塩野七生 勝てば黄禍 負ければ野蛮
昨年(2025年)、「勝てば黄禍 負ければ野蛮」と題して文藝春秋に塩野七生さんが以下:
(前略) 日露戦争での海戦は、日本側の完勝で終わる。失ったのは水雷艇三隻のみ。一艦たりとも残さず撃沈せよ、と命じられた東郷平八郎以下の将兵たちはすさまじい重圧に苦しんだと思うが、見事にそれをはね返す。このときの海戦は、世界史上にも類を見ないほどの勝戦であったので、欧米人でも戦史研究者ならばわかっていて正当に評価してもいる。彼らはこれを「ツシマ沖海戦」と呼んでいるけれど、日本側はあくまでも、「日本海海戦」と言いつづけるべきであった。日本海の制海権がかかっていた海戦であったのだから。
ただし、正当に評価してくれたところまでは同じでも、その評価が理性的だと不平等条約の改正につながり日本のためになったのだが、感情的になるや「黄禍」になっていくのだから始末が悪い。今度の「黄禍」の旗ふり役は、ロシアとの講和の成立に人一倍力をつくしてくれたアメリカになるのである。そしてこの風潮は、わが日本にも責任がないわけではないのだから、さらに始末が悪いのだった。
「勝てば黄禍、負ければ野蛮」は何も、明治の昔の話ではない。
第二次大戦で敗れた日本に進駐してきたマッカーサー将軍が、日本は十二歳の少年、と言ったことを、あの頃少女であった私でも思い出す。あの時期の一ドルは三百六十円だった。その後に日本が経済成長をとげた時期、アメリカの議会前で議員たちが、日本製の自動車をたたき壊す情景をテレビで見たことも思い出す。その頃の一ドルは百二十円台まであがっていた。そして今、一ドルは、ヨーロッパでの購買力から見て、百八十円と思ったほうが安全。
問題は、為替だけではない。欧米メディアも東京には特派員を常駐させる必要はないと思っているのか、今や特派員は各国とも北京に。日本に関するニュースもこちらには北京経由で伝わる。中国経由だから、日本にとっては悪いことしか報じない。G7でも、日本の首相を写すカメラマンもいない。日本には、日本人の記者しか取材しない記事や日本人のカメラマンしか写さない写真が伝えられるのだろうが。
これが、「黄禍」と見なされなくなって久しい日本の姿である。「黄禍」と非難されなくなったことはけっこうでも、「野蛮」どころか問題にもされない存在になったことは確かな、今の日本の姿である。ということは、日露戦争に勝った日本は、その後長きにわたって、何一つ学ばなかったことになりはしないか。勝ってカブトの緒を締めよ、とか、建艦競争に熱心になったりするようなことばかりではなくて別のやり方で、「黄禍」的注目でなく、かといって「野蛮」的蔑視でもなく、それでも注目には値する存在への国の行方を探るとか。
「勝てば黄禍、負ければ野蛮」とは、欧米的な基準に基づいた判断である。それに従っているかぎり、日本は、まるでジェットコースターのように、急激に上ったり下がったりをくり返すだけの国になってしまう。それがイヤならば、欧米の判断基準を超越した“何か”を考え出さねばならない。「日本海海戦」だって、欧米の観戦武官や記者たちの判断を越えた基準を用意して勝ったのですよ。今のわれわれにだってできないはずはない、と思うけどいかが?
>>「欧米の判断基準を超越」と言うと、まず思いつくのは憲法1条と9条かな。民主主義を超越した天皇を温存していることと、捨身の平和論。いずれも「パワーなきものによる秩序」を象徴している。今は「欧米の判断基準」が大きく揺らいでいる時期だから、「超越した何か」を訴えるにはいいタイミングだ。声を出して訴えなくてもいい。黙ってそれを体現した国になる、というのも宣伝下手な日本人らしくていいのではないか。
閑話休題:
COPILOTによると、「黄禍(黄禍論)」は明確に人種差別の一種」だそうだ。差別用語となると、「こうか」と入れようが「おうか」と入れようが、”黄禍”には変換されない。なんとかならないものか???これでは”黄禍反対論”を書くのもままならぬ。差別を抑えようとすることが、差別を助長する・・・なんか、売春防止法が売春する人のためにならない、という話と似てないか?
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