会社とは何か? その2 ① 2001年以降会社で俺がしたこと

   2001年以降会社で俺がしたこと

2001年以降、俺は自部署の人事(仕事ができる人を他所から引っ張ってきたり、部下を評価・異動したり、ダメな部下を始末したり、採用面接したり)を始めた。それ以降、自分自身が会社を辞めるということは全く考えなくなった。不思議なもので人事再配置・異動を検討すると必ず要員が一人不足した(駒が一枚足りなかった)。なので自分から辞めるなんて言い出すわけにはいかなかった。俺の仕事・責務は部下のみなさんにご機嫌よく無駄なく仕事してもらうことに変わった。若い頃は“金で片の付かない仕事は嫌だ”、と思っていたが、思いのほかこの仕事に夢中になった。苦労も多かったけれど面白かったのかな?その代り、後継を見つけて10年以上続けたその仕事から解放された途端、「燃え尽きた」。

何に苦労したのか?「日本語の通じない日本人」を相手にすること。正真正銘日本人でない部下もいたが、何十年間も別の会社で「別の神様」を信じてきた日本人たちに一番苦労した。宗派が違うと同じ言葉でも微妙に意味、ニュアンスが違う。同じ“日本語”を使うので話が通じていると思っても通じてなかったというのは実に面倒なことだった。

トルストイのアンナ・カレーニナの冒頭に「幸福な家庭はすべてよく似たものであるが、不幸な家庭は皆それぞれに不幸である」という有名な言葉があるが、別の会社にいた人と同じ職場で仕事するという経験を繰り返すうちに、「優秀な奴はどの会社でもよく似ているが、馬鹿な奴は会社によって様々」と考えるようになった。一緒に仕事することになった別の会社の人を分析すると「お前らには負けないぞ、今までの神様を信じていよう」と構えて頑なで敵愾心・警戒心のある輩が10%、仲良くやろうぜ、が10%、そのどちらでもなく様子見が80%という感じだったような気がする。優秀か馬鹿かで分けると優秀:5%、普通:85%、馬鹿:10%といったところか。自分と違う神様を固く信じている人や馬鹿に気を取られていては仕事はできない。「ああ、こういう人なら俺の会社にもいる。」という優秀な人を見つけてお付き合いすることが精神衛生上、精神の安定上よかった。そして今までの神様を信じ続ける頑なで敵愾心盛んな人、馬鹿は時間の経過とともに消えていった。つまり、時間が解決した。と言っても10年以上かかった。合併やMAで宗派の異なる別の会社の人たちと一緒になって、違和感を感じることなく落ち付いて仕事できるようになるのに10年以上かかったのである。(合併やMAが日本で意味があったとは思われない)

これは、会社に入るということは特定の神様を信じること、あるいは会社という家/宗派の一員になることを意味する俺たちの世代でのことである。ある人は自分の入った会社(の名前)がMAでなくなったら「アイデンティティーがなくなった」と言った。

1990年以降入社した人たちにとって会社に入るということは特定の神様を信じることや家/宗派の一員になるということなのか?それとも自己実現のためか?単に飯を食うためか?単に飯を食うためだけとは思いたくない。社会の役に立ってる感や達成感、自分が上に上がっている/成長している感は大切だろう。

非正規雇用の皆さんについては皆目わからない。非正規雇用なんてなくすべきものなのか?会社=神とするならば非正規雇用は神様を信じない人が飯(パン)を与えてくれ、と言うようなもの。パンのためにやむなく自分の時間を売ると言うことか?雇用者側から見れば入信の手間もかからず、あとくされもなく、必要な時に必要な労力を供給してくれる人達。非正規雇用(派遣)の人たちに対して俺のしたことは①採用の時、それまでのキャリアや資格もさることながら「この会社・職場で長続きしそう」な性格か?を重点的にチェックした②同じ職場で3年以上派遣を続けてきた人たちは正規雇用にせよ、という法律の改正に従ってどんどん正規雇用に切り替えた。(3年以上続くんだから訳の分からない新入社員よりずっと優れた人材で長持することは実証済み。社員の急な退職であわてて補充をかけることは神経や労力を使い、本業に支障が出るから「長持」も重要だった。)

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