ニクソン大統領のアメリカ
坪内祐三「一九七二」のおかげで日本の1972年を思い出した。しからば当時のアメリカは?・・・ Wiki「アメリカ合衆国の歴史 (1964-1980)」より:
1968年の大統領選:
ジョンソンが指名選挙戦から離脱するという機会を捉えて、ロバート・ケネディがやはり反戦という綱領に立って指名選挙戦に出馬した。ジョンソンの副大統領であるヒューバート・H・ハンフリーも指名を求めて出馬し、南ベトナム政府の支援を続けると約束した。
その夏、ロバート・ケネディが暗殺され、マッカーシーは党内特権階級の中にあったハンフリー支持を敗れなかった。ハンフリーが民主党の指名を獲得し、一般選挙では共和党のリチャード・ニクソンと戦った。ニクソンは、「ヒッピー」のカウンターカルチャーを毛嫌いする中道アメリカ人、通称「物言わぬ多数派」と呼ばれる人々に訴えた。またその「秘密の計画」で「名誉ある和平」によってベトナム戦争を終わらせると約束もした。「ベトナム化」と呼んだ戦争をベトナム人の手に任せてしまう戦略を確立するニクソン・ドクトリンを提案した。民主党が割れる中でニクソンは大統領選挙に当選した。
>>ベトナム戦争、ヒッピー、ドラッグ、暗殺の1960年代
ベトナム戦争:
ニクソンは、ベトナムから撤退することについて、それで人気を取れたとしても安請け合いしてしまったことが分かった。南ベトナムが単独で自国を防衛できるかという心配と、議会から軍隊引き上げの圧力が高まってきたこと、さらには一方的に戦費を削減して最終的に切ってしまうという方向に議会が傾いていったこととのバランスを取ろうとして、ニクソンは莫大な努力と政治的材料を使うことを強いられた。
これと同時にニクソンはベトナムでの戦争に関する大衆の敵意の正面に立つようになった。戦争の道徳性が問題であり続け、ソンミ村虐殺事件のような事件で戦争に対する支持が失われ、ベトナム化の労力を増した。
ウォーターゲート事件が問題になり始めたことがニクソンにとって大きな障害となり、さらに議会が提供していた南ベトナムに対するなけなしの財政支援も、南ベトナム政府と軍人との汚職によって雲散霧消していた。
1973年のパリ休戦合意に基づいてアメリカ合衆国は遂にベトナムから軍隊を撤退させた。しかし幾らかの支援部隊は2年後まで残り、サイゴン政権の崩壊と北ベトナムが全土を支配したときに脱出した。ベトナム戦争の実質的な終戦は1975年4月30日だった。
最終的に500万人のベトナム人が殺され、約58,000人のアメリカ軍兵士が死んだ。隣接するカンボジアのクメール・ルージュによる被害はさらに甚大だった。ベトナム戦争による不安定化と、その紛争で周囲が動転したことでクメール・ルージュの残虐行為を横行させるままになった。
アメリカの競争力低下・変動相場制:
ジョンソン大統領は1964年の減税を議会に認めさせたのと同時に、国内での施策とベトナム戦争にかかる費用を急速に増加させていた。その結果は貨幣供給量の大きな拡大であり、財政支出は赤字になり、急速に物価を押し上げることになった。しかしインフレは国際貿易におけるアメリカ合衆国の優越性を着実に衰えさせており、第二次世界大戦の終戦以降続いていたアメリカ合衆国の世界経済、地政学、商業、技術および文化的な優越性を傾けていた。1945年以降、アメリカ合衆国は原材料を手に入れやすく、海外で自国製品のそこそこの市場を得られる状態が続いていた。戦後のヨーロッパが崩壊していたために、アメリカ合衆国は世界の工業生産高の3分の1ほどを生産していた。1960年代までに、工業国が次第に希少な一次産品で競合するようになっただけでなく、第三世界諸国も次第に高い代価を要求するようになっていた。自動車産業と鉄鋼産業はアメリカ国内市場に入ってきた外国製品によって厳しい競合に直面し始めてもいた。
ニクソンは高い税金と少ない支出によって「スタグフレーション」と呼ばれた緩りとした成長とインフレに取り組むと約束した。しかしこれには議会の強硬な抵抗があった。その結果ニクソンはやり方を変えて通貨を規制する道を選んだ。連邦準備銀行は高利率によって通貨供給量の縮小を望んだが、あまり効果は無かった。
1971年夏までにニクソンは経済の潮流を変えるために決定的な行動を採れという大衆からの強い圧力を受けていた。8月15日、ニクソンは米ドルの金兌換制を停止した(ニクソン・ショック)。これは第二次世界大戦以来続いていたブレトン・ウッズ体制の崩壊を意味していた。その結果、米ドルの価値は世界市場で急落した。米ドルの切り下げはアメリカの輸出には貢献したが、海外の必需品、原材料および完成品をより高い価格で購入することにもなった。(略)
事態をさらに悪くしたのは石油輸出国機構がその力を誇示し始めたことだった。国内の自動車と家屋の事情は、郊外の大きな家屋と大きな自動車を所有するのが普通になってきており、その燃料となる石油はその利益のために戦いを始めた第三世界諸国の経済と政治の道具になってきていた。1973年の第四次中東戦争に続いて、石油輸出国機構のアラブ諸国はイスラエルを支持する国家すなわちアメリカ合衆国や西欧諸国に石油を供給しないという声明を出した。これと同時に石油輸出国機構の他の諸国は原油価格の400%値上げに同意した。これが1973年オイルショックとなり、アメリカ合衆国の自家用車所有者はガソリンスタンドの給油を待つ長い行列を作ることになった。公共および民間の施設は暖房用石油を節約するために閉鎖された。工場は生産を止め、労働者を一時解雇した。石油の禁輸以外の1つの要素が1970年代のインフレ拡大を生んだほど大きな力を発揮したことは無かった。ただし、この事件はこの10年間を特徴付けるエネルギー危機のほんの端緒に過ぎなかった。
>>アメリカの戦争・慢心による競争力低下とヨーロッパの復興、第三国の台頭(インフレ)→スタグフレーション→1944年に始まった米ドルを基軸通貨とした固定為替相場制(金も1オンス=35ドルの固定相場で兌換)としたブレトンウッズ体制の停止。これによって米ドルは絶対的基軸通貨の座から降りた。それでも石油を中心とした貿易の決済を米ドル建てにすることで辛うじて実質上の基軸通貨であることは維持してきた。アメリカは世界で唯一為替相場を気にしなくてすむ国になった。そのことが製造業のコスト競争力を弱め、アメリカは他国からの安い輸入品のターゲットとなった。アメリカは共産主義に対する過剰な?恐怖心から、自国を共産主義から守るには多くの自由主義諸国と同盟し、その同盟国を共産主義から守らなくてはならない、と考えて軍事・経済において無理・無駄なコスト負担をしてきた。これをひっくり返そうというのがトランプだ。これは、コストを軽減することと引き換えに今まで他国からあてにされ、リスペクトされてきたリーダーの地位を捨てるということだ。リーダーなき世界は混乱する・・・混乱はいつかおさまるだろう。それがどういうかたちに落ち着くのか?リタイアして傍観者足らざるを得ない俺にとっては興味深いところだ。
デタント:
1972年から1973年、2つの超大国が互いの支援を求めた。ニクソン大統領は突然中国を訪れた後で、戦略核の開発を制限するためにソビエト連邦のレオニード・ブレジネフ第一書記とSALT I条約(第一次戦略兵器制限交渉)に調印した。
「デタント」(緊張緩和)は両超大国にとって戦略的にも経済的にも利益があった。兵器の制限によって脹れ上がった防衛予算の果てしない拡大を緩和することができた。それ以前は、ジョンソン政権で共産軍を破ることができずに、戦争遂行のための赤字予算がその後のアメリカ合衆国経済を弱体化させ、「スタグフレーション」の時代をもたらしていた。一方、ソビエト連邦は中ソ国境での流血を伴う衝突を止められず、またソビエト経済の衰退を下支えすることもできていなかった。これには重い軍事支出が一つの原因になっていた。両大国はアフリカやアジアにおける新興国を尊重することでも合意した。
しかしデタントは中東やアフリカ、特にアフリカ南部と東部での紛争勃発で挫折した。両国は、特にチリのような資源の豊富な第三世界諸国に影響を与え続けることでも競走を続けた。
アメリカ人の大半は、冷戦とは自由世界の全体主義に対する戦いだという主張を信じていた。しかしアメリカ合衆国は、チリの社会主義者大統領サルバドール・アジェンデ*のように選挙で選ばれていた場合であってもマルクス主義者だと認識する政府について、1950年代に行ったのと同じように転覆を謀った。(略)*1970年当選→1973年CIAに支援されたクーデターが起きて自殺
>>何故、アメリカ人は共産主義が怖いのか?(日本人は「どうせ大したことできない」と共産党を馬鹿にしている)また、マムダニ・ニューヨーク市長のような民主社会主義者は暗殺されるようなことはないのか?アメリカ全体が社会主義化、共産化することは俺には考えられないが・・・
ウォーターゲート事件:
1972年、ニクソンは共和党の大統領候補指名を獲得し、民主党候補のジョージ・マクガヴァンと戦った。マクガヴァンはベトナム戦争を終わらせることと、国民の貧窮層に最低収入を確保する制度を綱領で訴えた。マクガバヴァンは副大統領候補であるトマス・イーグルトンとのこじれ(結局は辞退してサージェント・シュライバーに代わった)や、共和党の選挙運動によって受け容れにくい急進派と烙印を捺されたことで苦戦し、最終結果はマクガバン38%対現職のニクソン61%という大差で敗北した。
しかしニクソンはウォーターゲート・オフィスビルにある民主党事務所に対する盗聴を教唆し隠蔽した容疑で捜査を受けた。アメリカ合衆国下院司法委員会は1974年5月9日にニクソンに対する正式かつ公開の公聴会を開催した。ニクソンは下院の弾劾に直面して上院での有罪確定に合うよりも辞任する道を選んだ。辞任は1974年8月9日に有効となった。その後継者ジェラルド・R・フォードは中道共和党員であり、ニクソンに対する先制的恩赦を発行し、事件調査を終わらせた。(ちなみにフォードは1976年の大統領選で民主党のカーターに負けた。つまり、選挙なしで大統領になった)
>>対立候補に対する盗聴なんて他にはないのか?誰でもいつでもやってるんじゃあないか?
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