トッドさん

 敬愛するエマニュエルトッドさんの「思考地図」(2020年 筑摩書房刊)を読んだ

トッドさんの自叙伝。母親はユダヤ系フランス人だがユダヤ教徒でなく、プロテスタント。父親はイギリス人。マルクス的な分析・アプローチはするが、共産主義者であることはやめた。変わり種のはぐれフランス人なるがゆえに風変わりな分析をし、モノ申す。はぐれ者として、あえて居心地が悪い生活を送り、「みんな」と違う見方、考えを示す。それが自分の存在意義だ、と信じているのだと思う。及ばずながら俺もそうありたいと思っているのだが…

同書からの抜粋:

①ひと昔前は、カトリックや共産主義などによる道徳的枠組みというのは個人を縛り、自由に思考することを妨げると考えられていました。しかし、これらの大きな思考的枠組みの崩壊は、思考する自由を変えるようなことはありませんでした。道徳的な枠組みの崩壊の結果として見えてきたのは、個人というのがいかに小さく孤独かということでした。個人がお互いを真似し合い、監視し合っているのが今です。このような世界が、「ポリティカルコレクトネス」を生み出したのです。

※既存の伝統的な宗教や道徳が共有され共通の「正しさ」「規範」となっていたが、それさえ守っていれば許される、おおらかで居心地の良いものだった。それがなくなってからは、他人の正しさを詮索し、自分の正しさと比較するようになり、足を引っ張り合うようになって新しい規範を作り始めた。それがポリティカルコレクトネス。


②この前、娘の学校のミーティングに参加していたのですが、そのときに哲学の先生が言っていたことに私はとても感心し、共感しました。彼女は、なぜ手書きを推奨するかとういことを説明していました。現代社会では誰もがコンピュータでタイピングします。コンピュータで書いたことは切り貼りが何度でも出来てしまいます。しかし、手書きの場合は、書き始める前に考えなければいけません。だから、思考は手仕事なのだと彼女は言うのです。本当にその通りだと思います。

※この一文の意味がどうしても分からない。俺も1990年代、会社がPCを使えと強制してきたとき、「手書きとキーボードに入力するのでは脳の使い方が違う、手書きの脳の使い方を捨てたくない」と抵抗した。トッドさんも同じようなことを考えているのだ、と嬉しくなったが、この一文の言いたいことが確然としない。翻訳が悪いのかもしれない。タイピングは手仕事ではないのか?タイピングする前には考えないのか?それとも簡単にコピペできるところが手仕事ではないのか?”手仕事”というと、「昔からのやり方(或いは自分が正しいと考えるやり方)で」「時間を惜しまず丁寧に一つづつ」「報酬目当てでなく」という感じがするが…。タイピングだと書く作法が機械の求めるものに強制され統一されてしまうが、手書きなら書き手の自由度が大きい、ということかも。トッドさんは自分の著作を自分で書かずに口述筆記させて書くこともあると。思考と書くことには深い関係がある、ということだけは分かる。思考のためには書かない方がいいのかも。これは、長い間文字を持たず口伝だけに頼った日本人の伝統に通ずる?逆に書いた方が深い思考になる可能性も。


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