日本基督教団について
死亡した抗議船船長は「ヤバイ」操縦を楽しんでいた…同志社国際に「先生」と崇められた牧師活動家の「本当の顔」 によるストーリーと題してプレジデントオンラインに記事。
俺は辺野古に限らない、沖縄における全共闘世代の極左活動家の生き残りの連中と日本基督教団との”野合”が何故出来上がったのか、知りたかった。死んだ牧師は日本基督教団所属なのに日本基督教団のことが報道されてこなかったのはおかしい、と思ってきた。(ちなみに死んだ牧師の前に研修旅行での「開会礼拝」を担当していた牧師も日本基督教団所属だ)
日本基督教団は、”平和教育”という極左活動に、キリスト教という、なんか穏便で”平和的”な印象を与える「羊の皮」を被せるという役割を果たしたのだが、沖縄以外で日本基督教団と極左活動が野合した例を寡聞にして知らない。
この記事によれば、日本基督教団は政治的に偏った(危険な)団体だ。Wikiると、同志社大学・関西学院大学、東北学院大学、西南学院大学やルーテル学院大学、青山学院大学、神戸女学院、東京女子大、津田塾、桜美林などが日本基督教団と関連のある教育機関としてあげられている。これらの大学或いはその付属高校中学では同志社国際高校と同様の「平和教育」は行われていないのか?も誰も教えてくれない。こういう切り口で再度日本基督教団の政治活動・”平和活動”に関する記事をまとめてもらいたい。
俺が気に入らないのは、全共闘世代の過激派及び日本基督教団の極左活動を平和教育などと言う名前で若者を洗脳して後継者を作ろうと言う、ねじ曲がり腐った心根だ。そして多分確信犯的にその洗脳に生徒を差し出す学校だ。
以下、プレジデントオンライン掲載記事:
「有名な先生だから信じて乗せた」――同志社国際高の校長がそう繰り返した抗議船「不屈」の船長・金井創牧師とは何者だったのか。北海道に生まれ、東京の有名教会で牧師としてのキャリアをスタートさせた彼が沖縄に向かった理由は――。
※本稿は、産経新聞取材班『偽りの「平和学習」 沖縄・辺野古沖転覆事故の深層』(産経新聞出版)の一部を再編集したものです。
校長は「先生」と繰り返し呼んだ
亡くなった抗議船「不屈」船長で牧師の金井創氏は、同志社国際高校と辺野古をつないだキーパーソンだ。北海道生まれの牧師は全国を転々としながら沖縄にたどり着いた。「平和活動家」となった牧師の人生から浮かぶものとは、そして沖縄での「平和学習」の実相とは――。
「平和活動家」として有名な先生だから、信じて乗せていた――。
事故後、同校が2日間にわたって実施した保護者説明会では、安全管理のずさんさに加え、抗議船に生徒を乗せたこと自体に疑問の声が噴出した。質疑で同校の西田喜久夫校長は乗船プログラムのイデオロギー性を否定。代わって冒頭の言葉が示すような「先生」への信頼を強調した。
「先生」と呼ばれた金井氏は日本最大のプロテスタント教派である「日本基督教団」に所属し、当時は佐敷教会(沖縄県南城市)の牧師の立場にあった。
北海道生まれの元銀行員
金井氏は、同校2年生が毎春参加する沖縄研修旅行で、初日に行われる「開会礼拝」を平成30年から担当。令和5年から導入された辺野古沖での乗船プログラムを学校側に提案した。同校の研修旅行には欠かせない存在となった金井氏はいかなる活動を経て、この地にたどり着いたのか。
金井氏は昭和29年9月、北海道岩内町で生まれた。父親は北海教区で高名な牧師だったという。早稲田大政治経済学部卒業後は地元の銀行に入行するも、1年で退職し、父と同じ道をたどることを決意。牧師を養成する東京神学大に進み、その後は日本基督教団の富士見町教会(東京都千代田区)に伝道師として着任した。
「社会派」がヘゲモニーを握っていた日本基督教団
教団指導部は当時、反権力・反国家の思想を強く持つ「社会派」に牛耳られていた。教会を基点とした布教を重視し、イデオロギーと距離を置く「教会派」に対して、「社会派」の体制のもと「極左過激派の活動家らも教団に入り込んでいた」と教団関係者が回想した。
教団は42年、先の大戦時における政府協力を懺悔(ざんげ)する「戦責告白」を発表。1970年大阪万博でのパビリオン「キリスト教館」出展を巡り、反米や反資本主義の立場からの「反万博」主張が教団内で勢いを増し、これが社会派と教会派の分裂を生み、社会派体制が続いた。
金井氏は80年代に牧師としての歩みを始めたが「学生時代も左翼思想に賛同するような言動は聞いたことがない」と、東神大でともに学んだ70代の男性牧師が振り返った。それから40年余り。あのときの同級生の面影と反基地の抗議船船長としての最期がまだ、うまく像を結ばずにいる。
「上がり」の教会で牧師生活を始めたが…
金井氏が最初に伝道を始めた日本基督教団の富士見町教会は明治20年に創立され、全国のプロテスタント教会でも歴史が古い。「格式ある教会に招聘(しょうへい)されたということは、それだけ牧師として優秀で、覚えがめでたかったのだろう」。教団関係者はそう推察した。
「富士見町は『上がり』の教会だから」。金井氏自身がそう話すのを古参信徒は聞いたことがあった。結婚して子宝にも恵まれ、教会の主任牧師に次ぐ副牧師まで務めた。だが関係者によれば、そこで派閥争いに巻き込まれる形となり、教会を離れざるを得なくなったという。
平成8年、それまでの経歴を買われて明治学院付きのチャプレン(非教会付きの牧師)として着任することになった。
教団指導部は反権力・反国家の「社会派」が主流だったが、当時の金井氏は左右どちらの側にもくみしていなかったようだ。
ただ、社会運動に傾倒していた教団の牧師に、羨望に近いまなざしを向けていたことを古参信徒は覚えている。「ちょっと怖い感じはするけど、あの人はすごみがある」。その牧師のことを、金井氏はそんなふうに評していたという。
「日本のキリスト者の多数派は反権力、9条擁護」
キリスト教の思想史に詳しい教団関係者によれば、カトリックもプロテスタントも元来、武力を持たない「絶対平和主義」のスタンスは取らない。16世紀の宗教改革以降、プロテスタントも多数の教派に分かれ、互いに激しく衝突した。
その中で、改革左派の「再洗礼派」の一部が非暴力・絶対平和主義を掲げ、その流れをくむ教派が日本にも生まれた。
非暴力・絶対平和主義は、戦争放棄をうたう日本国憲法9条を絶対視する思想と親和性が高い。「日本のキリスト者の多数派は反権力、9条擁護という考えを強く持っている。日本基督教団は社会派と教会派に分裂したが、根っこの思想は同じだ」(教団関係者)
また社会運動にのめり込む牧師たちは、歴史上のイエスをローマ帝国に抵抗した「革命家」とみなす傾向があるという。イエスを神の子というよりも、抑圧と差別を生きた活動家ととらえ、国家の抑圧下にある人と共闘することこそ、真のキリスト教徒であると考えるのだ。
「帰る場所をなくし、向かったのが沖縄だった」
金井氏は明治学院のチャプレンとなって5年を過ぎたころから、沖縄の問題に言及することが増えていったという。
「沖縄は本土の犠牲になった」「(沖縄戦を経験した)おじいや、おばあのために」。教会の説教でも頻繁に沖縄に触れ、「かりゆしウエア」のシャツを好んで着るようになった。
金井氏の知人によれば金井氏は女性問題をきっかけに明治学院側との関係がこじれ、年3月の任期満了をもって退任することになった。同じ年、沖縄県南城市の佐敷教会に赴任。その後、当時の妻と離婚し、辺野古での抗議活動の先頭に立つようになった。
知人は「沖縄に肩入れするようになった経緯は分からないが、家庭、職場と帰る場所をなくし、向かったのが沖縄だった」と述懐。そしてその人物像について、こう持論を述べた。「何者かになろうとしながら、それまで軸になるライフワーク、生き方を持っていなかった。沖縄での社会運動がそこに収まったのではないか」
金井氏は自身の著作『沖縄・辺野古の抗議船「不屈」からの便り』(みなも書房)にこう書いている。「そして今イエスはこの沖縄に生きている。日本政府の大きな力にさらされ、圧迫された人々の声もかき消されてしまっているこの所にこそイエスは生きていると思うのです」
金井氏と同志社国際高の接点はどこから
『沖縄・辺野古の抗議船「不屈」からの便り』シリーズは、金井氏が「西が丘教会」(京都府大山崎町)に書き送った「沖縄からの便り」がベースになっているという。
同教会を含む日本基督教団の京都教区は、そのホームページ(HP)で示した宣教方針・方策で「沖縄・辺野古の米軍新基地建設に反対する」と、反基地のスタンスを明確にしている。
辺野古の転覆事故で生徒が死亡した同志社国際高について、京都教区は「関連諸団体」としてHPに一時掲載していたが、同校は文部科学省の調査に「許諾なく掲載された」とし、教区の牧師でもある教員が在籍しているものの、「関連団体ではない」と否定した。
金井氏と同校の接点はどこにあったのか。学校関係者によれば、明治学院のチャプレンだった平成16年に、同志社系列高の「宗教週間」の講師として招聘。そこから10年以上を経て、27年の宗教週間にも招いたという。
戦争体験者の牧師から礼拝を引き継ぐ
同校2年生の沖縄研修旅行の初日に行われる「開会礼拝」を長く担ってきたのは、沖縄戦における「集団自決」の証人として知られる元沖縄キリスト教短期大学長、金城重明氏(令和4年、93歳で死去)だったとされる。しかし高齢の金城氏の体調面などを考慮し、平成30年の研修旅行からは違う牧師に依頼することに。白羽の矢が立ったのが佐敷教会の牧師を務める金井氏だった。
戦後生まれの金井氏は沖縄戦の体験者ではなく、沖縄出身でもない。独自のイエス解釈のもとで、米軍普天間飛行場の辺野古移設に反対する抗議船を運航していた活動家だった。
同校の牧師が金井氏を紹介し、2年の担任会、全体の教職員会議で了承されたというが、その経歴や抗議活動が問題視された形跡はない。なぜ戦争体験者である金城氏の後任が金井氏で良しとされたのか。この点は明らかになっていない。
金井氏はその著作で、岩礁が多い辺野古の海の危険性を何度も強調している。「海では人は簡単に死ぬことを肝に銘じて」といった具合だ。だが法令上必要な船の登録をせず、救命胴衣の着用指導もおろそかにした。言行不一致は、事故が起きるまで看過され続けた。
日本基督教団が抱え続けてきた「沖縄問題」
金井氏が所属する日本最大のプロテスタント教派「日本基督教団」は、長期にわたり未解決の「沖縄問題」を抱えてきた。教団内部で「合同のとらえなおしと実質化」と呼ばれるテーマがそれだ。
教団は昭和44年、沖縄キリスト教団と合同。沖縄キリスト教団は日本基督教団沖縄教区に改められた。米軍統治下にあった沖縄の本土復帰に先駆けての団結は歓迎をもって受けとめられた。
だが、祝賀ムードは長く続かなかった。果たしてこれは対等な合同だったのか。そんな疑問が沖縄の信徒らを中心に提起されるようになったのだ。
合同によりカタカナの「キリスト」から漢字の「基督」へ、看板のかけかえを迫られたのは沖縄の教会だけだった。
また教団側の複数の資料によると、会員数がおおむね20人以上という教団規則の適用により、従来教会だった施設が伝道所へ格下げされる形となり、教区総会に信徒議員を送れなくなった。
終戦後の沖縄では信徒たちが収容所で信仰を守ってきた。そんな受難の歴史に鑑み、沖縄には信徒議席を特例的に認めるという議案も出されたが承認されなかった。
20年を経ても修復されない亀裂
長くくすぶっていた不満は1970年代後半から80年代にかけて「合同のとらえなおしと実質化」という議案名とともに一気に顕在化。平成8年の教団総会で、教団の「名称変更」を沖縄教区が提案したことで、組織を揺さぶる激しい論争となった。
変更案として取り沙汰されたのはカタカナの入る「日本合同キリスト教会」。総会は紛糾し、議案は継続審議を繰り返した末、14年の総会で廃案とされた。沖縄教区はこれに抗議し、教団と距離を置くことを宣言。16年以降、総会議員を選出しなくなった。その亀裂は20年以上たった今も、修復されていない。
金井氏が東京神学大大学院を修了したのが昭和58年。その牧師としての歩みは、沖縄合同問題の嵐が教団を吹き荒れた時期と重なる。
私生活上の女性問題をきっかけに、東京での牧師生活と家庭を去ることを決めたとき、金井氏の頭に浮かんだのが沖縄だった。本土の牧師としての沖縄への贖罪(しょくざい)――。そんな意識はなかっただろうか。
その人選は正しかったのか
『沖縄・辺野古の抗議船「不屈」からの便り』には、操船する上で辺野古の海がいかに危険かという記述が何度も出てくる。船長として、同乗者の命を守る責任の重さにも触れていた。
一方で、こんなくだりもある。辺野古沖で海上保安庁の高速艇に追いかけられたある日の、仲間と交わしたSNSのやり取りだ。
「不屈がガンガン爆走しているのをしっかり見ました♪ 笑 あの船に乗ったらヤバい! さすが、金井さん! 笑 と思って見てました―。」
「《金井》(中略)『ヤバい』は『すごくいい! 最高!』のほうのヤバイですよね笑」
金井氏の古くからの知人はこう嘆息した。
「人を乗せる場合は安全が第一。だが彼の場合、結局は楽しければいい、子供を楽しませてあげればいい、そこで終わり。そういう『愛』なんです」
事故で犠牲になった知華さんの父親は、産経新聞の取材に対し「戦争体験を語れる方から別の立場の方へと講師が代わり、大きな節目を迎えても、その人選が正しかったのかを誰も検証しないまま(プログラムが)続けられてきた」と問題点を挙げ、こう指摘した。
「誰がどう引き継ぎ、これからの平和教育をどうするのか。その移行に失敗した例が、同志社国際だと感じています」
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