1960年安保闘争
安保闘争をWikiる。以下1960年安保について抜粋: 「安保は日本をアメリカの戦争に巻き込むもの」のキャッチコピーが受けた。 >> 今 でもこの古臭いカビの生えたコピーにしがみつくリベラルがいる。これって、戦争はOKなんだけど、アメリカに巻き込まれるのは御免だ、日本が自主的に始める戦争とか中国の戦争に巻き込まれるのなら望むところ、という風にも受け取ることができる。 ソ連共産党中央委員会 国際部副部長として、日本をアメリカの影響下から引き離すための工作に従事していた イワン・コワレンコ は、自著『対日工作の回想』の中で、 ミハイル・スースロフ 政治局員の指導の下、ソ連共産党中央委員会国際部が社会党や共産党、総評などの「日本の民主勢力」に、「かなり大きな援助を与えて」おり、安保闘争においてもソ連共産党中央委員会国際部とその傘下組織と密接に連絡を取りあっていたと記述している >>今でもロシアはともかく、中国共産党は日本の反政府運動を支援してるはずだ、と思うのが自然だろう。実際、沖縄の独立運動や米軍基地反対運動には口をはさんでいる。(金も出してる、と見るのが自然だろう)それは当然だ。だって、日本はアメリカの妾だけど、アメリカ旦那は遠くに住んでるから、近くの男がちょっかいを出すのは当たり前だ。 条約は 参議院 の議決がないまま、 6月19日 に自然成立した。またアイゼンハワーの来日は延期(実質上の中止)となった。岸内閣は混乱を収拾するため、責任をとる形で、新安保条約の批准書交換の日である 6月23日 に総辞職を表明した。岸首相は7月15日の総辞職の前日、暴漢に襲撃され重傷を負った(ただし、犯人は 大野伴睦 と縁のある人物で、動機は安保問題ではなく岸が大野へ 政権 を禅譲する密約を反故にしたことによると見られている)。 「60年安保闘争」は空前の盛り上がりを見せたが、 戦前 の 東條内閣 の 閣僚 であり A級戦犯 容疑者 にもなった岸首相とその政治手法に対する反感により支えられた 倒閣運動 という性格が強くなり、安保改定そのものへの反対運動という性格は薄くなっていたため、 岸内閣 が退陣し 池田勇人内閣 が成立( 7月19日 )すると、運動は急激に退潮した。 デモ隊側から見れば安保阻止は実現できなかったものの、自らの運動によって内閣を退陣させることに成功した意義は大きいとみ...