坪内祐三「一九七二」を読む
2000年から「諸君!」に連載され、 2003年に単行本化された坪内祐三「一九七二」を読む。1972年は俺にとって、受験勉強が終わり親元を離れ東京に出てきて一人暮らしを始めた年。解放感で一杯の記念すべき年だった。それが今振り返ったらどんなことがあった年で、何が終わり、何が始まった年なのか?また1971年や1973年とはどこが違うのか?知りたかったし、自分にとってどんな年だったのか?などということを書き残しておきたいという欲求は前からあった。でも、なにをどう書き出し、どう納めるか?全くアイデアがまとまらない。大体何があったのかすら記憶が定かでない。
1972年で俺がはっきり覚えていることは:
①大学の受験の直前にあさま山荘事件というのがあった。詳しくは知らないし、受験に忙しくて知ろうともしなかった。ただ、人質を救おうと、大きな鉄の玉をクレーンで吊って山荘の壁にぶつけてるのをTVで見た・・・インパクトがあった。その後、この事件は過激派と呼ばれる学生運動だか左翼運動をする輩たちが身内のものを「総括」と称して殺し、そのことが知れ渡って左翼運動が急激に勢いを失うきっかけになった、という風に理解した。②受験する大学を”下見”に行ったが、「荒廃」を感じた。俺の入った大学はまだ「荒廃」の度合いが小さかった。(荒廃は学生運動の結果だったと想像はついた)③夏以降、ジャズ喫茶では"return to forever"というグループによる、俺の知ってる、俺の好きな”ジャズ”とは全く違う理解不能な音楽がよくかかっていた。”エレキ”だったし、リズムもロックぽかった。Miles Davisが始めた、”ロックとの融合=フュージョン”てやつで、Milesのグループにいた、Chick Corea以下がやっていた。これが流行って、俺は俺の好きな音楽はビートルズとボサノバで終わった、と感じた。つまり、俺が好きな音楽は1960年代まで、ということだ。④吉田拓郎がブレイクした。春は「結婚しようよ」夏は「旅の宿」が流行っていた。この2曲は俺も好きになった。何というか、当時の気分に合っていた。⑤映画「小さな恋のメロディー」を見た。大人や親や常識に反抗する子供の映画だ。
これくらいだ。
そんな自分の代わりに1972年を書いてくれた人がいたのだ。気が向くまま要旨を以下:
ポルノや性風俗が解禁された(つまり大ぴらに見たり聞いたりできるようになった)。これは1991年に篠山紀信が樋口可南子をモデルにヘア・ヌード写真集を出し、警視庁から「警告」されたあと黙認されたのと同様に、1972年には様々な雑誌でポルノや性風俗が取り上げられ、日活ロマンポルノやストリッパーの一条さゆり、「四畳半襖の下張り」を掲載した雑誌「面白半分」などが続けて摘発されたが、その後黙認されたことを言う。
連合赤軍の「あさま山荘事件」がやはり最も多く語られている。この年最大の事件だったのだ。
森恒夫率いる世界同時革命を目的とする「赤軍」と永田洋子率いる反米愛国・一国革命を旨とする「日本共産党革命左派(革左)」がくっついて連合赤軍ができた。革左は1971年に銃砲店を襲って銃や弾薬を持っていたが金がなく、また爆破装置製造ノウハウもなかった。赤軍は爆破装置製造ノウハウと銀行を襲って奪った金は持っていたが武器はなかった。坪内は「総括」という名のもとに行われた連続リンチ殺人事件は、異常ではあっても狂気ではない、と言う。高度成長後期の奇妙な解放感とその裏返しの閉塞感の中で、革命を目指した若者たちが、その反市民性によって闇へ闇へと追いやられ、最後には山奥のアジトに引きこもり、その密室の中で誰もが持っている小さなエゴがぶつかり合い、一番権力を持つエゴによって止揚を求められ「総括」されていった、と。彼らの殺し方は猟奇的だった。新聞や雑誌はその猟奇性をスキャンダラスに書きたてた(どこからも批判されることのない攻撃材料を見つけた時の新聞や雑誌のはしゃぎぶりは今も昔も変わらない)。坪内が体質的に左翼嫌いになってしまったのも、そのときの雑誌の猟奇的な報道の影響が大きい・・・多分、俺を含む多くの日本国民が同じように左翼嫌いになっただろうと思うが、今にして思えば、それはプロパガンダ、情報操作の面もあったんだと思う。
1978年坪内の入学した早稲田では「革マル」が文学部キャンパスを闊歩していた。
革左の創始者、河北三男と川島豪によれば、結婚はリーダーの許可が必要だったし、同じ組織内での結婚が望ましいとされた。結婚は男の同志は性的にも生活の上でも女性の奉仕を必要とするという前提に立っている点で、女性解放の原則とは大きく矛盾していた。これは、性を解放するのではなく、抑圧する方向を目指していた。永田洋子の最初の性体験は、ほかならぬ川島にレイプされるというもので、彼女はとりわけ、自由な性交渉には無理解だった。それでも革左は赤軍に比べればずっとフェミニズム的だった。
合同軍事演習参加への決意表明をしている時、遠山美枝子は「髪をとかしたりクリームを唇に塗ったり、ねそべったり」していた。 永田洋子にとってその姿は遠山がしていた指輪問題と重なって不快に見えた。つまり、否定されるべき女性性の象徴に見えた。赤軍派大幹部の高原浩之夫人である遠山は、大幹部の妻であることを誇示したいが故にその「結婚指輪」をはずさないでいると永田は考えた。(実はその指輪は父親が自殺した後、母親が金に困った時のためにとくれたものだった)永田洋子は、遠山美枝子に「一体山に何で来たの」と質問し、、その女らしい長い髪に対しても注意を与えたが、これをきっかけに革命左派の人々から「革命戦士」として山に入ることの自覚の有無に対する遠山へのつるし上げが始まった。赤軍派と革命左派には、共闘のためのかけひきがあった。二つのグループが一つになるための止揚点を求めていた。それにはスケープゴートが必要になる。1971年8月、革命左派はその2か月前に山岳ベースから脱出した向山茂徳と早岐やす子の二名の同志を情報リークのおそれから殺害した。そのことを知った森恒夫をはじめとする赤軍派のメンバーは運動に対する革命左派の真剣さを知った。その「負い目」があったからこそ、逆に、合同演習の初日に、森は、革命左派の人々に威圧的な態度を取ったのである。その威圧的な態度が革命左派の人々の反発を呼び、その反発が遠山美枝子への個人攻撃へと流れて行った。永田は向山、早岐さんのようなことがもうあってはならないという思いもあったので遠山さんを批判したのに、森氏がこの二名の処刑の積極的な肯定の上で遠山さん批判を受け容れたことに気づかなかった。1971年12月6日朝、全体会議の際に、革命左派からの遠山美枝子批判に赤軍派が真摯な対応を見せ、その問題が一応解決したことによって「両派の間には同志的な団結の機運が高まった」。それまで遠山美枝子を幹部の夫人として腫物のように扱ってきたことへの反動のように批判の域を超えたつるし上げ的な追及が始まった。それは批判でも、赤軍派の方が断固とし、徹底していることを革命左派に誇示せんとするものであった。
南沙織が1971年紅白歌合戦に初出出場したときの紹介アナウンスは、「みなさま、今年もいろいろのことがございましたが、なんといっても明るいニュースは、ながらく日本人の念願だった、沖縄が返ってくることであります。この放送は、いま、沖縄のみなさまへも中継されております。沖縄と言えば、沖縄からやって来た潮風のシンデレラ、ミ・ナ・ミ・サ・オ・リさんでーす。どーぞ。」というものだった。宝塚劇場の外では南沙織の顔が大写しにされた自民党のポスター、「沖縄をあたたくむかえよう。自民党」というのがパタパタ風にはためいている。白地に、沖縄風装束をつけた南沙織のニッコリ写真がある大型のポスターである。>>俺は南沙織、小柳ルミ子、天地真理の三人の中では南沙織が一番好きだった。今は時々、天地真理を聞く。
その紅白が終わろうとする頃、連合赤軍榛名ベースでは、尾崎充男が「総括」の最初の犠牲者として死んでいるのが発見された。この死亡について、最高幹部の森は幹部の山田とヒソヒソ話をしたのち、「尾崎の死は、共産主義化の闘いの高次な矛盾、総括できなかった敗北死であり、政治的死である。共産主義化しようとしなかったために、精神が敗北し、肉体的な敗北へと繋がっていったのだ。本気で革命戦士になろうとすれば死ぬはずがない。革命戦士の死は敗北を意味している」と語った。
>>ここは、戦時中の軍人の精神主義と全く同じ。>>
森恒夫は海外に渡った重信房子とソリが合わなかった。いや、それ以前から森は、重信のことを嫌っていた。重信は女を売り物にしている、と森は考えていた。けれど、赤軍派内での活動キャリアの差、すなわち階級の違いで、森は重信に遠慮があった。そして、その種の遠慮は、往々にして、憎悪へと反転する。それは大幹部の高原浩之夫人であった遠山美枝子に対しても同様だった。永田洋子や坂口弘らのいた革命左派のスローガンは「反米愛国」だった。そして、重信房子らのハイカラなインターナショナリズムを嫌い「国内闘争を中心に据えて軍を再構成しようとした赤軍派の森恒夫について、植垣康博は「森氏や坂口氏は、まさに硬派だった。特に森氏がそうだった。軍人的な武骨さ、禁欲性、権威主義的な官僚制、これらを、森氏は前面に押し出し、軍再建の基軸に据えていた」と書いた>>このくだり、養老孟子さんが東大の助手時代、全共闘の連中に吊るし上げられ、そのときの印象を「全共闘の連中は戦時中に『竹槍でアメリカと戦おう』と言っていた軍国主義者と同じだ。自分たちに逆らう者を”非国民”と非難し、暴力をふるい、果てには殺す」と言ったがその通りだ。>>
「ヤマザキ、天皇を撃て!」を書いた奥崎謙三は「出征する前に、私は天皇の写真がのった新聞紙を便所の中に持ち込んで尻を拭くことで先生が神よりも偉いと言ったことに対するささやかな反抗をしました」と書いている。一方、週刊読売1972年2月19日号に、横井庄一は、「恥ずかしながら横井庄一、ただいま帰ってまいりました」という帰国第一声に続く記者会見で「ここにまいりましての一番の印象は、天皇陛下様に、恐れ多くも天皇陛下様に関わる雑誌、映画を見せられました。胸中を察して、ただただ、もったいないことと思っております。天皇陛下様に十分奉公ができなかったことを恥ずかしいと思っております」と語った。
札幌オリンピックは、アマチュアリズムの変質と開催地の環境破壊が初めて問題視されたオリンピックだった。
アントニオ猪木は1972年1月26日、京王プラザで記者会見を行い、新団体「新日本プロレス」の設立を発表する。そして猪木の「新日本プロレス」は、こののち、それまではタブーとされていた日本人同士の対決を売り物とし、善玉の日本人対悪玉の外国人という、プロレスの世界の二項対立は崩れて行くことになる。
1972年6月17日、自分の意志を正しく伝える為に、つまり、リアルなコミュニケーションを求めて、佐藤栄作は記者団を追出し、テレビカメラに向かって一人、語り続けた。だが、その言葉は空転していた。それを見ていた視聴者との間にリアルなコミュニケーションは少しも成り立っていなかった。視聴者にリアルに伝わってきたのは、古いメディアを批判しつつ、新しいメディアとの対応に不慣れな老人の、痛々しく上滑りな感じだけだった。佐藤栄作がはじめて総理大臣の座に就いたのは1964年11月。以来8年近くの間、彼はずっと、その座にあり続けた。それは1965年から73年に至る読売巨人軍のいわゆるV9とダブる。
永井陽之助は「戦後、日本はその置かれた環境からやむを得ない面もあるが、なんといってもアメリカの真似をした。もともとアメリカは戦後、世界戦略として普遍主義的な原理を持ち、勢力均衡や勢力圏思想を否定し、地域主義を否定した。通貨でも資本でも人間情報でもそれらが自由に流通拡大して行けば行くほど、世界は平和になり安定するという基本発想だ。それは当然、グローバルな世界市場での経済的分業にならないと成り立たない考え方だ。それはケネディ初期まで何とかやってたけれど挫折が来る。日本ではケネディーが理想主義者で、ケネディー神話がまだ通用している唯一の国だが、彼こそ、全く新現実主義者という言葉がふさわしい力の信者だった。また、その背景にはさきほどお話したグローバリズムがあり、国内外における南北問題の解決に致命的な失敗をし、今日のアメリカ自由主義のもつ一種の偽善的モラリズムと普遍主義がある。ケネディはそれらの力を背景にしてごり押ししようとして挫折した。」と語る。
武田泰淳は1973年2月に出た対談集「私はもう中国を語らない」で「ヒッピーが好きな人たちはね、中国の革命思想とか革命芸術ね、それはなんとなく古臭いように感じるんだな」と述べた後「今ヒッピーが流行りだけれども、若い人はヒッピーの存在を許さない国家、つまり中国みたいな、まじめな道徳的な国をバカにするって言うか、古臭いというか、関心がないように思われる」という。そういう古臭い若者だったから、革命左派の坂口弘たちは流行としての学生運動すなわち全共闘運動がとうに終焉していたのに、もたもたと運動を続け、しかも尖鋭化してしまったのかもしれない。1972年2月4日金子みちよが総括死した日、最高幹部であった森恒夫と永田洋子は資金調達のため東京に向かった。中心人物の二人が消えると、場の空気が変わり、タガが緩んだ樽から水が滲みだすように脱走する者が相次いだ。N・I子さんが榛名山で自殺願望者と間違えられ、乗り合わせたタクシーの運転手により警察に引き渡されてしまった。それ以降、主な山の登山口に地元の警察署員が張り付き、捜査の網は一気に狭められた。1972年2月19日、あさま山荘の中では、坂口弘たちが食い入るようにTV画面を見つめていた。最初に映ったのは山荘の上の路上で負傷した機動隊員が同僚の肩を借りて足を引きずりながらパトカーに向かって歩いて行く姿だった。次に森恒夫と永田洋子の二人が妙義山中で逮捕され連行されて行く場面も映った。森君は機動隊員に両脇を固められていたが、ややうつむき加減ながら、口をキッと結び、周りの機動隊員よりも恰幅のいい体躯を茶色の作業ジャンパーに包んで、堂々と歩いていた。後方の永田さんは背が低いため両脇の機動隊員に引っ張り上げられるようにして連行され、髪を振り乱していた。1972年2月21日、TVに映し出されたニクソン訪中の映像は、ベトナム戦争や国内経済の行き詰まりから生じたアメリカの相対的な力の衰えを背景に、新たな脅威を増してきたソ連を念頭に置き、朝鮮戦争以来の中国封じ込め政策を転換して中国との間に新たな改善と均衡の道を探るものとしてあったといえよう。それは、彼らの武闘路線を根底から覆すショッキングな出来事であった。だが、彼らの未熟な頭はこうした背景を何一つ理解することができず、ただ画面に映るニクソン訪中風景をジッと見つめるだけだった。つまり、この時、坂口弘は自分の革命家としてのアイデンティティーを失ってしまったのである。
日本語でロックを歌う、松本隆のはっぴいえんどは偽物扱いされた。松本は「残された手段は僕らの日本を探し出すために、(もう日本語でロックをやることについては何も言わない。そんなことはイロハの問題である。話してもわからない頭の悪いヤツには唾をひっかけてやるだけだ)日本のロックに埃のかぶったかび臭い伝統なんか最初からない。要は自分が、これからやることが新しい伝統になるのだ」と語った。
高田渡はシングル盤「自衛隊に入ろう」(1969年12月)のB面に「東京フォーク・ゲリラの諸君たちを語る」という曲を収録し、フォーク・ゲリラの人々を痛烈に皮肉った。自伝「バーボン・ストリート・ブルース」で高田渡は当時のことを回想する「そもそも僕は集団の中に入って何かをするというのがあまり好きではない。たとえばデモに行くのだったら、自分一人でゼッケンをひっかけて行くのが本来の姿だろうと思うのだ。印刷したゼッケンをみんなでぶら下げて行くようなのは、デモでもなんでもない。それはただの残業である。僕はべ平連をあまり好きじゃアなかった。なにしろ僕がこの中で一番嫌いな男の一人が小田実だったからだ。当時、僕のなかでひっかかっていたのは、「日本の中がグチャグチャになってるのに、ベトナムがどうのこうのという話ではないだろう」ということだった。ところが小田実は「世界を見ろ、世界のことを考えるべきだ、」と言っていた。家の中には飯粒が一つもないような状態なのに。まず家の中の飯粒を問題にするのは私小説的リアリズムの視線だ。だがその社会性の欠如は「四畳半フォーク」として蔑視された。高田渡はこうも言っている「言い過ぎかもしれないが、学生運動の只中にいた人たちはある意味で自分たちの都合のいいようにフォークソングを利用していたのではないかという気がする。それが利用できないとなると、手のひらを返したようにこっぴどく叩く、自分たちからは何も創造しようとしないくせに、それはずるいだろうという気持ちはあった」高田渡は共産党の活動家だったこともある父親に連れられて、60年代安保の大衆運動を少年時代に目の当たりにした。そのときのことを後で振り返ってみて思ったのは、「やはり権力は強く、大衆は弱者なんだな」ということだった。子供心にもびっくりするぐらい大勢の人たちが日本を変えようとして立ち上がったのに、結局は潰されてしまったのだから。高田は60年安保という出来事を通し、幼心にも僕は権力の強大さを知った。その60年安保の時と比べると、70年安保に参加した学生の意識は明らかに低下しているように感じられた。60年安保の時の学生は死ぬ気でやっていたのに潰された。70年安保の学生は親のすねかじり、部活感覚の奴らばかりのように見えた。だから高田は70年安保のときに、「一歩引いて見ていた」つまりある意味で早熟だった。さすが「四畳半フォーク」。シラケ世代の先駆と言える。「だから弱いものは黙っていればいいとは決して思わなかったし、弱いものは弱い者なりの闘い方があるはずだと、僕は僕なりに考えていた。
>>俺たちの世代はシラケ世代と呼ばれていたことを思い出す。高田渡は1949年生まれ。団塊世代だ。俺は、人数ばっかり多くて激しい生存競争にさらされて我先にバスに乗ろうとする彼らに気おされ、シラケて「バスがどこに行くかも知らないで我先に乗ろうとする」と言って馬鹿にした。四畳半フォークと言えば「神田川」。Wikiれば神田川は1973年9月発売。ケッコンしないで同棲する男女を歌ったものだったが、同棲は、「小さな恋のメロディ」よろしく、親や大人や常識に対する反抗でもあった。>>
1972年早々の吉田拓郎の「結婚しようよ」8月の井上陽水の「傘がない」そして6月に発表され、翌年流行ったガロの「学生街の喫茶店」・・・拓郎の場合、自分がかつて広島フォーク村で正統派フォークソングをやっていただけに、その、転向がこの歌の中にもリアルに出て「髪が肩まで伸びたら結婚しよう」と歌う。それは当時にあってははっきり、アンチ体制派であるものから、体制派に与することの一つのシルシでもあるケッコンを歌っている。それが陽水の「傘がない」になると、もっとはっきりしている。雨が降り出してきた今、主人公にとって問題なのは傘がないことであって、そのほかの世の中の動きは二の次だというのだ。その頃、ごく普通の中学生や高校生がレコードの消費者となっていった。つまり、少年少女たちが自らの好みの音楽を、自らのものとして所有することが可能になった。音楽が中学生までをも含む若者相手の一つのビジネスとなり得るようになった。そういう中で、それまでの歌謡曲にはない今時の匂いを持った、しかし、必要以上には過激でない、吉田拓郎のフォークミュージックが大ブレイクする。こういう時代の中で、ロックの側からキャロルが音楽シーンにデビューする。矢沢永吉の言葉「俺はね、四畳半でいつまでもぐたぐたして、なぐさめあってるフォークって大嫌いなんだ。TVに出たっていいじゃあない。金が入ってこなけりゃ、いい楽器だって買えないし、練習場所だって借りられない。練習できなきゃ、一般大衆にアッピールできなじゃないか。いつかお金がどっさり入ったら、スタジオ買って朝から晩までガンガン練習するんだ」
>>ケッコンすることは体制派に与する事・・・これって、夫婦別姓に形を変えて、21世紀にもしぶとく生き残っている。>>
スター誕生によって生み出された最大のスターは山口百恵だった。1972年12月6日、東京後楽園ホールで行われたスター誕生第5回決戦大会で山口百恵が準優勝し、13社からの入札ののちホリプロに所属し、スターへの第一歩を踏み出す。1972年の紅白は80.6%の視聴率(1963年の81.4%に次ぐ)を獲得する。それは古い歌謡曲世界のおわりを告げると同時に新しい歌謡曲世界のはじまりを告げる高視聴率だった。
>>当時全盛だったナベプロに反旗を翻す素人スカウト番組。当時ジャニーズ事務所にいた郷ひろみがデビューしたのも1972年。1975年の郷ひろみの独立は裏でナベプロの渡辺晋が動いたと言われる。また、後年明らかになったジャニー喜多川の性癖の問題を郷が嫌ったと推測される。真相を郷ひろみに語ってもらいたいものだ。>>
「どうして俺だけ」という風潮は、この頃から始まったものかもしれない。但し、この頃はその己の失敗を「運」と諦める潔さがまだあった。これ以降、そのマイナスの「運」を「運」として認めたがらないようになって来た。先日議員辞職した辻本清美議員に対する私の、同世代的嫌悪感は、彼女の政治ポリシー(イデオロギー)やスタンドプレー好きに対してでなく、「どうして私だけ」という彼女の学内戦後民主主義的小人物性にある。
1973年1月号の「子殺しの未来学」で立花は「子殺しにしても、生活苦のため子供と無理心中といったケースは新聞でも扱いが小さい。新聞で子殺しが目立って来たのはその動機、殺し方に異常なものが多くなってきたからだ。圧倒的に多いのが「そそうした」「泣き止まない」ことに対する折檻、「育児ノイローゼ」。放置、監禁して遊び歩く、再婚、就職に邪魔だからと殺す。>>今に続く。坪内は連合赤軍の連続殺人は狂気ではない、と言う。部外者でもその経緯や理由が情理で追えるからだ。子殺しは情理には合わない。狂気だ。しかし、狂気って50年以上も続くものだろうか?>>
1972年、山本徹美はコインロッカーベイビーについて、コインロッカーは保管期限が過ぎると係りの人に合鍵で開けられる。そのことは嬰児を捨てる女性も承知してるはずだ。つまり、発見を望んでいるように思われる。赤ちゃんの死体は警察に渡され、お骨にして弔ってもらえる・・・>>コインロッカーベイビーは廃れた。赤ん坊がただ邪魔になって捨てるようになったのか>>
村上一夫の劇画「同棲時代」が流行っていて、結婚にとらわれないスタイルがもてはやされた。が、妊娠となるととたんに状況が変わる。まだまだ女性の経済力は弱く、未婚の女性が育児をこなすには厳しい現実があった。
>>その通り。子供ができたらどうする?は未婚の男女にとって最大の恐怖・問題だった。1960年代、女子大生の数も増えていたが、それより、造反有理の流行で親や体制に反抗することが訳もなくもてはやされた。しかしそれは恋愛、フリーセックスまでだった。つまり「ごっこ」・流行病だった>>
1964年生まれの切通理作が小学3年生の時の思い出として「私の住む阿佐ヶ谷には長髪の若者がタムロしていた。私の家も2回を下宿屋にしていた。私は下宿に住む彼らによく可愛がってもらった。同棲していた男女など、この小さな客に冷蔵庫からスイカを出してくれ、白いギターを伴奏に、いくらでもカラオケをやってくれた。本棚には「ガロ」があった。まだ。クーラーなど夢物語で、首を振る扇風機のファンを包む網につけられたリボンが舞い、空け放した窓は青空と部屋の中をつないでいた。私は大きくなったら、自分も彼らのような大人になるのだと思っていた。」
>>懐かしい景色。「ガロ」は懐かしい。俺はガロや漫画アクションよりビッグコミックの「ゴルゴ13」、「浮浪雲」、「どん亀野郎」が好きだった。新刊を買う金を節約すべく、食堂や喫茶店においてあるものを読んだり、古本屋で買った>>
1972年の映画:クリント・イーストウッド「ダーティハリー」、スティーブ・マッキーン「ジュニアアボナー」、ジェームス・コバーン「夕陽のギャングたち」、ピーター・オトゥール「マーフィーの戦い」、ロバート・レッドフォード「ホットロック」ジョン・ヴォイト「脱出」、ダスティン・ホフマン「わらの犬」、アラン・ドロン&リチャード・バートン「暗殺者のメロディー」「ゴッドファーザー」「フエンチ・コネクション」「ラスト・ショー」「フェリーニのローマ」「激突!」・・・ニューシネマとハリウッド復活の端境期だった。
ピア第10号の編集後記:イベントのコーナーはいかがですか。今回はデパートonlyになってしまったのですが、お祭りや面白い情報を集めていくつもりです。何かありましたらご連絡を。それからもう一つ「youとpia」のコーナーを、少し内容豊かに増やしてみたのです。と、ここまではよいのですが・・・。お詫びと共に真剣に考えねばならぬことはすでに皆さんもお気づきのことと思いますが、ジャズ喫茶のページがないことです。1日発売のためにはどうしても原稿が間に合わないのです。
読者の「youとpia」に対する寄稿:
youとpiaを読むと、私と同じ様に思っている人達がいるのだなーと思い、とてもうれしくなります。「ぴあ」がだんだんよくなっていきますね。こんなスバラシイ雑誌をまだ知らない人達は不幸ですね。「ぴあ」の購読者は、そんな不幸な人達を助けてやりませんか。
近頃の「ぴあ」の傾向に私は反対です。youとpiaの充実や読者との直接の交流を求めようとするのが気に食わない。そもそも「ぴあ」はマスコミ時流に乗って、都内の映画館、アングラ劇、ジャズ喫茶などのプログラムだけを掲載すべく世に出たのであろう。なにも小型”キネマ旬報”“ロードショー”を目指しているわけではないんでしょう。私は「ぴあ」にヤングの情報誌より大人の情報誌に変身して欲しい。
>>当時、「ぴあ」のような、マスではない、また、匿名でもない「四畳半的な」コミュニケーションがあった。俺は「ぴあ」そのものは読んだことはない。しかし、上述のような”牧歌的”な?やりとりは様々なメディアで存在していた。懐かしく思い出す。俺の愛読した今は亡き「スイング・ジャーナル」も似たような編集後記や読者の投稿があった>>
沖縄県が発足、日中共同声明が調印、グアム島で元日本兵が発見、あさま山荘事件により左翼系学生運動終焉、田中角栄首相に、「日本列島改造論」、「恍惚の人」、『ぴあ』、高松塚古墳壁画、外国人力士(高見山)初優勝、外貨持ち出し制限撤廃、中ピ連結成、タバコへの「吸い過ぎに注意」表示、ミュンヘン五輪(男子バレー金メダル)、『漫画アクション』3月2日号から「同棲時代」連載開始、札幌五輪・スキージャンプ70m級でメダル独占、パンダブーム・・・
>>1972年の出来事リスト:やはり田中角栄が一番印象深い。ただし、1972年当時は政治何かに全く興味はなかったから、以下は「後知恵」だ。首相になった直後は持ち上げられたが、もともとインフレ気味な政策だったのに加え、オイルショックがもたらした猛烈な物価高で急速に支持を失い、1974年辞職。その後、自分の頭で考えてアメリカをさておき中東や中国と付き合おうとしたことからアメリカに睨まれ、アメリカの情報操作によってロッキードからの収賄を暴露されて1976年逮捕される。>>
週刊朝日1972年7月21日号に「南北朝鮮正解の大物が、分断27年、はじめてソウルー平壌間を往復した。共同声明は平和統一への誓約書であった。」朴正熙大統領は反体制派勢力の拡大を恐れ、10月17日、戒厳令を布告する。これに対し、週刊朝日11月3日号に、来日中の金大中へのインタビュー「戒厳令は憲法違反で祖国統一の願いを踏みにじるものだ」を記載。(翌年、金大中は滞在先のホテルグランドパレスでKCIA工作員によって拉致される)こういう流れのなかで、当時。拉致と言えばむしろ北朝鮮ではなく、韓国の専売特許であり、後年北朝鮮によるものとされた拉致も、KCIAの仕業、などという推測がメディアでなされた。
週刊読売1972年9月2日号に「人類の未来を照らす偉大なチュチェ(主体)思想」というコピーが躍り、翌週の9月9日号では「『金日成首相の思想』の著者で朝鮮総聯の第一副議長だった金炳植が團伊玖磨と対談、「日本ではどうしてこのように優れた人物が政治家にならぬであろうか」と絶賛されている。
『世界』1972年12月号に特集「朝鮮民主主義人民共和国の主張」のまえがきを、のちの『世界』の編集長、さらには岩波書店の社長になる安江良介が「在日朝鮮人の祖国への自由往来は今もごく一部にとどめられ、朝鮮民主主義人民共和国からの来日も、忍耐強い運動と世論の支持とに加えて、政府の勝手な思惑によって辛うじて受け入れられているに過ぎない。この1,2年漸く日朝間の交流が活発になりつつあるが、それは、朝鮮側の積極性と厚意とに頼ったものであり、交流と言うには、あまりに一方的である」、と書いた。また、金日成のインタビューでは金の「この1年間に、日本人民の闘争もたいへん力強く繰り広げられました。日本人民の闘争が強まったために佐藤反動政府は追い出され、田中政府がこれに代わりました。これは、日本人民の闘争の結果だといえます。われわれは日本人の闘争を高く評価し、それを全面的に支持します」という、大本営発表のような言葉が一流出版社の一流雑誌に堂々と載った。
安江は「朝鮮民主主義人民共和国の歴史はおのずから個性にあふれた思想と制度とを形成している」とも書いた・・・「個性」と安江良介は言った。しかし、二人の革命家、金日成の人間改造(チュチェ思想)によって北朝鮮の人々は個性を失い、田中角栄の列島改造によって日本の街は個性を失った。街が個性を失えば、それに伴って人間だって個性を失う。しかもそのことに全く自覚なく、だからこそ(自覚がないからこそ)北朝鮮の人たちの没個性を簡単に笑い、そして哀れむことができる。
末尾に「私を含めてこれから30年後は。」と・・・
>>1972年から30年後に書かれたこの本の最終章。筆者の坪内は何思う?30年もたてば正義不正義は逆転する、か?北朝鮮の一糸乱れぬマスゲームを見て「日本の方がまだまし」と思うことに対する皮肉。あと30年たてば一周廻って不正義が正義になる?
嗚呼、無常!と思いつつ、一方で「60年たっても変わらない正義はないか?」と探す。永遠不変の正義に近いのは、西郷隆盛ではないか?明治維新の中心人物でありながら、明治維新を進めた他の連中の”西洋かぶれ”はいずれ日本を潰す、と醒めていたし、また、西洋かぶれについて行けず弾き飛ばされた古い武士の連中が起こす反乱に付きあい、折を見て「もうここらでいいだろう」と自害する。明治維新から80年後、西郷の考えの通り、日本は滅ぶ。西郷は、正しいまま死んだ。明治維新以来、日本はずっと西郷が指摘した矛盾の中をグルグル回ってきた。”西洋かぶれ”、”ごっこ”、”出羽の守”・・・これが流行って、それに目を奪われて、それが廃れて・・・の繰り返し。この輪廻から離脱するには鎖国時代に戻れ・・・>>
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