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大晦日の…

 掃除嫌いだが掃除の真似をする。(小学生の時から掃除の真似は上手だった) おせち料理、雑煮、蕎麦を準備する…ちなみに今年のおせち料理はカブの甘酢漬け、大根の大葉巻、れんこんのきんぴら、御煮しめ、田作り、ワイン寒天といったところ…雑煮、蕎麦、寒天は母親の作っていたものの真似。 一番うまいと思うのはカブ。金時にんじんを安く売っていたので初めて購入してお煮しめにしたが、煮崩れ。普通のにんじんより大分柔らかいのかな???野菜は煮てみないと柔らかさ・硬さが分からないところがややこしい。 夕刻のスーパーめぐり…正月休むところは閉店間際に生鮮食品、とりわけおせちの半額セールをやるから…ところが、今年は10分ぐらい出遅れたらしく、店についた時にはすでに大方売れていて狙っていたかまぼこ、栗きんとんが買えなかった。今年の一番の収穫はマルタ産マグロの赤身。(いつかマルタ島にマグロ喰いに行きたい)数年前は正月に休むスーパーとかデパートなんてなかったが。 紅白歌合戦…男女に分かれて戦うなんてジェンダー満載。佳子様もジェンダー嫌いなんだからNHKもそろそろ考えた方がいいじゃないか。まあ、昔は紅組白組に分かれて応援合戦なんてやってたんだから変わっては来ているけど。(今考えると、応援合戦もなつかしい)年寄の歌手が出てくれば「下手になった」若い歌手が出てくれば「どこがいいんだ、わけわかんない。みんな同じ」「ジャニーズが多いね」などと夫婦で言い合うのも恒例。嫌なら見なけりゃあいいんだけどネ。 毎年こうして年を越す。

会社とは何か? その10 追加:平等・責任と役職

 以下は、会社員の平等、責任、役職などに関する所感・経験: 平等:アメリカにいた時、アファーマティブアクションという名の不平等、逆差別を目撃した。(男女ではなく、人種の差別対策。)州だか市の規則で、マネージャー職の人種の比率が決められていて、俺のいた会社で、無理やり黒人のマネージャーを一人作った。その部下になった日本人スタッフから「あいつは黒人だからマネージャーになったが、全く無能で前職での自慢話しかしない」という声を聞いた。俺が日本に帰ってきた後、聞いた話だが、無能を理由にマネージャーを辞めろ、と迫られたその黒人マネージャーは会社を人種差別的だ、と訴えたそうだ。(裁判の結果は聞かなかったが、そのマネージャーが会社を辞めたのは知っている)日本の会社の管理職、役員の女性比率が他国に比べて低いとかで、無理やり女性管理職・役員を作っているが、訴訟まで発展するかどうかは別にして、当然、「差別的に降格・解雇された」と訴える女性は増えているだろう。逆に出産・育児などに注力したいので責任・プレッシャーの少ないポジションを望む女性が、嫌々大きな責任、高いポジションを押し付けられる、ということもあろう。 俺は人種差別主義者、男女差別主義者なのでアファーマティブアクションで無能なマイノリティーを無理やり高いポジションにつけるなんてことはバカバカしいアメリカの物まねとしか思わない。(「日本は世界で〇位」、という訳の分からない比較論も百害あって一利なし)そう言えば、日本に帰ってきた後、巡り合った「海外の仕事しかしたくない」、という女性社員を思い出す。彼女に「海外業務だけでは出世できないが、構わないか?」と聞いて「出世なんかしたくない。海外業務だけをやり続けたい」という答えだったので「転勤しないと出世は覚束ない。出世しなくて構わないなら俺の目の黒い間は転勤させないから海外業務だけやってろ」と言ってその通りにしたことを覚えている。(彼女は日本で英会話の先生をしていたニュージーランド人と結婚し、その後、旦那が英会話の先生じゃあ飽き足らず、ニュージーランドに帰ると言い出してニュージーランドについて行き、会社を辞めた…ちなみにその後離婚したがニュージーランドに残り、一人で働いていた) 責任と役職:日本の会社の問題のひとつは「責任」が不明瞭なこと。およそ日本企業で責任と言うと「関係者が文句を言...

会社とは何か? その9 ⑧日本の会社の将来=日本の将来

 ⑧ 日本の会社の将来=日本の将来 ③      日本の若者は本当は会社なんかに就職したくなくて、できれば起業したいのか?若者 が起業して成功しているのか?可能性だけあるが海のものとも山のものともつかぬ若者に金を出す人(エンジェル)はたくさんいるのか? 1 回失敗したら 2 度目はあるのか? ④      もはや、問われるべきは「会社は株主のものか?社員のものか?」ではないのかも。 大量生産する(産業資本主義)には資本(株主)が必要だし、資本を元手に多くの人を雇い、設備を準備する必要がある。ポスト産業資本主義になれば、事業を成り立たせるのに金も設備も人手も要らなくて、 You Tuber やアプリ・ソフトの作者のようにアイデア、知識、情報などがあれば事足りるようになるではないか?しかし、 You Tube やアプリ・ソフトだけは食料もエネルギーも安全保障も覚束ないので第 1 次、 2 次産業は必須。 ⑤      大元の問題は:日本人にとって労働は必要悪か?である。キリスト教徒においては、 労働は禁断の木の実を食べた人間(男)に神様から与えられた罰。必要悪として嫌々働く人たちなら JOB 型雇用も成り立つだろう。一方、日本書紀に登場する神様も天皇も田んぼで働く。日本人にとって働くことは「はたを楽にする」立派なことであり自己実現や修行につながるものではなかったか。そういう日本人に業務内容や責任を限定する JOB 型雇用がなじむのか? 俺は日本人、日本に超一流の国際競争力を期待しない。スペイン、ポルトガルやオランダみたいに一時は一世を風靡したが今は 1 流の下の方か 2 流の上…でいいと思う。もしくはシンガポールのように、どこの国とも仲がいいような、よくないような関係を維持して大した軍隊も農業も水源すらないのにリスクの少ないうまい商売をして生き残るとか。無理して 1 流の上の方を目指して日本人の良さを捨てるこたあねえだろう。ここまで弱り、二度とアメリカ様の脅威にはなりえない日本に対してアメリカ様は、これ以上厳しく「自分の真似をしろ、言うことを聞け」とは言わないのではないか。まあ、独立も許してはくれないだろうけど…。鎖国もいいな。人口 3 千万人くらいで。...

会社とは何か? その8  ⑦ 日本でJOB型雇用なんて成り立つのか?

 ⑦   日本で JOB 型雇用なんて成り立つのか? 以下、俺の懸念事項: ①     Specialist の Job Description なんて日本人になじむのだろうか? Job Description で責任の範囲を明記しようとすれば「 Specialist の責任はマニュアル、業務フロー通りに業務遂行すれば果される」とせざるを得ない。つまり、責任を明確にしようとすれば「業務遂行中に何か問題、トラブルが生じた場合、 Specialist はマニュアル、業務フロー通りに業務遂行していればそれ以上の責任は問われない」とするしかない。このように責任の範囲を決めた場合、その範囲を超えた責任はだれが負うのか?当然責任を負うのは経営者しかいない。こうなると経営者は全ての Specialist の行う業務に精通していてそのマニュアル・業務フローなどを自ら定めるかまたは知悉し、特に業務上のリスクとリスク対処法について心得ておく必要がある…このように Specialist の責任範囲を超えた”無限責任“を受け入れる覚悟・能力のある経営者( Exempt )が日本にいるのか?育つのか? 従来日本では各部門で業務上発生した問題については、その部門(の担当者)は社内外の関係者が「これでいい」と言ってくれるまで(つまり問題解決するまで)全身全霊を尽くして解決に当たる責任があった。責任の限界などない。つまり、各部門(の担当者)の問題解決責任は無限責任。その結果生じる経営上の責任・リスクを負うのは経営者にしても…。 Specialist は責任範囲を明らかにしてもらって嬉しいのか?確かに「ここまでやれば免責」と線を引いてもらえれば気楽だし勤務時間も短縮する。突然の残業・出張もなくなり育休も取りやすい。逆に社内外の関係者が「これでいい」と言うまでが責任となると、発生する問題や関係する人が違えば Specialist の責任の持つ意味・範囲も大きく異なり、業務負荷・内容も会社や状況によって大きく異なることになって Job Description になじまなくなる…同じ職種でも会社・職場・担当業務によって業務内容や責任や給料に大きな差が生じることになり、 JOB 型雇用は成り立たない。 一方で問題解決上の無限責任を果たすべく...

佳子様とジェンダー平等と天皇家

 TV報道によると佳子様は「ジェンダー平等」を望んでいるようだ。さて、男系継承の天皇・皇室の伝統歴史はジェンダー平等か?天皇(家)の宗教である神道においては陰陽二元論で 男神は陽、女神は陰となされ、太陽は陽で、月は陰だが、さて、天照大神は、太陽神だから男神だとか、 平素の髪型は女だし機織り部屋で仕事をするから女神だとか、その性別を巡って様々な詮索がなされてきた。また 古事記・日本書紀には 天照大神の母親のイザナミが子供を生み落とすとそれが神々や日本の島々になったなどという記述もある。つまり陰陽二元論は男女の別・役割を定めるジェンダーそのもの。(どちらかと言えば男は馬鹿乱暴なのに対し女の方が賢い偉いという描き方)佳子様はこれを否定するのか?ジェンダー平等論は、日本のジェンダーの起源と言ってもよい古事記・日本書紀、神道、ひいては天皇家の祖先、天皇家の正統性を否定するものだが、立場上、皇室の方がそんな発言をしていいのか?それとも天皇の姪だし、流行のリベラルな発言くらい大目に見ろ、ということか?本当のリベラルならまず、真っ向から天皇制を否定して皇室を出るべきだろう。皇室にいながら天皇制否定発言をするのは、気候変動を起こす文明の恩恵を受けながら気候変動を止めろと言うだけのグレタトゥーンベリと似ていないか? 聖書もジェンダー満載というかジェンダーの起源。アダムの妻としてアダムの肋骨からイブが作られ、二人は禁断の木の実を食べて知恵がつき、男女の別を恥じるようになり、また罰として女は出産の苦しみ、男は 額に汗して働かなければ食料を手に出来なくなるという労働の苦しみを与えられた…キリスト教徒が素直に聖書を理解しているなら、ジェンダー平等なんて口が裂けても言えない。この点、日本人が憲法9条を素直に理解しているとは思えないのと同様。

会社とは何か? その7  ⑥ JOB型雇用

 ⑥    JOB 型雇用 前述の大きな(重要な)仕事とは、旧来のやり方では扱えないような新規性のあるもの。(例えば 1960 年代の石油化学とか、 1980 年代の半導体とか、 1990 年代の IT やグローバリゼーションとか 2000 年代の M&A とか、先輩上司の経験が役に立たないので自分で苦労してやり方を編み出し、覚えるしかない仕事)そんな仕事はどんどん減っているのかもしれない。俺の世代は会社を変わらなくても会社自身が変わり、それに従って仕事も変わったのでそれに対応して行けば結果的に”キャリアアップ“というようなことになったのか? 今の”仕事“が、先輩上司たちが営々と築き上げてきた仕事の作法(ベスト・プラクティス?)をなぞることを意味するなら数年の内には転職したい、という考えは理解できる。その手の”仕事“をマニュアル通りこなすことを”スキル“と言い、スキルを積んだら転職してキャリアアップというのは当然と言えば当然だ。(俺も同じ仕事の繰り返しなら 10 年も続けたいとは思わない。俺は我慢強くないからせいぜい 3 年も同じことを繰り返したら飽きる。) これは近年流行の JOB 型雇用と整合する。ただし、 JOB 型雇用も成果主義同様、アメリカでやっているから日本でも…はつまらないことになること必定。俺の知っているアメリカの会社員の雇用はまず、被雇用者を3つに差別する。 1.寸暇を惜しんで働く Exempt ;残業代無しで 24 時間働くワーカホリック。将来経営者、トップを目指す。全体の1%。 2. Specialist ;毎日9時-5時きっちり働く定型業務処理屋。 Job description に基づく雇用契約(= JOB 型雇用)。 Job description とは仕事の内容、責任範囲を明記した文書。 Specialist は”プロとしてのスキル“を売る。また、この職種ならこれくらいの給料、という“相場“がある。彼らは労働を食うための必要悪と考える。全体の19%。 3. Blue collar ;単純労働者。自分の時間(自由)を切り売りする。日雇いに近い。給料も日給。全体の80%。 この3つの階層分けは明らかに差別。1,2,3の階層は一生固定。処遇の差も当然のこととして受け入れられる。(...

会社とは何か? その6  ⑤ 俺の行った人事・教育

 ⑤   俺の行った人事・教育 さて、 2002 年から十数年間「部長」として俺が行った“人事・教育”は「“選別”と“機会を与えること”と“救済”」だった。俺は阿弥陀様のようにすべての人間を救おうなんて大それたことは考えないし、心も広くない。①まず、救う(育てるべき、育てるのに価する)者を選別した。最初に自分の後継者を選んだ。ついでにその次、またその次…と入社年次 4 , 5 年おきに 4 代先まで自分の後継を勝手に選んで決めた。②次に海外拠点を含む各地の事業所、出先の責任者(マネージャー)候補を選んだ。この、①と②の合計で全体の 10%程度になった。これが救うべき(育てるべき、育てるのに価する)者である。③残り90%は直属の上司(マネージャー)に任せた。言い方を変えれば、この90%はその他大勢で俺にとって「自分で直接育てるべき相手ではなく、育てるのに価しない」者だった。ただし、直属のマネージャー任せにできない場合がある。例えばマネージャーと部下が揉めたり、そりが合わなかったりして(今でいうパワハラみたいなこともあった)マネ―ジャー自身では解決出来ない場合。また、部下が全社的に大問題となる不祥事に関係し、直属のマネージャーでなく本社の上位者が出て行かざるを得ない場合など。このような場合、俺は問題の部下の味方をして救おうとした。飛んで行ってマネージャーと合わない部下には「安心しろ。なるべく早くお前かマネージャーどちらかを異動させるから」などと言い、不祥事に関わった奴には「馬鹿野郎。ここには居づらいだろうから、なるべく早くお前を異動しようと思うけど、どこに行きたい?」と言った。幸い、不祥事の中心人物になる大馬鹿野郎はおらず、“主犯“に頼まれてやむなく…という格好。こういう”救済“も”教育“の一種だったと思う。(ちょっと「親分子分」的な関係になった。それも悪くなかった。その時俺が思ったのは、せっかくのキャリアを捨てて会社を辞めかねない奴を引き留めよう、ということだけ。コンプライアンスなんて口が裂けても言わなかった。数少ない尊敬する元上司に教えられたのだが、こういう場合、こちらから「会って話したい」と申し出て、その部下から「会いたくない」と言われても無理矢理会いに行くこと…確かにそうだった) 「南無阿弥陀仏」と俺に身を預けて助けを求める(と俺が勝手...

会社とは何か? その5  ④ 鵜沢戸久子さんの教育論

 ④    鵜沢戸久子さんの教育論 最近、自分が 100 人以上の部下を抱えていた時どう評価・教育していたかを振り返る機会があった。結局、俺は“教育”することには絶望していたように思う。と、ここまで書いて教育って確か「“その人の持っているものを引き出す”とかなんとか言う意味だったな」と思ってネットを当たったら、 鵜沢戸久子さん という英語教育をしている人のブログにヒットした。(”戸久子“ってなんて読むのかな?)鵜沢さん曰く、 (前略)講師の指導で一番難しいのは「親切に何でも説明して教える」ことが実は生徒にとって最悪だ、ということを理解してもらうことです。人間は究極自分の頭で考えて納得したことしか使えません。だから世の中にこんなに「いい先生」があふれているのに、勉強が出来なくて悩んでいる生徒がたくさんいるのでしょう。なんでも教えてしまう講師に手を焼いていて、ふと、もしかしたら明治の初め、 education を日本語に訳した時に「教育」という言葉を当てたから、日本の教育はこんなに一方通行に先生から生徒へ知識を伝達する教育になってしまったのではないか、と思いつき、ネットを探したら大変啓発的な論文に出会いました。職業能力開発総合大学校の田中萬年先生の、「 Education は教育ではない」という文です。(略) education の語源は「引き出す」ということであり、我々の仕事は無知な子供に知識を教え込むのではなく、無知どころかすでに脳の無意識層に無限の知識をもっている子供の脳を鍛え、それらをうまく引き出せるように仕向けることだと改めて痛感しました。福沢諭吉が education に「発育」という言葉を当てるべきだと書いているそうで、さすがです。(後略)

会社とは何か? その4 ③俺の受けた教育とキャリアアップ

 ③ 俺の受けた教育とキャリアアップ それにしても入社直後の新入社員の約半分が 10 年以内に会社を辞めると考えているのはなぜか?俺の世代( 1980 年以前に入社)では実家の家業その他の関係でいつかは辞めると考えている人は数%いたと思う。それ以外に転職はほとんどなかった。仕事の仕方も見様見真似で先輩に教わる。(用もないのに長時間会社にいて仕事以外の話もして…今でいうパワハラも満載だったろうと思うが、かわいがってもらっていると感じ嫌とも思わなかったし後輩にも同じようにした。会社には長時間いたけど一人前の仕事をしているという意識はなく残業はつけなかった。)新入社員は次の新入社員が入ってくるまでは奴隷で、 3 年ぐらいは会社のお荷物で、それから少しづつ仕事及び仕事の相手となる取引先や社内の関係部署や関係者個人の「癖」を覚えて一人前になり、入社後 10 年までに何か大きなプロジェクトなり重要な業務を経験して、それを乗り越えれば次の大きな(重要な)仕事…と繰り返すうちに大体入社 20 年目当たりで評価が定まって、課長止まりかそれ以上の昇進があるかの区分がなされた…これは俺個人の経験を今振り返って思うこと。もちろん、明文化された人材育成・評価ルールではない…俺は入社後 21 年目に部長職への昇格の面接を受けた。会議の時、メモを取らない俺に「お前、俺がしゃべっている時はメモを取るふりぐらいしろよ」と冗談めかして注意してくれた元上司がいて、その人から昇格面接の前に「お前は態度がでかいから面接でしくじるんじゃないかと心配だ。注意しろ。お前がどうなるのか後輩が見ているぞ。何を言われても我慢しろ。」なんて注意・励ましのメールをもらった。実際、面接官(役員)の一人が実にくだらない質問をしたので「その質問はどういう意味か?」と逆質問した。続けて「アンタみたいな素人には分からんだろうが、そんな馬鹿な質問は意味がないね」という言葉が口をついて出そうになったが、元上司のメールにあった「我慢」が思いだされ、この言葉を飲み込んだ。多分、逆質問して態度が悪いと思われたのだろう、また、下手な我慢をしようとしてその後の面接の受け答えがしどろもどろになったこともあったのだろう、落第しそうになった(そうだ)。それを知った当時の上司が人事部長に掛け合って落第を免れた…と掛け合った当の上司から聞かされ...

会社とは何か? その3 ②新入社員意識調査(マイナビ)

②新入社員意識調査(マイナビ) マイナビが運営する総合転職情報サイト「マイナビ転職」が 2022 年に新卒入社した男女の新入社員 800 人を対象に、インターネット調査を実施した。(男女 400 人ずつ) この調査で、「今の会社であと何年ぐらい働くと思いますか?」と尋ねたところ、 28.3 %が「 3 年以内に退職予定」と回答し、 「 10 年以内に退職予定」は 51.0% となった。この 51% の人たちに「今の会社でずっと働かない理由」を聞くと: 女性の 1 位は「ライフステージに合わせて働き方を変えたいから (43.6 % ) 」…結婚・出産が理由だろうと、なんとなくわかる。男性の 1 位は「転職でキャリアアップしていきたいから (33.9 % ) 」。これを素直に読めば、会社とは「皆さんと飯を食う場所」ではない。自分が「キャリアアップ」するための踏み台?さて、キャリアアップとは何か?同じ会社にい続けて係長、課長、部長…というのはキャリアアップではないのか?学校の先生や、まわりの大人が「会社なんて苦しくなれば社員を解雇するから、一生を託すに値しないもの」とか「自分の人生は自分の腕・能力で切り開け」などと吹き込むのだろうか?気になるのは「転職が本当にプラス=アップなのか?」だ。ここで思い出されるのは、ある女子社員。彼女の父親がある会社の人事部長で 2000 年頃リストラという名の「人員整理」をやり、整理がついたところで疲れ果て自分も退職した。彼女は父親がそうだったということを淡々と俺に語り、その後転職した。俺は「さもありなん」と思った。(入社後 4 , 5 年たった後、転職したと記憶する。当時の流行で「もっと海外の仕事がしたい」というのが転職理由だったが、こういう父親を間近に見れば会社教の信者にはならないだろう。) もう一つこの調査で興味深いのは 2019 年に行った同じ調査の結果では「 10 年以内に退職予定」は 46.8% だったこと。コロナによって勤務形態が変わったことが影響しているのか?

会社とは何か? その2 ① 2001年以降会社で俺がしたこと

①    2001 年以降会社で俺がしたこと 2001 年以降、俺は自部署の人事(仕事ができる人を他所から引っ張ってきたり、部下を評価・異動したり、ダメな部下を始末したり、採用面接したり)を始めた。それ以降、自分自身が会社を辞めるということは全く考えなくなった。不思議なもので人事再配置・異動を検討すると必ず要員が一人不足した(駒が一枚足りなかった)。なので自分から辞めるなんて言い出すわけにはいかなかった。俺の仕事・責務は部下のみなさんにご機嫌よく無駄なく仕事してもらうことに変わった。若い頃は“金で片の付かない仕事は嫌だ”、と思っていたが、思いのほかこの仕事に夢中になった。苦労も多かったけれど面白かったのかな?その代り、後継を見つけて 10 年以上続けたその仕事から解放された途端、「燃え尽きた」。 何に苦労したのか?「日本語の通じない日本人」を相手にすること。正真正銘日本人でない部下もいたが、何十年間も別の会社で「別の神様」を信じてきた日本人たちに一番苦労した。宗派が違うと同じ言葉でも微妙に意味、ニュアンスが違う。同じ“日本語”を使うので話が通じていると思っても通じてなかったというのは実に面倒なことだった。 トルストイのアンナ・カレーニナの冒頭に「幸福な家庭はすべてよく似たもので あるが、不幸な家庭は皆それぞれに不幸である」という有名な言葉があるが、別の会社にいた人と同じ職場で仕事するという経験を繰り返すうちに、「優秀な奴はどの会社でもよく似ているが、馬鹿な奴は会社によって様々」と考えるようになった。一緒に仕事することになった別の会社の人を分析すると「お前らには負けないぞ、今までの神様を信じていよう」と構えて頑なで敵愾心・警戒心のある輩が10%、仲良くやろうぜ、が10%、そのどちらでもなく様子見が 80%という感じだったような気がする。優秀か馬鹿かで分けると優秀:5%、普通:85%、馬鹿:10%といったところか。自分と違う神様を固く信じている人や馬鹿に気を取られていては仕事はできない。「ああ、こういう人なら俺の会社にもいる。」という優秀な人を見つけてお付き合いすることが精神衛生上、精神の安定上よかった。そして今までの神様を信じ続ける頑なで敵愾心盛んな人、馬鹿は時間の経過とともに消えていった。つまり、時間が解決した。と言っても 10 年...

会社とは何か? その1 目次&序

 <<会社とは何か?目次>> 会社とは何か? 序 ①    2001 年以降会社で俺がしたこと ②    新入社員意識調査(マイナビ) ③    俺の受けた教育とキャリアアップ ④     鵜沢戸久子さんの教育論 ⑤    俺の行った人事・教育 ⑥    JOB 型雇用 ⑦     日本で JOB 型雇用なんて成り立つのか? ⑧     日本の会社の将来=日本の将来   フォームの始まり 会社とは何か?序 1990 年代以降、俺の所属していた会社が苦しくなって社員を解雇し、合併し、儲からない事業をやめたり売ったり、儲かりそうな会社・事業を買ったりということを始めた。俺には「会社というものは売ったり買ったりするものではない、つまり会社は株主のものではない。会社は社員のもの。」という直感・違和感・信念があった。その時に改めて会社とは何か?について調べ、以下の通り考えた; 会:人が集まる / 社:神社、神を祀(まつ)る ところ。 素直に字義を考えれば会社とは、「神様のもとに人が集まる」「人が集まって神様をお祀りする」ところであり、「寄らば大樹の陰」の大樹。その下に集まった人たちを守るのが会社。会の旧字の會は「蓋をした“こしき”(蒸し器)」という意味があり、会社とは「神様のもとに人が集まって一緒に飯を食べる」の意になる。明治時代、 Company を訳して会社としたが、英語の Company も一緒に( Com )パン( pan )を食べるというのが原義。日本には会社を神様と信じ、「生涯まじめに一つの会社に勤めれば守ってもらえ、食うにも困らない」と信じる宗教がある。(“会社教”) 退職の前 4 年間、監査役をやることになった。監査役のバイブルは会社法であり、これを読んだがどうしても理解できない(腹落ちしない)。あとで気づいたことだが、この法律を作った役人にとって、「会社は株主のものである」ということは自明のことらしい。刑法には「殺人はいけないこと」という自明のことは書いてなくて、人を殺したら…と刑罰が書かれてい...

俺の日本人論 第43回 >>>おまけの最後<<<

 >>>おまけの最後(談合閑話休題):<<< 譲り合い競争しない日本人だから大地震の時おとなしく列を作るが反面、談合する…同様の事が平和憲法にも言える。日本人の理想である「和」を旗頭に非武装で世界中に平和を説いて回るも結構。そう言うからには、自衛隊もなくし、米軍も日本から出て行ってもらう。日本人らしくて美しい。ただし、どこかの国の軍隊に攻められても抵抗できない。それを覚悟し、承知の上で自ら平和・非武装を実践し、世界各国に説いて回る。つまり、日本人らしく美しく和を実践することは、反面攻められたら簡単にやられてしまうリスクがある。 ヤクザ映画の高倉健や藤純子の殴り込み。彼らは死ぬことを覚悟して殴り込むのでなく、死ぬこと自体を目的として殴り込む。悪くて憎い相手に一矢報いようというのはきっかけ、動機ではある。ただし、そう思い立って身支度する間に段々敵のことは忘れ、散ることで頭がいっぱいになる。つまり、殴り込みをかける意味・目的はどこかにすっ飛んでしまい、待ち構える大勢の敵にやられて「きれいに」死ぬことを思い浮かべる。(特攻隊の皆さんは、アメリカに勝つためではなく、自分がきれいに散ることがお国の将来のためになると信じようとしたとか)ここにロゴス・合理性はない。ここでも日本人らしく美しいことは死・負けのリスクと表裏一体。日本人が日本国内で日本人同士で交際したり揉めたりして生きていく分にはロゴスは要らない。歴史を振り返れば日本人が最もその美しさを発揮するのは「和」のとき…10世紀から11世紀の平安時代、17世紀から18世紀の江戸時代…天皇にはおとなしくお神輿(みこし)に乗っていただき、民百姓の安寧を祈ることに専念いただいて、政治などという下世話なことは代わりの者が行って、国民は日本人が得意で大好きな「和」を満喫した。この時代は鎖国の時代でもあった。 国際社会で交際していこうとすればどうしてもロゴスは要る。 鎖国なんて無理かな?考えてみれば本当の外交、防衛はアメリカに任せてしまっている現状は半鎖国なのかも。敗戦後の日本の外交防衛にロゴスはない。ロゴスに基づく自主独立もない。ロゴスも自主独立もアメリカが許さない * 。防衛だとか外交などという下世話な仕事はアメリカに任せて自分は国内だけに通用する「和」を楽しむ…それもまたよしか????いやはや、やっぱりそれじゃ...

俺の日本人論 第42回 俺の日本人論  おまけ>>>日本の工事の発注/請負の将来像<<<

>>>日本の工事の発注/請負の将来像<<< 日本において将来、人口が増え、経済成長し、工事発注量も増え、それとともに工事業者数(工事作業者数)も増えるとは想定できない。右肩下がりの傾向であろう。最大の問題は工事作業者のなり手が大幅に減り、結果、良質な工事作業者の確保が難しくなることではなかろうか。工事は工事請負業者による請負受注が一般的であるが、これは、発注主自身が自社内に工事作業者を抱えていては変動する工事量に対応するのが困難、あるいは経済性がないからである。高度成長期には、工事請負業者は工事の需要が伸び続けると考え、安心して工事作業者の雇用を増やすことができたし、また工事作業者になろうとする人も潤沢にいた。今はこの歯車が逆転し始めている。すなわち、工事量は右肩下がりで工事請負業者は安易に工事作業者を増やすわけにもいかないし、そもそも工事作業者のなり手が払底している。 事ここに至ると、工事を発注する者と請け負う者が別々になっていることが弱点になる。この弱点を克服するには工事発注者と請負業者の距離を縮め、情報共有することが必要になる。そのために①日本国中の工事発注者が談合して中長期的かつ全国的に工事発注予定量を平準化し、②それを日本国中の工事請負業者に提示し、③それを受けて工事請負業者側が談合して中長期的に必要な工事作業者数を割り出し④日本国中の工事発注者と工事請負業者が一堂に会して談合して具体的にどの工事をいつどの業者が行うのか決定し⑤工事請負業者は談合して各社がどういうスケジュールでどの程度の工事作業者を確保するか決める…というやり方が考えられる。現状の独禁法から見れば明らかな違法行為である。自由な競争は工事量が右肩上がりの時代の遺物である。工事請負業者・工事作業者は保護されるべき絶滅危惧種になった、今のまま競争にさらされ続けたら絶滅すると考えるべき。工事量も工事作業者も減る時代においては自由な競争は工事請負業者の経営を圧迫し、不安定化させる。これは工事発注者にとっても不利益である。競争は工事の受注ではなく、確保された作業者の質・量で行われるべき。工事請負業者は工事を請け負うのではなく工事作業者の供給者になる。これを工事発注者側から見れば、自分が計画した工事を予定通り発注して必要な作業者を質・量とも安定的に工事請負業者経由で調達するということ。契約の形態...

歩行免許?

 うちの前に片側2車線の道路があって、ちょっと遠回りして横断歩道を渡ればいいものを、横断歩道でないところを横断する年寄がいる。(遠回りするだけの肉体的能力がないのかも)俺の経験ではそういう年寄ほとんどばばあだ。いずれも、自分にはそうする権利があり、自動車には停止する義務があるような顔をしてゆっくりと渡る。ひどいのになると、深爪でもしたのか、爪先を気にしながらゆっくり優雅に歩く馬鹿もいる。最近の年よりは…である。歩行が不自由な人は遠回りして横断歩道を使って渡るべき。横断歩道を時間内にわたり切れない人は外出を自粛すべき。それとも見せしめに車で跳ね飛ばしてやるか?今日、それに近いシーンを目撃した。杖を突いたばばあがノロノロ道路を渡っていて、それをはねそうになった運転手が「横断歩道を渡れ!」とどなっていたが、ばああは悪びれた様子もなく、ただ下を向いてゆっくり歩き続けていた。 こういうばああは日本は攻められることはない、というバカバカしい「信仰」で米軍反対、安保反対する輩と似てないか?いらいらしてるドラーバーがゆっくり優雅に歩いているばばあを見てひき殺したくなることはないのか?米軍の好意?に甘えてばかりでは危ないよ。ドライバーの好意に甘えてばかりでは危ないよ。それとも、一人暮らしで病気やケガをして生きる意欲を失った年寄が、あわよくば、はね殺してもらおうと考えてわざとゆっくり道路を歩いて横断しているのか?ドライバーにはいい迷惑だ。そういう人には何か、簡便で他人に迷惑をかけない自殺の方法を準備してあげるべきではないか? さて、信号が青のうちに横断歩道を渡り切るだけの能力がない人にそうさせないためはどうすればいいのか?あるいは(横断歩道でないところを歩いて渡る場合)道路を渡り切る間に車は来ないという判断ができる能力、視力などがない人にそうさせないためにはどうすればいいのか?道路を歩くについても歩行の能力や判断能力・関連法規の知識の試験をし、それに合格した人に「歩行免許証」を交付し、それがないと歩いてはいけない、ということにすべきか。まあ、まずは自転車に乗って走るについて「自転車運転免許証」が必要になって、その次に「歩行免許証」となるだろうね。もっとも自殺する代わりに車にはねてもらおうという人には免許証も意味をなさないが…

俺の日本人論 第41回 俺の日本人論  おまけ >>>入札/談合のパターン<<<

 >>>入札のパターン<<< 日本の公共工事の入札の方式は「指名競争入札」と「一般公開入札」と「 特命随意 入札」の3パターンである。①指名競争入札とは、過去の実績から考えて手抜きや途中で投げ出すことはしないだろうと想定される業者だけを選んで入札させること…限られた業者による“競争”…入札メンバーが仲良くなるので談合を誘発する。②一般公開入札とは、入札する業者を限定しないこと。談合はなくなるが、ダンピングする業者や途中で投げ出す業者、手抜きする業者が受注する可能性がある。③特命随意入札とは入札(=受注)業者を 1 社に絞ること。競争しないので手っ取り早いが、なぜその業者1社なのか?世界中でその工事ができる業者は他にないのかを証明するのは悪魔の証明に似て非常に難しい。どの方式にせよ、入札が電子化される前は、役所は業者を一堂に集めて入札説明会を行った。これは入札の方式や入札メンバーを業者に知らせることになり、談合を助長した。 この入札方式をどうするかという問題は2005年施行の 「公共工事の品質確保の促進に関する法律」 で発注者(国交省)がしっかりチェック・検査するという建前を導入し「一般競争入札して談合を防ぎつつ安かろう、悪かろうも防止・回避する」という、耳障りの良い、世論に配慮したきれいな形に落ち付いたように見える。「公共工事の品質確保の促進に関する法律」が施行されるのとタイミングを合わせるようにスーパーゼネコンよる「談合決別宣言」も出された。これは憶測するに国交省がゼネコンに対し「俺もできもしない品質確保をやるって言わされるんだから、お前らも談合しないと宣言しろ」と言ったからではないか? もちろん、「公共工事の品質確保の促進に関する法律」の精神を実現可能とするような検査・チェック・コスト積算などの能力が一朝一夕に国交省の役人につくはずもなかったから「たくさん汗をかいた」業者がいたことは想像に難くない。しかし実際には2005年前後は小泉政権が公共工事発注を削減していたし、その後リーマンショックで工事量は増えなかったので国交省の役人の検査・チェック・コスト積算などの能力は大きな問題とはならなかった。一方業者側は過去のしがらみを引きずって数年間は受注者・受注金額の談合を続けた。民主党政権がゼネコンは悪だ、とばかり工事業者数を減らそうとし、将来に見切り...

俺の日本人論 第40回 俺の日本人論  おまけ >>>いい談合<<<

  俺の日本人論 おまけ  >>>いい談合<<< 何故日本人は談合するのか?という問いが「俺の日本人論」探求のきっかけであった。その答えはすでに上述したから繰り返さない。競争嫌いで和が好きな日本人は談合をやめられない。ならば「日本人らしい、いい談合」とは何か?について以下。なお、ここで「談合」とは、工事や設備・装置の受注を巡るものに限定する。 日本ではかつては、工事は請負ではなく、「直営施工」で行われていた。直営施工とは、施主が必要な資材や労働力を自分で直接調達することである。直営施工なら入札もなく談合は発生しない。これが豊臣秀吉の頃に請負業者が現れ、請負工事の入札が始まると同時に談合あるいはダンピングが始まった、とされる。日本の公共工事においては、田中角栄(的政治家)が健在な時代までは政治家・役人と特定の業者がグルになって「天の声」を発し、受注業者を決め、言うことを聞かない業者は暴力団に脅かされ、受注金額の一部が政治家や役人に…という構図(“悪い談合“)はあったと思われる。 中国人もアメリカ人も「競争して勝ったものが独り占め」を是とする。日本人は発注者も受注者も「和・話し合い」「みんな仲良く」「持ちまわり」で競争や独り占めを嫌う。入札する者が仲間内に限られている(指名競争入札)なら輪番受注にしたり、 前回施工業者優先にしたり、“たくさん汗をかいた者”に優先権を与えたり 、仲間内で一番偉い(古い)者の言うことを聞いたり、「天の声」を聴いたりした…解説①前回施工業者が優先されるのは前回の経験を生かして今回工事の設計検討や施工管理が容易にできる=他社に比べアドバンテージがあり、安く早くできるんだから受注すべき、という理屈。②「たくさん汗をかく」とは、発注者側の技術者では技術レベル的にまたはマンパワー的に対応できない技術検討業務や予算作成業務の全部または一部を特定の業者が入札前にこっそり肩代わりしてあげること(当然汗をかいた者に受注の優先権がある)…輪番、前回施工、たくさんの汗、偉い人、天の声…いずれも受注者側から見れば無駄な応札(見積)作業をしなくて済むのでその点では合理的。田中角栄亡き後は、「悪い談合」より「見積もりはタダだ」とばかり無駄な入札(見積)をさせようとする発注者に対する抵抗という意味合いの談合が多いのではないか。共に生き残ろうという...

来し方行く末(2)

 九星による占い: 俺の九星は一白水星。今更ながら調べてみると一白水星の2022年の運勢は最悪だった。コミュニケーションも心も健康も。結果的に九星占いは当たっていた。九星によれば運気は9年ごとのサイクルで循環するので次に底が来るのは2031年。77歳の時。その時まで生きていたいようないたくないような…また、2022年底だった運気が2023年、2024年と上がり、2025年にピークを迎える、ということになっている。来年以降の運気向上に期待しよう。そう思うだけで元気が出る。生きる張り合いが出る。 自分自身の意思や能力ではなく、「運」「縁」「神」…が支配していると考える方が、「全て自己責任」と考えるよりましかも。いい時に自分自身がいいわけではない、と思えば謙虚になれるし、悪い時は自分自身のせいではない、と思えば落ち込まずに済む。

俺の日本人論 第39回 俺の日本人論 その9 最後に

  俺の日本人論 その9 最後に 少なくとも継体天皇から1500年間、天皇家は潰れずに営々と続いてきた。蘇我氏、藤原氏、源平を始めとする武士、マッカーサー…天皇制を否定することも天皇家を根絶やしにすることも可能だったが、誰もそうせず、また天皇に取って代わろうとする者もなく、よく言えば天皇に一目置きリスペクトし、悪く言えば天皇を支配のツールとして温存した。俺も日本人の端くれだから、1500年以上続いたというだけで天皇家・天皇制に敬意を表する。天皇の祈りのおかげもあって日本はここまで生き延びて来られたのです。(天皇陛下万歳!)これは一人天皇家が優れているのでなく、天皇が殺されたことは1回だけ(蘇我馬子による崇峻天皇暗殺)、天皇家に血のつながりのない者を天皇にしようとしたことも1回だけ(道鏡)という記録が示すように、日本人の奥ゆかしさ、謙虚、誠実、礼儀正しさ(悪く言えば過去・祖先・霊にこだわる頑迷固陋さ)…によって天皇制というシステムが守り続けられてきたことに対する敬意でもある…もちろん、1500年の間に実際には何があったのかは分からない。血筋もいかがわしいし、首をかしげざるを得ない天皇もいた。政治的・社会的に天皇やその候補が抹殺された例には事欠かない。ただはっきり言えるのは日本人は万世一系(元をたどれば皆同じ祖先)を重んじ、古いもの・長く続くものに価値を見出し、より長く続かせようとするということ。天皇個人個人ではなく、天皇を象徴/抽象概念としてあるいは「家」として愛してきた。天皇が目覚めて権力志向となったり、好戦的になったり、自主独立路線を貫こうとすると日本人本来の「和・話し合い」モードが崩れ、日本全体が「戦乱」モードになった。言い方を変えれば天皇がお神輿(みこし)に乗っておとなしく担がれている間は「和・話し合い」モードが続くということ。天皇という切り口で日本の歴史を振り返れば「和・話し合い」モードと「戦乱」モードを繰り返してきたということである。   最後に 山田風太郎の「戦中派不戦日記」の昭和20年の日記より: 8 月 14 日 兆民のいわゆる「口の人、手の人」事務的才能ある者のみを重用し、目先に銭のころがっているのが見える学問でなければこれを迂遠としてないがしろにした日本人の小利口さが、―天空から眼を離さない夢想家や、電子の回転を凝視する天才、...