売機のようにボタンを押せば答えが出てくるのが望ましいか?自分の頭で答えを出そうとして苦しむことは無駄なのか?その苦しみが人間が生きている証・醍醐味ではないのか?一つのことに打ち込んで膨大な時間を費やしたら他のことはやってられない。どうしてそれではいけないのか?会社の社長ならともかく、後先考えずに、時間と可能性を無駄使いすることが若者の特権だ。 タイパのよい生活を送って何をするのか?倍速で見る動画の量が2倍に増えるだけだろう。1/2に薄まった浅い経験を2倍するだけだろう。見る動画が倍になったところで全ての動画を見ることが出来るわけではない。経験できることが倍に増えたところで全ての経験ができるわけではない。 時のたつのを忘れることの幸せ。「生きててよかった」と思える経験。数は少なくてもそういう幸せを感じ、経験ができる方が人間らしくて豊かではないか? タイパと聞くと砂をかむような受験勉強を思い出す。何の意味があるのか分からない。少しも面白くない。ためになるとも思えない。でも「みんな」がそうするから止められない。親も喜ぶし。先生の言うことや教科書に書いてあることをいくら暗記しても安心することはない。そんなバカバカしいことを続けると、情緒がすり減ってまともではいられない。受験勉強は数年間で終わるがタイパを生涯追及したらどうなるのか? また、タイパと聞くと「自分探し」という言葉を思い出す。どんな仕事が自分に向いているか分からないから様々な仕事を「はしご」する。倍速でたくさんの動画を見るのと同じだ。経験した仕事の数が倍になったところで全ての仕事を経験してどれが自分に向いているのか判断できるわけではない。ハナっから与えられた仕事一筋で...

映画ガントレット

 高倉健の殴り込みをイーストウッドが演じる。勝ち目のない相手に、勝つためでなく、意地でぶつかっていく。大馬鹿野郎。その大馬鹿野郎に女が惚れてついて行く。警察の腐敗も描いているが、それより馬鹿な男の殴り込みに重みがある。警察の腐敗は堕ちていくアメリカの象徴。この映画が製作されたのは1977年だが、ベトナムで負け戦をしてからアメリカの地盤沈下が白日の下にさらされた。(地盤沈下したからベトナム戦争に負けたとも言える)沈んでいくアメリカに対するいら立ち、絶望とわずかな希望・応援がイーストウッドの映画には横溢している。これがたまらない。 警察の悪徳長官の「命令されれば警官なんて誰でも撃つさ」というセリフがあとで利いてくる。警官たちは最後は命令に背いて撃つのをやめた。そして悪徳長官が射殺されるのを傍観した。大勢の警官に象徴される物量で勝ってきたアメリカが個人の訴えに負けるというエンディング。2008年のグラントリノではイーストウッド演じる年取った男は不良ブループにわざと射殺されて不良グループが逮捕される。これも殴り込みの変形。年取って力のなくなった男なりの殴り込み。 イーストウッドはまだ、アメリカに希望を感じているのだろうか???聞いてみたい。90歳過ぎて、さすがにもう映画は作らないだろう。 それにしてもアメリカの警察ってしぶといね。1970年代から腐っている、と指摘されてきたのに、2020年代になってもまだ腐ったまま残っているんだから。

グーグルで検索すると「きたき」で「北九州成人式」が出る

 数年前まで北九州市の成人式に集まる新成人の奇抜な格好、奇矯な言動がTVで紹介されていたが、一昨年辺りからあまり取り上げられなくなったように思う。北九州の成人式もまともになったのかな?などと思い、グーグルで検索しようとして「きたき」まで行ったところで「北九州成人式」が候補の一番上に出た。検索した結果は今年も相変わらず奇抜な新成人の映像ががたくさん出ていた。1990年代何年か北九州にいたので北九州の話題は気になる。 北九州と言うとブルーカラー、一本気、一途、任侠、意地っ張り、照れ屋、へそ曲がり、偽悪…といった言葉が思いだされる。面倒見の良いおばちゃんという印象もありつつ、片一方では芯に硬くて頑ななものを秘めている…俺は決して嫌いではない。もともとそういう傾向があったところに明治時代の石炭工業や鉄鋼業が輪をかけたという面もあったと思う。成人式の若者の突飛な姿、行動もそういう北九州の風土、性格が反映されているように思う。 今年の北九州の成人式では晴れ着に墨汁をかけるという事件が起きた。これは北九州の人間の風上に置けない行為。残念だ。 最近流行の「心理的安全性」だとかダイバーシティーとかとは対極。そんなこと、わざわざ言葉にしなくたって北九州は北九州流に若者をかわいがってよそ者を受け入れる。ただし、かわいがって受け入れられる側に、何があっても譲らない芯・ひたむきさがないとダメだ。そして俺も北九州流がいいと信じる。芯・ひたむきさのない者に媚びるのは単なる甘やかしだ。

トッドさん

 敬愛するエマニュエルトッドさんの「思考地図」(2020年 筑摩書房刊)を読んだ トッドさんの自叙伝。母親はユダヤ系フランス人だがユダヤ教徒でなく、プロテスタント。父親はイギリス人。マルクス的な分析・アプローチはするが、共産主義者であることはやめた。変わり種のはぐれフランス人なるがゆえに風変わりな分析をし、モノ申す。はぐれ者として、あえて居心地が悪い生活を送り、「みんな」と違う見方、考えを示す。それが自分の存在意義だ、と信じているのだと思う。及ばずながら俺もそうありたいと思っているのだが… 同書からの抜粋: ①ひと昔前は、カトリックや共産主義などによる道徳的枠組みというのは個人を縛り、自由に思考することを妨げると考えられていました。しかし、これらの大きな思考的枠組みの崩壊は、思考する自由を変えるようなことはありませんでした。道徳的な枠組みの崩壊の結果として見えてきたのは、個人というのがいかに小さく孤独かということでした。個人がお互いを真似し合い、監視し合っているのが今です。このような世界が、「ポリティカルコレクトネス」を生み出したのです。 ※既存の伝統的な宗教や道徳が共有され共通の「正しさ」「規範」となっていたが、それさえ守っていれば許される、おおらかで居心地の良いものだった。それがなくなってからは、他人の正しさを詮索し、自分の正しさと比較するようになり、足を引っ張り合うようになって新しい規範を作り始めた。それがポリティカルコレクトネス。 ②この前、娘の学校のミーティングに参加していたのですが、そのときに哲学の先生が言っていたことに私はとても感心し、共感しました。彼女は、なぜ手書きを推奨するかとういことを説明していました。現代社会では誰もがコンピュータでタイピングします。コンピュータで書いたことは切り貼りが何度でも出来てしまいます。しかし、手書きの場合は、書き始める前に考えなければいけません。だから、思考は手仕事なのだと彼女は言うのです。本当にその通りだと思います。 ※この一文の意味がどうしても分からない。俺も1990年代、会社がPCを使えと強制してきたとき、「手書きとキーボードに入力するのでは脳の使い方が違う、手書きの脳の使い方を捨てたくない」と抵抗した。トッドさんも同じようなことを考えているのだ、と嬉しくなったが、この一文の言いたいことが確然としない。翻...

続・会社とは何か?

 昨年末から年明けにかけて「会社とは何か?」を再考させられる出来事があったので、以下。 会社の後輩たちの年賀状などに「会社についていけない、勘弁してくれ」といったニュアンスの文句が書かれていたものが散見された。どうも二人の「外人」についていけないらしい。一人は2年前にスカウトされて入ってきた文字通り外人の社長。もう一人は外資系を転々とし、5年前にスカウトされて入ってきた、人種的には日本人の女だがほとんど外人の人事担当役員。 社長は乗り込んできたときの売り文句が「今まで会社を支えてきた事業は将来性がないから売る」というショッキングなものだったが、これが実現できてない。最近は「会社は株主のもの。株主に評価されてなんぼ」と言い、出来の悪い社員をくさしているばかりだそうだ。 人事担当役員はジョブ型人事制度なるものを始めた。これは、従来各部署は社員に「背番号」をつけ、一生その部署に所属させて部署を支える専門家に育て上げるという人材育成制度だったものをやめ、公募制で社員は勝手に自分のやりたい仕事、部署を見つけて自ら異動を申し立てるさせ、自分でキャリアを積んでいくと言うもの。 俺の後輩の部長さんは公募での異動を前提にすると自部署の業務を素人が来てもすぐできるようマニュアル化しなくてはならない(最近の若い者の風潮としてマニュアルというより、どうしたらいいか分からず困ったら教えてくれるAIのようなものが欲しいらしい)がそんなことはできないと言う。他部署から来た素人のやることだから仕事の出来に不安があろう。また、自分を含めおじさんたちは突然「やりたいことを見つけて社内で色々な部署を転々としてキャリアを積め」などと言われても、うろたえるだけ、とも。 この”外人”二人に共通することは以下の”資本主義の原点”でいうアントレプレナーが不在であること。 資本主義の原点: 「どうしてもこれをしたい」「他人に負けたくない」「一歩先んじたい」「石にかじりついてでもこれをやり遂げたい」などといったアニマルスピリットを持ったアントレプレナーが自分のやりたいことをプレゼンして金を出してくれる人(株主)を探す。金が集まれば実務をやってくれる人材を雇って会社・事業を始める。期間は原則有期限で、期限が来ればうまくいっていてもやめることもあるし、会社を売り払うこともある。もちろん続けることもあるが…うまく行...

二代目 桂小南 「噺家は喋るな」 芸論

 1982年 立花書房刊 落語案内 より 「噺家は喋るな」 抜粋 年季の入ったコックさんは、動きに無駄がありませんね。お寿司にしても、同じ品物で握ったものなのに味が違う。不思議ですね。これが年季なんです。落語家も、その職人であれと若い人にいいます。落語屋、芸能人、タレントでなく職人でいいのだと思います。わかっていても、つい無駄喋りをしてしまいます。 ここにおりました一人の男、名前を与太郎と申しまして、毎度お馴染みの愛嬌者、この男の親父の弟に源兵衛と申します人、つまり与太郎さんには叔父さんに当たるわけで、年が五十歳。どういうわけですかこの叔父さん、与太郎さん大変に可愛がっております。今日も今日とて与太郎さん、ひょこひょこと叔父さんの家へやって参りまして、 「叔父さん、こんにちはァ」と、声をかけますと、奥から顔を出した叔父さん、与太郎を見て、にっこり笑って、 「ああ、与太郎か、よく来たな、さア、こっちへおより、下駄をちゃんと脱ぐんだよ。さアそこへ座りなさい、いま、なんかおいしいものを出してやるから、おばあさん、与太郎が来ましたよ…」 ま、こんな具合に喋ってしまうんです。 これを 「いるか!!ああ、いたいたア。叔父さん!!」 「びっくりするじゃあないか、おばあさん、与太郎だよ。何かあったかい?」 「ようかん!おせんべ!!ウワア出た。うまい!!」 「行儀の悪い、これこれ、履物が表へとびだしてるじゃないか」 と短くして見ます。これだけで与太郎の性格、年齢、下駄のひっくり返っている土間を見せるところがおもしろいのですが、どうしても余計な言葉を入れてしまうのです。 また、同じ言葉、重ね言葉など入れないことも大切です。前期の後半で「じゃないか」と二度いってます。これが耳障りになるんです。同じ意味をしゃべるにも、「早い」「急いで」「慌てて」「飛んできて」「ああ苦しい。なんです?」と形容を変えると聞きやすい。 また、仕草、形など、なるべく無駄を省いて、身体で見せます。雪月花で1年をそれとなく表し、男女、子供、商人、乞食にいたるまで、お客様に想像していただくところに楽しさがある。

二代目 桂枝雀 芸論

 1990年飛鳥新社 刊「枝雀とヨメはんと七人の弟子」より 落語は自分の楽しみでやらせてもらってるようなものだから、最終的にはお客さんが一人もおられなくなっても、自分でやって自分で聞くのが根本なのだ、それをたまたま誰かが、 「お前さんのやってることは面白そうやないか、私にも聞かせてくれ」と言われたら、 「それじゃ、ちょっとやりましょか」と言ってやるだけなんや、そして面白ければご苦労様でしたということで、なにがしかのお金をいただく、と。 ※俺の考える「芸」とは上述の通り。これを逆に「売れよう」から考えると碌な芸にならない。「迎合」「芸合」となる。

岡田直子 賛

 1月3日、BSよしもとで 吉本新喜劇「花月教会と迷える子ネズミ!?」を見た。(2020年1月4日放送されたものを再放送)…色々あって教会のシスターたちが一念発起、心を一にして猛特訓し、合唱コンクールに出て優勝する、という話。我が岡田直子は多分一言もセリフがなかったように思う。 俺は合唱する人たちを見るのが好きだ。口を大きく開いたり、体が前後左右に振れたり、真剣になればなるほど不自然になるとこがおかしい。シスターたちの合唱団に入った岡田直子がとまどったような様子で口を大きく開いて周囲に合わせて合唱する、その様子に腹を抱えて大笑いした。合唱は皆でかなりガチに練習したようだ。アンジェラ・アキの「拝啓 15の君へ」を歌ったが、確かにまじめに歌って、そこそこうまかったと思う。そんなことから、岡田直子のあの合唱の様子は演技ではなく、真剣にそうなっていたのだと信じる。要は天然だということ。実にいとおしい。 座長が務まるほどの大物にはなり得ないが、脇役(端役といってもよい)としてずっと新喜劇に出続けて欲しい。1984年生まれで俺の子供たちとほとんど同年齢なのも応援したくなる。1982年生まれで娘と生まれ年が同じ小野田紀美参院議員といい、この頃生まれた女の人には期待できる人材がいる。

駒沢頑張れ

 箱根駅伝を見る。感じたこと: ①日テレのアナウンサーの駒沢贔屓(青学憎し)が甚だしい。「駒沢1位です」、「昨年の王者、青学が順位を落としました」と言う時、嬉しさをかみ殺しているように感じる。俺は故あって駒沢を応援している。(大八木・原 両監督のキャラクター、両行の学風の好き嫌いもあろう。)そういう俺の「ひがめ」「偏見」のせいかで、そう聞こえるのだろうか?同じく駒沢びいきの上さんも同じことを感じていると。 ②選手の名前…何と読んだらいいのか分からない名前が多い。読み方の見当がつかない名前が1,2割。親の好き好きで自由に名付ければいいようなものだが、名前は公のものという性格もあるから苗字はともかく「下の名前」は自由過ぎるのもどうかネ?古典から取ってくるのはいい方法だと思う。読む側の教養も試される。 ③走る選手はさらさらヘアーがいい。俺は縮れ毛だが、走るたびに揺れるさらさらヘアーが格好良くうらやましい。それにしてもヘアーに限らず選手の姿かたちは年々見やすくなってきている。

帝京大学ラグビー

 本日(1月2日)、大学ラグビー選手権準決勝、帝京対筑波を見た。2019年ワールドカップ以来久しぶりにラグビーを見た。帝京の圧勝だったが、帝京のラグビーは俺の知っている日本のラグビーをはるかに超えた素晴らしいラグビーであった。一番びっくりしたのは、ボールをもってゴールラインに迫った帝京の選手がボールを抱えたまま筑波のバックスに体当たりし、ぶっ飛ばしてトライすること。味方にパスするなどというそぶりは一切みせず、ボールを持ったまま相手守備に体当たりして強引に前進してトライする。一人で強引にトライを狙うというのは日本人離れしている。ウイングのステップ、フェイントもすごい。これもパスなんて考えずに一人でバックスを強引に抜いてトライする。 フィットネスというのか、敵とコンタクトしても負けない自信があるので怖がらずに相手にぶつかっていく。日本人なら相手とのコンタクトを避け、パスするか逃げるのが常道だった。このスタイルは海外のフィットネスに優れた選手にも通用するのだろうか?これが大きな外国人にも通用するなら、コンタクトを避けようとしてきた日本人のラグビーは大きく変わる。 加えてサッカーも同じように変わることを期待してはいけないか? 決勝戦が楽しみだ。