時のたつのを忘れる

 面白い芸を楽しんであっという間に時間がたつ、好きな人と過ごして時間が止まればいいと思う、本を読み出したら止められなくなる…これ、タイパ悪くないか?タイパを良くしたいので録画した動画を倍速再生して見るのに…いいものを捜すためにたくさん見たいから倍速で見るのか?もっといいもの、もっといいもの、と切りがないのに。

無駄が嫌なのか?話にしても文章にしても無駄のないものがいいいとされる。無駄を取り去るためには膨大な時間を使う…この膨大な時間は無駄なのか?無駄じゃあないだろう。無駄を省くために使われた膨大な時間が話芸を磨き、文章を書く技術を磨く。

自動販売機のようにボタンを押せば答えが出てくるのが望ましいか?自分の頭で答えを出そうとして苦しむことは無駄なのか?その苦しみが人間が生きている証・醍醐味ではないのか?一つのことに打ち込んで膨大な時間を費やしたら他のことはやってられない。どうしてそれではいけないのか?会社の社長ならともかく、後先考えずに、時間と可能性を無駄使いすることが若者の特権だ。

タイパのよい生活を送って何をするのか?倍速で見る動画の量が2倍に増えるだけだろう。1/2に薄まった浅い経験を2倍するだけだろう。見る動画が倍になったところで全ての動画を見ることが出来るわけではない。経験できることが倍に増えたところで全ての経験ができるわけではない。

時のたつのを忘れることの幸せ。「生きててよかった」と思える経験。数は少なくてもそういう幸せを感じ、経験ができる方が人間らしくて豊かではないか?

タイパと聞くと砂をかむような受験勉強を思い出す。何の意味があるのか分からない。少しも面白くない。ためになるとも思えない。でも「みんな」がそうするから止められない。親も喜ぶし。先生の言うことや教科書に書いてあることをいくら暗記しても安心することはない。そんなバカバカしいことを続けると、情緒がすり減ってまともではいられない。受験勉強は数年間で終わるがタイパを生涯追及したらどうなるのか?

また、タイパと聞くと「自分探し」という言葉を思い出す。どんな仕事が自分に向いているか分からないから様々な仕事を「はしご」する。倍速でたくさんの動画を見るのと同じだ。経験した仕事の数が倍になったところで全ての仕事を経験してどれが自分に向いているのか判断できるわけではない。ハナっから与えられた仕事一筋でも同じではないか?

俺が初めて「自分探し」と言う言葉を聞いたのはサッカーの中田英寿がサッカーをやめたあと、サッカー以外のことを始めた時のこと。その時は「馬鹿なこと言うなア」と思っただけだったが、それが変に流行ってしまって生き残って、大人が迎合して雇用の流動化と野合し、また、会社も当てにできないものに成り下がっていたので「会社なんて当てにせず色んな事やって自分のキャリアを自分で開拓しよう」となった。もっともらしく聞こえるが日本人に向いていなくて日本を弱体化するだけ。そういえば中田が引退したのは2005年。小泉売国奴内閣の全盛期。この内閣も、もっともらしく改革とか言って日本を弱くし、アメリカ様の喜ぶことをしただけだった。

ひとつで満足・安心するか、たくさんで満足・安心しないか?どちらが幸せなのか?そうは言うものの、受験勉強も自分探しも止められない。「みんな」で一斉に止められればいいんでけど・・・身分や差別がなく、公平で平等な社会を作るには受験は止められず、我慢が出来ない弱い若者には自分探しが必要で、情報があふれ、自分が何が好きか、何がいいのか分からない現代においてはタイパもやむを得ないか?なかった昔には戻れないのだろう。

一縷の望みは若者にもこういう流行・風潮に乗らない(反発)する者がいて、こういう流行・風潮に迎合しない大人もいるということ。そんな若者・大人を応援するしかない。

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