共産党の女性・朝鮮人差別

 與那覇潤「江藤淳と加藤典洋」に以下:

柴田翔は、「されどわれらが日々」で”女子党員が、同志であったはずの何人かの男の学生党員たちによって、ならず者の群れに襲われたかのようにもてあそばれ、辱められたという噂”に触れるが、査問の名を借りた同種のリンチは実在した。柴田が全共闘に感じた不穏さは、1972年2月のあさま山荘事件の後に判明した連合赤軍の内ゲバにより、現実となる。惨殺された12名のうち、4名を女性が占める「総括」という暴力への入り口は、女性のメンバー自身をも含んだ女性性への憎悪(ミソジニー)にあったとされる。

(以上の本文に注記として):立命館大学で起きた事例がある。お茶の水女子大学では、活動家の世話を女子大生に命ずる「ハウスキーパーまがい」の性的搾取により自殺者を出した。

>>與那覇は、上記の女性差別・女性被害は共産党の51年綱領・軍事方針がもたらした、とする。

日本共産党第5回全国協議会(五全協)に関するWikiの記述以下:

レッドパージ後、中華人民共和国亡命した徳田球一らは北京機関を設置し、その意を受けた共産党主流派は1951年2月23日日本共産党第4回全国協議会(「四全協」)を開いて反米武装闘争の方針を決定し[1]中国共産党抗日戦術を模倣して、山村地区の農民を中心として全国の農村地帯に「解放区」を組織することを指示した。

四全協を受けた同年10月の「五全協」では「日本の解放と民主的変革を、平和な手段によって達成しうると考えるのは間違いである」として「農村部でのゲリラ戦」を規定した『日本共産党の当面の要求――新しい綱領』(51年綱領)が採択され、「われわれは、武装の準備と行動を開始しなければならない」とする軍事方針が打ち出された[2]

「五全協」では、「51年綱領」が無修正で採択された[3]。「51年綱領」で武装闘争不可避論、武装闘争路線、暴力革命路線および「軍事方針」が採択されたことにより、全国各地で様々な事件が多発した [1]。当時の日本共産党は山村工作隊中核自衛隊(暴力による革命を実現するための日本共産党軍事組織)などの非合法組織をつくり、1952年以降は火炎瓶闘争を展開した[4]

再び「江藤淳と加藤典洋」より:

GHQの統治下で釈放され、合法活動を通じて1949年の総選挙で35議席を得た共産党の命運は、50年代に暗転した。51年の9月、独立を拡幅するサンフランシスコ講和条約の締結に国民が沸く中、翌月の五全協で日本共産党は毛沢東型の暴力革命をめざす新綱領を採択。平和への復帰ではなく、むしろ再度の「戦争」へと突き進む。それは1950年6月に始まっていた朝鮮戦争と正に一体だった。当時イギリスの労働党政権は共産中国を承認していたが、米国はこれを説得して対日講和条約から中ソ両国を排除した。ソ連が指示した日本共産党武装路線は、その報復とも見られている。(略)51年綱領の無謀さは、52年10月の衆院選で107名の候補者を立てたにもかかわらず、共産党の当選者がゼロとなったことに示されている。成算のない火炎瓶闘争が繰り返され、国民の反共意識はむしろ強まった。(略)

実は、朝鮮戦争の間、日本共産党の活動家は在日朝鮮人が多かった。しかし武装闘争を放棄した六全協に前後して、彼らは党籍を離脱させられる。「最前線に立った朝鮮人日本共産党員たちの日本党籍は失われ、」冷戦下のアジアの苦難もまた、戦後日本の視野の外へと去って行く。

53年の3月にスターリンが死去し、7月には朝鮮戦争も休戦となって、軍事組織の必要性は遠のいた。

日本共産党 第6回全国協議会(にほんきょうさんとう だい6かいぜんこくきょうぎかい)に関するWiki記載以下:

1955年昭和30年)7月27日から29日に行われた[1]日本共産党がそれまでの中国革命に影響を受けた「農村から都市を包囲する」式の武装闘争方針の放棄を決議した会議である[2]。「六全協」(ろくぜんきょう)と略して呼ばれることも多い[2] [注釈 1]

共産党・左翼に対する抑圧・弾圧=「逆コース」に関するWiki記載以下(1947年~1955年):

第二次世界大戦敗北した日本は、1945年(昭和20年)から1952年(昭和27年)まで、ポツダム宣言降伏文書に基づき連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の占領下に入った。当初、GHQは「日本の民主化・非軍事化」を進めていたが、1947年(昭和22年)に日本共産党主導の二・一ゼネストに対し、GHQが中止命令を出したのをきっかけに、日本を共産主義の防波堤(防共の砦)にしたいアメリカ政府の思惑で、この対日占領政策は転換された。


閑話休題:
1953年のスターリンの死後、ソ連ではスターリン批判が始まり、1956年、ポスペーロフ委員会によってスターリンによる大粛清の全貌を明らかにした報告がなされ、秘密会議でフルシチョフがスターリン批判をした。日本共産党はこれに対して曖昧な態度をとったが、1961年の第8回党大会にかけて、急進的な社会主義革命をめざすトロツキストや、革命ではなく漸進的・改良的な方法による社会主義への転換を目指す構造改革派などが相次いで日本共産党を離党した。これとは別に、1958年には全日本学生自治会総連合の活動家であった香山健一森田実らが共産主義者同盟(ブント)を結成した。これらの諸党派が反代々木系とか新左翼と呼ばれた。60年安保では共産主義者同盟(ブント)が主導する全日本学生自治会総連合(全学連)は「安保を倒すか、ブントが倒れるか」を掲げ、総力を上げて、反安保闘争に取り組んだ。まだ第二次世界大戦終結から日が浅く、人々の「戦争」に対する拒否感が強かったことや東條内閣の閣僚であった岸首相本人への反感があったことも影響し、「安保は日本をアメリカの戦争に巻き込むもの(※在日米兵犯罪免責特権への批判もあり)」として、多くの市民が反対した。これに乗じて既成革新勢力である日本社会党や日本共産党は組織・支持団体を挙げて全力動員することで運動の高揚を図り、総評国鉄労働者を中心に「安保反対」を掲げた時限ストを数波にわたり行ったが、全学連の国会突入戦術には表面的な立場をとり続けた。とりわけ共産党は「極左冒険主義の全学連(トロツキスト集団[注釈 1])」を批判した。これに対し批判された当の全学連は、既成政党の穏健なデモ活動を「お焼香デモ」と非難した。
俺に言わせると、共産党もその分派も大差ない。学習とか総括とか、生硬だ。追い詰められれば内輪もめし、情より理屈を振りかざして人殺しまで至るのも分かる。

戦後から70年安保に至る20年間以上にわたり、多くの若者が共産党を含む左翼活動に参加した。何故だろう。戦中、捕まって拷問にあっても転向しなかった共産党員は出獄してきたら英雄になった。創価学会などの新興宗教もそうだが、戦中抑圧されていた反動で若者を引き付けたのだと思うが、1954年生まれの俺には想像がつかない。俺が物心ついたころには、革命を諦めたような共産党は若者にとって魅力的な存在ではなかったし、新左翼は非合法活動に入り、普通の若者には訴求力がなかった。一方、団塊の世代までの若者は、”はしか”にかかるように左翼活動に染まった。1950年生まれを境に、それ以前に生まれた者とそれ以降に生まれた者の間には大きなギャップがある。戦中禁じられていたものがその反動でブームになった。団塊の世代が物心つくまではそのブームが続いていたが、その後、急激にブームが去ったのではないか?

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